・「因果応報」というが、問題はいったい何が善で何が悪かということである。スピリチュアリズムではそ
れを「霊性の進化」を基準にして考える。すなわち進化を促すものが善であり、それを妨げるものが悪で
あるという考えである。となると、一般通念から言って、それは必ずしも愉しいもの、楽なもの、幸せな
ものとはかぎらないということになろう。むしろ、辛く、苦しく、そして我慢を強いられるものであるこ
との方が多いであろう。スピリチュアリズムがいわゆる「ご利益」を説かない理由はそこにある。
・このようにスピリチュアリズムでいう因果律は、機械的に自動的に作動するものではあっても、その背後
に霊性の進化を促すという目的があるという点が肝心なところであるが、その他にも大切な要素が二つあ
る。一つは、因果律は一平面上の図式的なものではなく無数の次元があり、それらが複雑に絡み合ってい
ること。もう一つは、それとも関連していることであるが、因果律は自動的にすぐさま作動するものであ
るが、今も言うように次元の異なる要素が複雑に絡み合っているために、必ずしも地上生活の期間中に結
果が生じるとはかぎらないということ。端的に言うと、こういうことをすればこうなるという因果関係は、
人間の推理の範疇を超えているということである。
「人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅 近藤千雄著より」
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「因果律」「因果応報」と聞くと、なんか「悪いことをしたら罰が与えられる」に直結してしまいますよね。
「カルマ」という言葉のニュアンスもそうですね。
「カルマ」をググってみると、「業」のページに飛びます。 カルマ - 仏教の基本概念。日本語では「業」と訳される。
となっています。
業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマン(真我)に代々伝えら
れると考えられた。アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされ
た。中国、日本の思想にも影響を与える。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。
現在日常的にこの語を使う場合は、行為で生じる罪悪を意味したり(例えば「業が深い」)、不合理だと思っても
やってしまう宿命的な行為という意味で使ったりすることが多い。by wikipedia
それはともかく・・・
私たちは、現世ご利益を願い、「辛いこと」「苦しいこと」が起きませんようにと祈るわけですが、スピリチュアリズム
では、その「辛いこと」「苦しいこと」が霊性を高める、進化を促すのであれば、「悪」ではなく「善」だという事のよう
です。できることなら、平穏無事、何事も無いのが平和・・・・と思ってしまいますけれど。しかし、挫折を乗り越えた
り、窮地を脱したりする経験をすれば、人間的に一周りも二周りも大きくなり、懐が深くなるのも確かですよね。
もう一つ・・・
この「因果律」は、今世(地上生活時代)において、跳ね返ってくるとは限らないようです。どんなに悪行を重ねても、
何も悪いことが起きずに幸せの中で死んでいく人もいるかもしれない、しかし、それはあの世において清算される
のかもしれない。次の再生時に持ち越されるのかもしれない。因果律は機械的・自動的に作動するものだけれど、
それが何時起きるかは分からないようです。
私的には、出逢った事象において、それぞれに対する「思いやり」や「寄り添い」などを無視した自己中心性が、
眼の前のカガミに映し出されて跳ね返される精神・思考の攻撃が因果律なのではないかと思うのです。