Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

壺と棒倒し

2023年01月04日 06時30分30秒 | Weblog
憲法の土壌を培養する~「政治的階層と知的階層」(木庭 顕)
 「とはいえ、焦燥感だけは1980年代初頭からあり、空疎な「改革」のかけ声が連呼されていく。再産業化のフェイズ終了の波は外からの圧力として押し寄せていた。しかし「改革」の中身は、再産業化を支えたなけなしの制度的基盤に、利益集団が襲いかかり、それを利益強奪の道具に変える、そのプロセスであった。この言わば「準備期」における混乱した処方箋は世界に共通のものであったが、日本に独特な点は、再産業化における信用面での(社会保障を含む)国家一元化解消という動機が欠けたことである。否、かけ声は模倣された。privatization はしかしながら一元的信用装置へ向かっての棒倒しの競技にほかならなかった。経済社会が一元的な信用=利益分配装置に却って強固に依存するようになった。」(p298)

 しょっちゅう引用する「憲法の土壌を培養する」だが、何度読んでも味わい深い。
 とりわけ、木庭先生の「政治的階層と知的階層」の中の「補遺:2020年における日本の状況」は、現代日本のカルテと処方箋といってもよいくらいの、圧巻のくだりである。
 上に引用したのは、80年代以降の日本の大きな流れに関する記述だが、この流れは現在も続いている。
 (誰のものでもない)「国家」不存在の状況にあって、主に「国庫」を巡る「棒倒し」が、際限もなく繰り広げられているのである。
 (言われてみれば、社会保障の国家一元化が解消出来ないのは日本独特の問題であるが、これも信用崩壊のため民間による代替が出来ないのである。)
 この「棒倒し」という言葉のところで、私は苦笑してしまった。
 これは単なる比喩ではなく、本当に「棒倒し」が大好きな集団が、血眼になって「一元的な信用=利益分配装置」に群がっているのではないかと思えてしまうからである。
 今や、政界では「壺」が、官界・財界(医師会や一部の法曹などを含む)では「棒倒し」が、トレンドなのかもしれない。
 この本の別の箇所では、東大法学部生の「没知性」傾向が批判されているので(「知的信用」)、中等教育と高等教育の抜本的な改革が必要なことは間違いないだろう。
 さもないと、「知的階層」たるべき人材が、どんどん「棒倒し協議の選手」向けに養成され、「棒倒し競技」に動員され続けてしまうからである。
コメント
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