Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

共苦、あるいは集団苦

2024年03月07日 06時30分00秒 | Weblog
 「安楽は「改めてお詫(わ)び申し上げます」と当該選手、チームメート、ファンらに謝罪。「私は当該選手を含め後輩のことが大好きで、決していじめようと思ってしたことは一度もありません。私なりのコミュニケーションのつもりでやっていたことでしたが、受け取る側の気持ちを十分に考えられておらず、行動が誤っていたこと、認識が甘かったことを痛感しております」と反省の言葉を述べた。

 典型的なパワハラ加害者の弁解である。
 パワハラ研修でよく取り上げられる、あるパワハラ自殺の事案のこと。
 加害者である上司は、被害者である部下の葬儀に訪れ、遺族に対し、心からの悲しみと同情の言葉を述べていたそうである。
 この上司は、部下を「可愛がって」おり、自分が部下を死なせたという認識が欠けていたのである。
 「可愛い」、「大好き」という感情、あるいは「コミュニケーション」が暴力と言う形に転化する理由については、様々な説明が試みられてきた。
 私は、軍事化イニシエーションを悪用(誤用)したタイプの暴力について言えば、「共苦」(Mitleid)に関するニーチェ先生の指摘が参考になると思う(なお、ニーチェ先生が「共苦」という言葉を使う時は、一般的な「同情」という意味で解するのがよい場合と、「ともに苦しみを味わう」という意味に解するのがよい場合とがあるが、ここで取り上げるのは後者の用法である。)。
 つまり、「ツァラトゥストラ」で念頭におかれていた「精神的な苦しみ」を、「肉体的な苦しみ」に置き換えた上で、「共苦」を「淫欲」(Wollust)が変装したもの、すなわち抑圧されたリビドーの発現として捉えるのである (「共苦」の正体)。
 端的に言えばサディズムであるが、軍事化イニシエーションでは加害者自身も「苦しみを共にする」ため、これが隠蔽される、あるいは、加害者のマゾヒズム的欲求が同時に満たされる、という解釈が出来るのではないだろうか?
 こうなると、もはや「共苦」というより「集団苦」と呼ぶ方が適切かもしれない。
 


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