「安楽は「改めてお詫(わ)び申し上げます」と当該選手、チームメート、ファンらに謝罪。「私は当該選手を含め後輩のことが大好きで、決していじめようと思ってしたことは一度もありません。私なりのコミュニケーションのつもりでやっていたことでしたが、受け取る側の気持ちを十分に考えられておらず、行動が誤っていたこと、認識が甘かったことを痛感しております」と反省の言葉を述べた。」
典型的なパワハラ加害者の弁解である。
パワハラ研修でよく取り上げられる、あるパワハラ自殺の事案のこと。
加害者である上司は、被害者である部下の葬儀に訪れ、遺族に対し、心からの悲しみと同情の言葉を述べていたそうである。
この上司は、部下を「可愛がって」おり、自分が部下を死なせたという認識が欠けていたのである。
「可愛い」、「大好き」という感情、あるいは「コミュニケーション」が暴力と言う形に転化する理由については、様々な説明が試みられてきた。
私は、軍事化イニシエーションを悪用(誤用)したタイプの暴力について言えば、「共苦」(Mitleid)に関するニーチェ先生の指摘が参考になると思う(なお、ニーチェ先生が「共苦」という言葉を使う時は、一般的な「同情」という意味で解するのがよい場合と、「ともに苦しみを味わう」という意味に解するのがよい場合とがあるが、ここで取り上げるのは後者の用法である。)。
つまり、「ツァラトゥストラ」で念頭におかれていた「精神的な苦しみ」を、「肉体的な苦しみ」に置き換えた上で、「共苦」を「淫欲」(Wollust)が変装したもの、すなわち抑圧されたリビドーの発現として捉えるのである (「共苦」の正体)。
端的に言えばサディズムであるが、軍事化イニシエーションでは加害者自身も「苦しみを共にする」ため、これが隠蔽される、あるいは、加害者のマゾヒズム的欲求が同時に満たされる、という解釈が出来るのではないだろうか?
こうなると、もはや「共苦」というより「集団苦」と呼ぶ方が適切かもしれない。