Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

犠牲死と復活

2024年04月15日 06時30分00秒 | Weblog
 「2024年の東京・春・音楽祭で注目される演目の一つに、ブルックナーの《ミサ曲第3番ヘ短調》(WAB 28)がある。今年で生誕200年を迎えた作曲家アントン・ブルックナー(1824~1896)は、今日では交響曲の作曲家としてよく知られているが、彼が交響曲に身を捧げるようになったのは40歳を過ぎた後半生のことである。前半生はオルガン奏者として活躍し、作曲家として宗教音楽を多く手掛けており、《ミサ曲第3番》はその集大成とも位置付けられる作品だ。
 ・・・最終楽章〈アニュス・デイ〉は「神の子羊」の意で、平和の賛歌だ。暗鬱としたヘ短調で始まるが、後半部ではキリエやグローリアの旋律が回帰し、へ長調で平安のうちに曲を締めくくる。

 ブルックナー生誕200年ということで、彼の「ミサ曲第3番」が上演された。
 もっとも、非キリスト教徒にとって、「ミサ曲」の内容を理解するのは容易ではない。
 「キリエ」(主よ憐れみたまえ)という許しを請うかのような文言で始まり、「アニュス・デイ」(神の子羊)で終わるという流れは、やはりテクスト外の問題を考慮しなければ理解出来ないだろう。
 ここは、「アニュス・デイ」から入るのが素人にとっては分かりやすいと思う。

  「その翌日、彼(注:バプテスマのヨハネ)はイエスが自分の方へ来るのを目にして言う、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」」(p7)
 「子羊と罪の除去については、イザ五十三6-7、エレ二-19、Ⅰペト一19、黙五6-12参照」(p6)

 「罪」、「子羊」は、旧約聖書に由来するもので、当時のユダヤ社会において、罪を贖うため子羊を犠牲として神に捧げていたことを踏まえたものである。
 ここで前提となっているのは、私が勝手に「モース=ユベール・モデル」と名付けた死生観と思われる(命と壺(5))。
 ということは、
① 「罪」によって、ある主体:Xの命が失われるという出来事が起こった。つまり、Xの命が媒介物から分離された。
② Xの命を聖界から俗界に呼び戻すための媒介物=「乗り物」として、子羊=イエスの身体が捧げられた。そして、この「犠牲死」の供犠は、Xによって嘉納された。
③ のみならず、イエスの命はXの命と同様、「霊の命」と合一化した上で、媒介物=イエスの身体に宿るという形で俗界に(再)降臨した。
という過程が成り立ちそうである(あくまで推測)。
 ここでのポイントは、③にある。
 すなわち、イエスの命は俗界と聖界を単純に行き来するのではなく、聖界で「霊の命」と合一化した上で、”復活”するというところである。
 これは、言うまでもなく、パウロの独創的な思考(<第二の生命>中心主義)に基づくものであり、当時のユダヤ教的な思考であれば、「罪を子羊によって浄めたらひとまず終了」(①②だけで③はない)という結末になっていたと思われる。
 以上に対して、「キリエ」については、フロイト先生の説明がいちばんしっくり来るように思う。

 「・・・感嘆と畏怖のまとであった父親の殺害へとかつて息子たちを駆り立てた敵愾心が時がたつにつれて動き出すのは起こりうることであった。モーセ教の枠のなかでは殺意のこもった父親憎悪が間接的に顕在化する余地はなかった。おもてに現れたのはこの憎悪に対する強烈な反応だけであった。このような敵愾心ゆえに生じる罪の意識、神に対して罪を犯してしまったのに罪を犯すのをやめることができない、という良心のやましさがおもてに現れたのである。
 「これから先の展開はユダヤ教固有のものを越えて進む。原父の悲劇から回帰してきたその他の事柄は、もはやいかなる仕方においてもモーセ教とだけ結びつくものではなくなっていた。・・・この重苦しい暗い状況の由来の解明はユダヤ教固有のものに基づいていた。至るところでこの由来の解明への接近と心構えが示されたのだが、この事態への洞察がはじめて顕現してきた精神の持ち主は、やはりひとりのユダヤ人の男であった。すなわちタルスス出身のサウロ、ローマ市民としてパウロと名のっていた男であった。われわれは父なる神を殺害してしまったがゆえにかくも不幸なのだ、という洞察。そして、パウロという男が、この真理の一片を、罪を贖うべくわれわれの中のひとりの男がその命を犠牲として供したゆえわれわれはあらゆる罪から救済された、という妄想めいた福音という偽装されたかたちでしか理解できなかったのは大変よくわかる話だ。」(p223~226)

 フロイト先生の解釈は次のとおり:
 ユダヤの民をエジプトから解放したモーセは、実はエジプト人であり、先進的な宗教(モーセ教)をユダヤの民に強制したために反発を買って打ち殺された。
 その後、ヤハウェ崇拝がこれにとって代わったが、ユダヤ人たちは「原父の殺害」という原罪意識に苛まれ続けた。
 ところが、同胞のうちの一人=イエスが”子羊”となって犠牲死を遂げることとなり、ここに至ってようやく自身らは「罪」から解放された、とパウロが後に解釈することとなった。
 
 でも、「復活」というところはフロイト先生の説ではうまく説明出来ない。
 なので、モース先生らの助けを借りる必要があると思うのだ。



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