「豊かな家庭に育っても、知的な信用が入っていない」エリート大学生が大量に出現してしまうのは、中等教育に問題があるためと考えられる(知的信用)。
こうした観点からすると、中高一貫校の中には、教育体制(校風?)に問題のあるところがチラホラあるようだ。
問題というのは、要するに「集団思考」・「集団志向」である。
しかも、この現象が、甲子園と霞が関・永田町とで同時に見られるというのは興味深い。
ところで、歴史的に見て、集団への帰属原理として最も強力なのは「血と土」(血縁とテリトリー)だった。
なので、かつての甲子園大会では、観客や視聴者の多くが「我が郷土の代表」を応援してきたわけである。
ところが、今や「血と土」のパワーは、血縁・地縁共同体の崩壊によって、かつてないほどにまで弱まっている(と思う)。
もちろん、これに代替するものとして、昭和30年代から「カイシャ」が台頭してきた(なので、「モーレツ社員」が激増した)。
だが、近年では、「カイシャ」に帰属意識を持つ若者は減っている。
それもそのはず、正社員になれるのは一部の人たちだけなのだ。
そうした中で、エリート階層への参入を保証してくれる、(ごく一部の)学校は、かつての「血と土」に代わるものとしてのパワーを見せつけているようだ。
もっとも、上で指摘したように、これが「知的信用」の欠乏を招いている可能性もあるわけだ。
最も懸念すべきは、「多数を以てしても圧服できない個人の尊厳という考え方」(丸山先生の錯覚?)がおよそ理解出来ない思考に支配されてしまうことである。
のみならず、この種のメンタリティが蔓延している状況では、(ある作家が至上の価値として掲げた)「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本 」が現前化する可能性はゼロである。
なぜなら、彼ら/彼女らにとって最も重要な帰属集団は、「日本」ではないからである。