「教えるということ」 2024.9月
自分が弟子だった頃は、兄弟弟子たちと切磋琢磨しながら、時に厳しく、時に楽しくやってきた。独り立ちして4年間、一人で必死にやってきた。新しく広い店舗に移ることにしたのは、スタッフと意見やアイデアを出し合いながら多くの患者さんを治療し、共に向上していきたいと思ったからだ。
そんな時看護師として病院に勤務しながら、休日にマッサージを学びたいという人が現れた。彼女は入院病棟の看護師で患者と接する中で手足を擦ったりすることも医療の一つと考え、この学びがきっと将来何かに役立つと信じていた。
私自身も自分のスタイルが治療なのかリラクゼーションなのか自問することになった。私は治せる治療家になりたいと思っている。ビッグマッサーに行けば何とかしてくれる。期待してもらえる人間になりたい。マッサージや整体などの徒手療法は、最初は痛みを取ることが目的になるので入り口は治療のことが多い。しかし何度か通っているうちに痛みがなくなり、いつしかリラクゼーションに変わっていく。人は誰しも気持ち良さを味わいたいものだ。痛みを感じている段階では少なからず痛みも伴うが、その痛みが徐々に薄れるに連れて安堵感や幸福感を味わうことになる。私は治療かリラクゼーションかを区別せずマッサージの本当の気持ちよさを味わって欲しいと考えている。
マッサージの押す順番、回数、角度と基本的なことを最初に教えて形にすることまではできるが、重要なのは、押し方ではなく、なぜそこを押すのかということを説明できることだ。揉む方法は自由でいい。本質は解剖学の中にある。だから勉強が必要なのだ。給料を払ってモノになるまで真剣に教えていると自分がどうやってここまで来たのかを振り返る。早く一人前になって自由になる。自由というのは、何の不安もなく自分の裁量で自由に施術ができるようになることだ。その域に達したいという野心が自分を駆り立てていた。人を雇ってみて初めて気付いたことだ。