サーファー院長の骨休め

“ビッグマッサータハラ”のライフスタイル

本当は、ハワイに行くはずだった。

2023-12-20 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「本当は、ハワイに行くはずだった。」       2023.12月

 20歳の時、ハワイオアフ島ノースショアにサーフィン修行に行った。しかし、自分の技量では全く通用しなかった。毎日恐怖との闘い。危険な波に打ちのめされて帰ってきた。
 
 その濃厚な一か月間が人生を考えるきっかけとなった。それまではサーフィンさえできればそれでよかった。それからはサーフィンを続けられる環境をどうやって維持できるかがテーマになった。「ハワイに住む。」一サーファーとして。その時点で生きて行くために必要なスキルは何も持っていなかった。自分はいったい何ができるのか?発想はそこからだった。そこで閃いたのがマッサージ師だった。まず手に職をつける。それが目標になった。簡単ではないと分かっていたから夢を追い続けた。

 それから9年掛けて生きて行くための武器を身に付けた。そろそろハワイ行きをという時、色々な人に相談をした。実際にハワイに移り住み仕事をしている人からは、「ハワイは観光客相手の商売が中心になる。あなたのやりたいようなロコを相手とするようなマッサージ業では飯は食えないよ。」その言葉に気持ちが揺らいだ。簡単にアメリカ本土に行き先を切り替えた。9年間のマッサージ修行で自信もついて、自分を試したかった。また大波に挑戦しようとしている。

 アメリカの日本人向けの新聞を取り寄せ、マッサージ師の求人広告を調べ、西海岸から東海岸まで片っ端から手紙や電話をした。しかし、誰も相手にしてくれなかった。そんな中、ニューヨークのある治療院は、留守番電話になっていた。ここぞとばかり思いの丈を吹き込んだ。時間切れでピーと鳴るともう一回掛け直し、続きを訴えた。

 2日後そこのオーナーから電話が掛かってきた。「留守電聞きました。今度伊豆に旅行に行くので、会いませんか?」年配の日本人女性の声だった。ニューヨークでもサーフィンができることを調べた上で会いに行った。質問を用意し話を聞いた。「そんなに興味があるのなら一度私の治療院に来なさい。」ニューヨークに飛んだ。マンハッタンの中心部のビルの2階にあった。「せっかくだから施術してみる?」と言われ、肩こりの白人ビジネスマンを施術させてもらった。感触があった。

 その帰り、マンハッタンの摩天楼を見下ろす超高層ビルの展望台に昇ると夕陽に照らされた自由の女神が見えた。「俺はここで世界一のマッサージ師になる。」腹の奥が震えていた。

 数か月後、アメリカ大使館で渡航の手続きをした。ビザは降りなかった。

 つづく。


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「三助」

2023-11-18 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「三助」                 2023.11月

 椎間板ヘルニアで緊急入院し、痛みでベッドに横になることができず、手術までの5日間ずっと四つん這いで過ごしていました。手術前日に体を清潔にするということで、風呂場に運ばれました。ストレッチャーの上で四つん這いのまま服を脱がされ、紙おむつをはずし、導尿の管を垂れ下げながら裸になりました。もうまな板の上の鯉です。「お湯をかけますよー。」と2人の女性看護スタッフが二手に別れ、せっけんを染み込ませたタオルで全身を洗ってくれました。温かいお湯が冷えた肌を伝いとても心地よかった。洗ってもらいながら「こういう仕事もあるんだな。」と考えていました。10分ほどで終わり、乾いたタオルで拭いてもらいさっぱりしました。これまで長い時間痛みと闘いながら過ごし、体は冷え切り、疲弊しているところに温かいお湯を浴びただけでも精神的に楽になりました。

 実は、私は数年前に体を洗うという職業を「三助(さんすけ)」という形で見付け出し、興味を持ちました。三助とは、銭湯の番頭さんの業務の一環で、お客さんの背中を流すサービスをする人のことです。今はこのような人はいなくなりましたが、三助をやってみたいと考えていたことがあることを思い出していました。

 無事手術も終わり退院し、さっそく三助のことを調べてみました。すると東京のある銭湯につい最近まで三助がいたということが分かり問い合わせました。しかし、数年前に三助は止めてしまったそうです。しかし、近い将来また三助を復活させたいとのことで、一度会うことになりました。そこで私はその銭湯の女将さんに自分の入院中に体験した体洗いのことを話しました。するとその女将さんも以前病気を患った時に味わった温浴の大切さを銭湯の経営者として改めて認識し、再び三助が世の中に必要になる時が来るはずだということで、私に三助の伝統の技を伝授してくれることになり、以前そこで働いていた三助さんに直接教わることになりました。その方も私と同じ現役のあん摩指圧マッサージ師でした。三助の特徴的な技、拍打法は、手のひらを窪ませてパンパンと背中を叩く手技ですが、あれは古来あん摩の技術です。マッサージ師は三助に一番近い技術を持っていると言えます。風呂場で実際に私の背中にやっていただき、背中で感じながら、鏡越しに動きを見ながら習得しました。今後どのような形で三助の活動ができるのか模索していきます。







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「ヘルニア闘病記 挑戦」

2023-10-19 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ヘルニア闘病記 挑戦」             2023.10月

 ヘルニアの手術後2日目で脚の痛みがなくなり、目の前のドアが開いた。その時、「全日本に出る。」と決めた。「全日本サーフィン選手権大会」アマチュアサーフィンの最高峰の大会が宮崎で行われる。17歳で初めて出場して以来何度か出て来たが、今はかなりのブランクがある。そう簡単ではないが、達成しがいのある目標だ。実は、私の長女が前年に優勝しているため、シード選手として出場することが決まっている。彼女も数年前に私と同じヘルニアの手術をし、克服している。「親子で全日本、これだ!」ドラマを作ろう。

 5月の予選会まであと2か月、プランを考える。ゴールまでの道のりをより具体化し、頭でイメージする。スケジュールを書きながら自分の本気度を確かめる。日数も限られている。海に入れない日は、海岸を歩き、陸でトレーニングをした。「なぜ全日本に出たいのか?」それを何度も自分に問う。私は、サーファーであり、治療師だ。ビッグマッサータハラはヘルニアを克服し完全に復活した。それがゴールだ。

 本戦への切符は地区予選を2位以内に入らないと獲得できない。予選会当日は波が大きくハードだったが、夢中でパドルし波に乗った。結果は何と2位!全日本行きが決定した。「願えば叶うんだ。」我ながら凄いと思った。

 全日本本戦は敢え無く予選で敗退してしまった。全国大会で戦うには実力が足りなかった。ここを経験したことで、また自分を押し上げることができる。9か月前までは、這いずって歩いていた自分がこうして親子で全日本にまで行くことができた。まさにミラクル。来年還暦。まだまだ衰えていないという所を見せていきたい。

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サーファー院長の骨休め 「ヘルニア闘病記 検証」

2023-09-25 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ヘルニア闘病記 検証」                   2023.9月

 東京にオリンピックが来るということになった時、「選手のマッサージをする。」と目標を定め、10年近くそれに懸けてきた。休日は勉強会に参加し、現場でトレーナーの仕事をし、英会話も学んだ。積み上げてきた経験が審査され、採用試験に合格した。しかし、コロナでオリンピックは延期となってしまい、病気療養中だった父が他界し、悲しむ母と向き合った。一年後、選手村でオリンピック選手をマッサージするという夢が実現した。

 父の一周忌が終わった頃、長い間オリンピックのため封印していたサーファーとしての情熱が沸き上がってきた。「また大会に出たい。」10年振りにエントリーしたのは、夏の終わりだった。開催まで2か月余り、休日や仕事前に練習した。久々に燃えるものがあり、最初のうちは順調だったが、練習量が増えたことと仕事の忙しさも相まって腰に痛みを感じた。大会が迫る中無理をしてしまい悪化した。結局大会はキャンセルしてしまったが、開催地が好きな波の立つ福井県だったので、秋の日本海も見たかったし、温泉でも入って療養しようと強行した。長時間の運転でダメを押し、現地では歩くことすらままならなくなり、帰ってきたその3日後に入院、手術することになってしまった。この何年か色々なことがあった。疲労も顧みず結果的にオーバーワークとなり、それが病を起こすきっかけになってしまった。

 サーフィンは背腰部への負担が大きい。自分自身股関節を取り巻く筋力や脊柱を安定させる能力の弱化などを専門家に指摘されていたので、助言を請いながらトレーニングしてきたつもりだった。オーバーワークや体のケアが反省すべき問題なのか。

 自分の腰痛がなぜ起こるのか。そのメカニズムが知りたい。腰を患った19歳にしてこの学問を真剣に学ぼうと思ったのではないか。それがいつしか人の体を治すことに焦点が移り、人の体を診ながら自分の体探しをし、自分の身を持って研究をし続けている。自分を客観視することは難しい。




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サーファー院長の骨休め 「ヘルニア闘病記 退院の日」

2023-09-25 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ヘルニア闘病記 退院の日」                 2023.8月

 腰部椎間板ヘルニアの手術からリハビリを経て12日目、傷口の状態も良好、日常生活に支障がないということで、ようやく退院することになりました。腰部を切開し、脊椎に穴を開け、顕微鏡を見ながら飛び出している髄核や繊維輪を取り除く手術をしました。これにより、右脚の痛みは95%良くなりました。ここまで良くなったのは、主治医の先生を始め、医療スタッフのみなさんのおかげです。自分も医療の末端で働く者として、この入院生活はとても勉強になりました。ありがとうございました。

 退院当日は寒い雨の日でした。入院の日は這いずって来たのに、こうして腰を伸ばして歩いて帰ることができました。家に帰り、シャッターの閉まった治療院に座ると、予約表の全ての名前に取り消しの×印が付いていました。これからどうやって健康を回復させ、信用を取り戻すのか考えなければなりませんでした。
 そんな時、玄関のチャイムが鳴りました。いつも治療に来ていただいている患者さんでした。「先生、大丈夫ですか。電話で聞いてびっくりしました。先生でもこういうことがあるんですね。ご無理はなさらないでくださいね。先生にはいつまでも元気でいてもらわないと困るんですから。」とおっしゃっていただきました。その後も患者さんや友人が訪ねてくれ、とても励まされました。

 マイナスからのスタートになる。自分が復活していく姿を見てもらい信頼を取り戻す。この経験を糧にするしかありません。1か月後から仕事を開始すると決めました。知り合いの理学療法士にトレーニングメニューを作ってもらい体作り。プールでは歩行訓練を行いました。これは後に自分の体験談として患者さんに話すことができます。また、新しい治療法を調べたり、英会話も勉強しました。こうして何とか仕事ができるまで回復し、心配をお掛けした患者さんも徐々に戻って来てくれました。

 3か月が経った頃、トレーナーが「そろそろサーフィンできるんじゃないですか?」と言ってきましたが、私は「まだ早い。」と思いました。「全身の関節を動かすことがリハビリになる。」との一言に心が揺れました。最初は腰を折り曲げる動作のないSUPで海に入ってみました。まだ3月の海は冷たかったですが、気分がとても良かった。その後サーフィンもチャレンジし、無事ボードの上に立つことができた時はとても嬉しかったです。




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サーファー院長の骨休め 「ヘルニア闘病記 復活への道」

2023-09-25 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ヘルニア闘病記 復活への道」          2023.7月

 2021年冬。腰部椎間板ヘルニアの手術から一夜明け、まだ完全ではないものの、術前のあの脚の凍り付いたような痛みに比べれば大分良くなった。この日からリハビリが始まった。理学療法士さんの指導の下、まずは、寝返り、起き上がり、立ち上がるという日常動作を訓練した。今までやっていた何気ない動作も傷口の痛みで機敏には動けない。腰に意識を集中させゆっくりと行った。「トイレまで歩いてみましょうか。」とベッドから立ち上がった。もうかれこれ一か月近くまともに歩けず、入院してからは車椅子に頼って歩いていたので、腰を伸ばして歩くことを忘れていた。「こんなに目線が高かった?」点滴スタンドを左手で押しながら、一歩目を出してみた。地面を蹴れない。体を前に押し出す力がない。10cm踏み出すのがやっとだった。ずっとふくらはぎが麻痺していたせいだろう。更に片脚立ちも力がなく、ふらふらしてしまう。こんなにも衰えているのかと驚いた。

 入浴の許可が出た。服を脱ぐと鏡に自分の体が映った。腰の透明なテープ
の下に薄く傷口が見えた。垂れた尻に細くなった脚。高校の頃、女子に「田原
君のお尻が素敵。」と言われたあの尻はもう見る影もない。体重計に乗ると3キロも減っていた。

 体を洗い、気分も一新、生まれ変わった気持ちで、自分はこれから何に向かって行くのかと考えた。体を鍛え直し復活してみせる。「この夏、サーフィンの全日本に出る。」と目標を定めた。サーフィンができる体を作れば、おのずと仕事もできる。その予選会まであと5ヶ月ある。スケジュールをノートに書いた。理学療法士の先生にトレーニングの方法をコピーしてもらい、自主トレを行った。夜中に起きて廊下を歩き、自販機の隅でスクワットをした。食欲も出てきて、減らしていたごはんの量を戻してもらった。入院8日目、57歳の誕生日の朝食にバースデーカードが添えられていた。




入院から手術の日まで5日間この状態で食事をとり、一睡もできず、痛みに耐えた。

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サーファー院長の骨休め 「ヘルニア闘病記 その4 号泣編」

2023-09-25 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ヘルニア闘病記 その4 号泣編」              2023.6月

 暗がりにぼんやり白い天井が見えた。カーテンの向こうから患者の寝息が聞こえてくる。いったい今何時なのだろう。もう朝が近いと思っていた。ちょうど看護師さんが来たので時間を尋ねると23時だと言う。まだそんな時間だったのか。それにしても深いいい眠りだった。脚がぽかぽかと温かい。この感覚をずっと味わっていたかった。

 椎間板ヘルニアで緊急入院したのが5日前。自分の右脚はまるでドライアイスの中に浸けたようにキーンと麻痺し、どんな姿勢を取ろうが痛みから逃れられず、結局5日間四つん這いの状態で一睡もできず、ベッドの白いシーツと24時間にらめっこだった。それが今、仰向けで天井を見ている。脚には神経が通い、血が巡った。体には色々なチューブが繋がれていたが経過は順調のようだ。

 そんな心地よさを味わえる時間は、そう長くは続かなかった。寝返りが打ちたい。腰を縦に切開している。自分の力で腰を持ち上げて向きを変える勇気がなかった。ナースコールを押すと二人来てくれた。寝返りを手伝って欲しいと頼むと私の腰に腕を回すやいなや勢いよく持ち上げた。その瞬間激痛が走った。傷口が捻じれて裂けるかと思った。やっとの思いで左に寝返りが打てた。15分も経つと今度は反対側に寝返りを打ちたくなってくる。またナースコールを押した。その都度灯りがつく。同部屋の人に迷惑と思い、体に纏わりつく腕や股間から延びるチューブをほどきながら、自分で寝返る方法を探した。

 朝が来た。一日振りの水、茶碗一杯の白米が美味しかった。朝食後、初日に色々な説明をしてくれた理学療法士さんが来た。穏やかな口調で「いかがですか?」と話しかけてくれた。「お陰様でこうして仰向けになることもできましたし、脚の痛みも90%良くなりました。」「そうですよね。四つん這いでずっと過ごされているのを見ていて、こちらもどうなることかと思っていました。よく頑張りましたね。」それを聞いた瞬間、涙が溢れた。人目をはばからず泣いた。「何て優しい言葉を掛けてくれるんだ。」自分は5日間苦しんだ。でも絶対に治る確信があった。その一方でこの年末に病床に伏し、動けず仕事を休む自分にプレッシャーが何度も襲ってきた。この山を越えれば必ず良くなる。そう言い聞かせて耐えてきた。そんな私の気持ちを救ってくれた言葉は身に染みた。






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サーファー院長の骨休め 「ヘルニア闘病記 その3」

2023-09-25 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ヘルニア闘病記 その3」                 2023.5月

 昨夜の激しい雷鳴と脚の痛みで、とうとう5日間一睡もできないまま手術当日の朝を迎えた。坐骨神経痛から逃れられる唯一の姿勢四つん這いを5日間続けてきたおかげで両膝は赤く腫れ上がった。いよいよ今日手術してもらえる。怖さより期待の方が勝っていた。「先生、ヘルニアってどんなものですか?」「エイヒレですね。」あの珍味酒のつまみに似ているという。「私のエイヒレを見せてください。」これで具体的なイメージがまとまり覚悟が決まった。覚悟と言えばもうひとつ。差し入れに忍ばせてあった私の長女の「ヘルニア闘病ノート」だ。実は、彼女も数年前私と同じ手術をしている。ノートには自分の症状やその時の気持ちが克明に書かれていた。「後に何かの役に立つから記録しておけ。」と私が勧めたものだったが、まさか自分の役に立つとは思わなかった。私と全く同じ症状。親子というのはこうも似るものなのか。親元を離れ、自分で病院を探し、決断し、不安と闘いながら、乗り越えていった。本人としては相当な覚悟だったはず。親には見せなかった辛い闘病の記録だった。治療師として助けられなかった。親としても支えてやれなかったことを反省した。闘病中何度も読み返し、参考になった。私もこれを乗り越えなければ。

 今日は回診の雰囲気がいつもと違う。飲水も禁じられ、時を待った。カーテンが開き迎えが来た。ストレッチャー上で四つん這い。ナースステーションを横目に見ながら廊下を進む。自動ドアが何枚か開くと煌々と照らされた白い部屋。医療機器が並んだその光景は、テレビで見たことがある。手術はうつ伏せの状態で行うのだが、突っ伏すなんて今の自分には不可能だ。腕から痛み止めと麻酔が注入され、知らぬうちに手術台に移された。手術は顕微鏡を見ながら、背骨にドリルで穴を開け、そこからヘルニアを摘出していく細かい作業だ。

 どのくらいの時間が経ったのだろう。麻酔で朦朧とする意識の中、耳元で誰かの声がする。主治医の先生だった。「田原さん、手術は無事に終わりましたよ。しっかりヘルニア取っておきましたからね。安心してください。約束のヘルニアです。見えますか?」まぶたが上がらなかったが、うっすらと見えたのは、プラスティック容器の透明の液体の中に浮かんだ金色のきらきらとしたきれいな繊維状の浮遊物だった。「あ~、これが俺のエイヒレですね。」と言ってまた気を失うように深い眠りに落ちていった。つづく。



 


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サーファー院長の骨休め 「ヘルニア闘病記 その2」

2023-09-25 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ヘルニア闘病記・その2」2021年11月       2023.4月           

「もう安心してください。今日入院していただきます。但し手術は5日後です。それまでは我慢していただくしかありません。」ここからが闘いの始まりだったとは、その時、知る由もなかった。
椎間板ヘルニアとは、腰椎と腰椎の間のクッション材の役割をする椎間板に亀裂が入るとその隙間から髄核というゼリー状の物質が外に出て、神経を圧迫する病気だ。私の場合は、臀部から足にかけて坐骨神経痛が出て、夜も眠れないという状態だった。

 4人部屋の病室には、既に西日が差し込んでいた。入院することなど誰にも告げず、明日からの予約の患者さんを放り投げて来てしまった。この先、最低一か月は仕事ができないだろう。年明けまで入っている患者さんに事情を説明し、お断りの連絡をした。申し訳なさと不安が入り交じった。

 夕食には殆ど手を付けず消灯になった。隣からは大きないびきが聞こえてくるが、こちらは一向に眠れない。横向きになってきつく膝を抱きかかえるとヘルニアが神経から離れるのか痛みみが弱まる。四つん這いが楽なのは分かっていたが、馬のように立ったまま眠れるはずもない。ベッドに備え付けられた食事用のテーブルに腹を預けると腕の支えなく四つん這いの体勢をとることができた。晩秋の夜長に布団が何度もずり落ち寒かったが、この状態で一夜をしのいだ。      

 結局うとうとすらできないまま、朝を迎えた。尿量の少なさが気になっていた。立っても座っても用が足せない。数滴出たところで、脚に激痛が走る。急いでベッドで四つん這いになり痛みを堪えた。こんなことを続けていたら膀胱が満タンになり腎臓までおかしくなってしまうのではと不安になってきた。医師に導尿を志願した。麻酔なしで管を入れると激痛が走った。パックに尿が吸い込まれていった。導尿の管を潰さないように注意しながら一日中四つん這いを強いられた。痛みを減らすために座薬を入れてもらった。すると四つん這いから一瞬解放された。ベッドの背もたれを直角に起こし、横向きで膝を抱えると束の間眠ることができた。しかし1時間後には薬が切れて万事休す。

 3日目の夜が来た。孤独な夜を耐えなければならない。昨日と同じように座薬を入れるが、昨夜の体勢が見つからない。ベッドの角度が定まらないまま時間切れ。一睡もできなかった。この苦しみを表現するなら、脚の付け根から下を氷に浸けたままじっとしている。冷た痛くキーンと麻痺している感じ。手術まであと2日、体力が持つのか心配だった。つづく。



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サーファー院長の骨休め 「ヘルニア闘病記」

2023-09-09 | サーファー院長の骨休め by 毎湘通信
「ヘルニア闘病記」                      2023.3月

 「田原さ~ん。」遠くで執刀医の声がする。「手術終わりましたよ。足どうですか?動かしてみてください。」朦朧としたまま、右足を揺すってみた。「痛くない!」OKサインで返すと再び眠りに吸い込まれていった。草原の真ん中に建つ倉庫の脇に停まったトラックの荷台に寝かされたまま放置される夢を見た。

 いい眠りだった。白い天井が見えた。足がぽかぽかと温かい。手術が終わったと分かった。

 2021年12月。腰部椎間板ヘルニアの手術をしました。私は、マッサージ師であり、人を健康に導くのが仕事です。なのに自分が病に倒れてしまいました。あれから1年半が経ち、お陰様でもうすっかり良くなりました。私がどうやって復活したのか、今だから話せる体験談を話します。

 私がこの仕事に就くことになったのは、19歳の時腰を患ったからです。14歳で始めたサーフィンのやり過ぎで腰痛になり、色々な治療を受けるうち興味が湧き、治療師を目指しました。一時サーフィンはできなくなるほどでしたが、治療を受けながら、カラダを鍛え回復しました。その後も度々腰痛に見舞われましたが、それも仕事の糧になると受け止め、やり過ごしてきました。

 腰痛は、回を重ねるごとに悪化します。数年前にひどい坐骨神経痛になり、右脚の裏が痺れて歩くのもままならなくなりました。整形外科で椎間板ヘルニアと言われ、薬の服用で半年後症状は消えました。その後順調でしたが再発したのです。それでも仕事はできました。ただ、夜寝ることができません。横向きで両膝をきつく抱き抱えていないと脚に痛みが出てしまうのです。何とか体勢を探すのですが見つかりません。薬さえ飲めば何とかなる。痛みに耐えながらそんなことを一ヶ月やっていました。もう我慢できなくなりタクシーを呼びました。その頃には座ることもできなくなっていたので、後部座席に四つん這いのまま病院に運んでもらいました。手術を直訴しました。「もう安心してください。今日入院してもらいます。但し、手術は5日後です。それまでは我慢してもらうしかありません。」ここからが闘いの始まりでした。つづく。

 皆様、お久し振りです。5年ぶりにまたコラムを書かせていただくことになりました。よろしくお願いいたします。

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