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西風に吹かれて

日本の西端にある基地の街から、反戦や平和の事、日々の雑感を綴ります。

寒つばき

2015-02-05 18:58:55 | 日記
寒い一日。

節分も過ぎ、早いもので、2月ももう5日となった。

庭の椿は、赤い花を開かせ始めた。




1月下旬から体調が悪く、毎日ごろごろと過していた。
1月26日の夜中に、吐き気とめまいで起き上がるのも辛い状態となった。

若い頃からメニエールがあり、1年のうち数回は吐き気とめまいに悩まされているので、「またメニエールだ」と高をくくっていたのだけれど、吐き気がおさまってもめまいは治まらず、ちょうど船酔いした時のような気分ですっきりしない。

仕方なく近所の病院で診察を受けたが、「血圧が高め。ちゃんと検査を受けたほうがいい。」と言われて、近々、検査を受けることになった。


この間、「イスラム国」に拉致・拘束された2人の日本人が殺害されるという事件があり、ニュースはそのこと一色になった。

具合もよくないし、しばらくはテレビから離れていることにした。

昨日まで何一つ知らなかったジャーナリストが、美化され英雄のように報道されることに違和感があったからだ。

体調も回復し、久しぶりにネットの中を検索してみると、同じように感じている人も多いのだと思えた。


http://doi-toshikuni.net/j/column/20150130.html


私はテロのすべてが悪だとは思えない。

どうしてテロが起こったのか、その根本を考え解決策を見出すようにしなければ、力で抑え込むだけでは何の解決にもならないし、憎しみだけが膨らむのではないかと危惧する。


庭の梅の木に、めじろ寄せのみかんを刺していたらめじろではなくひよが来て啄ばんでいる。



椿の赤い花も、ほころび始めている。



さあ、気分一新、すべてのことに立ち向う元気を持とう。

塩辛

2015-01-23 19:35:38 | 日記
我家でこの季節にしか作らないもの、それは「イカの塩辛」である。



壱岐、対馬、五島、平戸沖など、県内の漁場ではイカ釣り船が操業している。

結婚して、夫の転勤に伴って、大瀬戸、平戸、壱岐と7年間転々と暮らしたが、大瀬戸でも平戸でも魚屋さんといえば天秤棒で籠を担いでくる昔ながらのスタイルだった。

もちろん、魚は丸ごと買って自分で下ろさなければならない。

スーパーでパック詰めの刺身を買っていた生活から、触ったこともない魚を自分で捌いて刺身を作らなければならない生活になったのだ。

困り果てたが、売りに来る魚屋のおばさんから捌き方を教わり、だんだんと作れるようになっていった。

そんな中で覚えたものの一つが「イカの塩辛」である。


今日は、近所のスーパーで新鮮なスルメイカを見つけたので塩辛を作ろうと買い込んできた。



まず、胴体から足と腸を外す。
塩辛にはこの腸が絶対に必要なのだ。



腸に塩と酒、柚子胡椒を入れて、すり鉢でよく擂る。

擂り終わったら皮をむき細くイカ刺の要領で切ったイカを混ぜ、柚子の皮を刻んで入れる。

それだけのことなのだけど、やっぱり一にも二にも鮮度が大事である。

新鮮であればあるほどイカの皮はくっついて身から剥がれない。そこをうまく剥がしていくのは慣れるしかない。

塩辛を作りながら、切れ端をつまんで味見をして、塩辛に入れた酒の残りをちょいと一杯。



何ともいえず、幸せなひととき。

キッチンドリンカーだと言われそうだけれど、やめられないな~。








春の兆し

2015-01-22 21:06:51 | 日記
JR佐世保線の福石観音の近くの土手は、春になると自生した蕗で蔽われる。



近所のスーパーで「ふきのとう」がパック入りで売られていて、もうそんな季節なのだと気づかされた。
大きな「ふきのとう」で、食用に作られているのだろう。とても自然のものだとは思われない。

ぴょっとしたら、「ふきのとう」がJRの土手に出てきているかもしれない。そう思ってカメラを片手に出かけてみた。



土手の蕗の葉はまだまだ小さく、枯れ草のほうが多い。
だが、すぐに青々とした蕗が広がって、枯れ草と逆転してしまうだろう。

小さな蕗の根っこや枯れ草の中を探すと、あった! 小さいけれど間違いなく「ふきのとう」だ。



少しだけ摘んでエプロンのポケットに入れて帰ってきた。




さっと茹で、刻んで味噌とみりんとで混ぜ合わせ、蕗味噌を作った。

夕食のおかずの一品。

寒さもすぐに終わる。

春はもうそこまで来ている。


2014年最後の日に

2014-12-31 19:29:26 | 日記
今日で2014年も終わる。

昨日は夫の身内のお葬式で、夫は西海市松島まで出かけた。10年ほど前までは、佐世保から西海町へも大瀬戸町へも直通のバスがあったのだが、バス路線は廃止になり車を持っていないと簡単にはいけない場所になってしまった。

佐世保駅まで歩いて10分足らず、繁華街にも15分ほどで着きバスの便もいい場所に暮らしていると維持費もかかる自家用車を持つなど考えたこともなかった。

しかし、こんな時は困ってしまう。
夫は娘の車を借りて大瀬戸町まで行き、そこから船で松島に渡ってお葬式に参列してきた。


12月に入って、知り合いの訃報が相次ぐ。


9日には「19日佐世保市民の会」で反戦・反基地のデモを一緒に続けていたⅠさんが亡くなった。世間の雑音などにはとらわれず、飄々としていた人だった。
私より年下だったのに残念でならない。


そして28日には井上澄夫さん。



先月16日に自宅で倒れられ入院されたことは[kPeace]のメーリングリストで流れてきていたが、深刻な状態だとは夢にも思っていなかった。

12月のはじめに、お連れ合いの志茂美栄子さんからお電話をいただき、井上さんの病状がただならないことを知ったが、それでも私はお元気になられるに違いないと思っていた。

若いときに一度倒れられて半身不随になられていたが、精力的に活動されていて佐世保にもお見えになったことがあった。

井上さんと知り合うそもそものきっかけは、中学校の歴史教科書から従軍慰安婦の記述が削除されようとしたことだった。
パソコンも普及していない時代、井上さんは全国各地で上がった抗議の声をFAXでつなぎ大きな運動とされた。

私は井上さんに背中を押され、初めて市議会に請願を出した。分からないことだらけだったが、井上さんにはずっと支えていただいた。

それからは市民意見広告運動の事務局として、5月3日の大手新聞一面の広告掲載を成功させてこられた。
また、ここ一年ほどは沖縄・辺野古ニュースの配信を連日されてきた。


大きな方が亡くなられて、比喩ではなく、ぽっかり穴が開いたような気がしている。

遺志を継ぐなど大それたことはできないし、力量も持ち合わせていないが、せめて反権力の運動を続けることを誓いたい。

井上さんのご冥福をお祈りしたい。





小佐々町を訪ねて

2014-08-15 22:56:05 | 日記
夏季休暇を利用して、船橋市に住む姪がやって来た。

名目は「お墓参り」だけれど、遠くからせっかく来てくれた姪をもてなしたい。

しかし、雨マークで80%の降雨率の今日、いったいどこへ行こうか…。

あまり無理をせずに、夕方から始まる「精霊流し」に間に合いたい。

そう思って、小佐々町の「日本本土最西端の地」まで行くことにした。



小佐々町は2006年、平成の大合併で佐世保市に編入された町だ。

私はこれまで小佐々町に一度も足を踏み入れたことがなかった。

佐世保の北隣りの佐々町、その北の吉井町、江迎町も鹿町町も平戸市も何度となく出かけているのに、なぜか小佐々町だけは行った事がなかったのだ。

初めての町を訪ねるのは何だかわくわくする。

娘と姪と3人で、スマートフォンのナビを頼りにどうやら目的地にたどり着くことが出来た。



生憎の雨、それもかなりの降雨で、海も荒れ見えるはずの平戸島も見えなかったけれど、岩場に突き出て設置されている記念碑の写真を撮ったり、潮風に吹かれたりしていると日ごろの喧騒を忘れて、開放感に浸ることが出来た。




帰りには、元町役場だった小佐々行政センターに寄って、「日本本土最西端訪問証明書」と切手を戴いた。





市内に帰り着くと、ちょうど「精霊流し」が始まった時間で、何艘もの「精霊船」を見ることが出来た。








駆け足で回った佐世保名所の旅?だったが、姪は気に入ってくれただろうか。

次回はまた私も行った事がない佐世保の地や名所、旧跡を案内したい。

私自身も楽しみである。