道綽禅師⑦(浄土の一門のみ通入)
道綽禅師は、これらの経典にもとづいて
『安楽集』には
「末法の時節に及んでは、
億々の衆生が修行を励み、
道に進んでも未だ一人も
証りを得るものはなかろうと
釈尊はお説きになっている。
されば当今はすでに、
五濁に穢されている末法の初期だから、
自力の修行では成仏得道の望みは
断たれている。
そこで釈迦如来は、
この末法万年の苦痛の焔に焼かるる衆生を
悲愍し給いて『大無量寿経』を説いて、
経道滅尽の世になっても
特にこの経のみは留めて
百歳乃至無量歳に至らしめると、
浄土他力の仏教を説き給うたのである。
されば末法・法滅の一切衆生の救われる道は唯一つ、
浄土の一門のみであることが明らかではないか」
と喝破なされた。
これを親鸞聖人は『正信偈』に
「道綽決聖道難証、唯明浄土可通入」
「像末法滅同悲引」
と教え『和讃』には
「自力聖道の菩提心、心も言葉も及ばれず、
常没流転の凡愚は、いかでか発起せしむべき」
「釈迦の教法ましませど、修すべき有情のなき故に、
さとりうるもの末法に、一人もあらじと説きたまう」
「像末五濁の世となりて、釈迦の遺教かくれしむ、
弥陀の悲願ひろまりて、念仏往生さかりなり」
と讃嘆なされたのである。
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道綽禅師は、これらの経典にもとづいて
『安楽集』には
「末法の時節に及んでは、
億々の衆生が修行を励み、
道に進んでも未だ一人も
証りを得るものはなかろうと
釈尊はお説きになっている。
されば当今はすでに、
五濁に穢されている末法の初期だから、
自力の修行では成仏得道の望みは
断たれている。
そこで釈迦如来は、
この末法万年の苦痛の焔に焼かるる衆生を
悲愍し給いて『大無量寿経』を説いて、
経道滅尽の世になっても
特にこの経のみは留めて
百歳乃至無量歳に至らしめると、
浄土他力の仏教を説き給うたのである。
されば末法・法滅の一切衆生の救われる道は唯一つ、
浄土の一門のみであることが明らかではないか」
と喝破なされた。
これを親鸞聖人は『正信偈』に
「道綽決聖道難証、唯明浄土可通入」
「像末法滅同悲引」
と教え『和讃』には
「自力聖道の菩提心、心も言葉も及ばれず、
常没流転の凡愚は、いかでか発起せしむべき」
「釈迦の教法ましませど、修すべき有情のなき故に、
さとりうるもの末法に、一人もあらじと説きたまう」
「像末五濁の世となりて、釈迦の遺教かくれしむ、
弥陀の悲願ひろまりて、念仏往生さかりなり」
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