日々好日(1月11日 塩の日)
今日は塩の日である。
1569(永禄11)年の、
武田信玄と交戦中の上杉謙信が、
武田方の領民が今川氏によって
塩を絶たれていることを知り、
この日、越後の塩を送ったとされている。
この話が、
「敵に塩を送る」
という言葉のもととなった。
謙信が敵将武田信玄の領国甲斐、信濃に
塩を送ったという話は
戦国の美談として残されている。
信玄が三国(甲斐・相模・駿河)同盟を
破って駿河へ侵攻すると
今川氏真は相模の北条氏康とはかり
永禄十年報復措置として
信玄領国へ塩を送ることを前面的に禁止した。
戦国大名が取った経済封鎖政策一環である。
塩留めとなれば甲斐領民の困惑ぶりは、
想像にあまりある。このことを知った謙信は、
「信玄と争うところは、
弓や刀による戦にある。米や塩ではない」
と、以前と同様に
塩を輸送するように命じた。
このため武田の領民は、深く謙信の恩義を感じ、
その厚志を徳としたという。
義塩に感謝した信玄が、そのお礼に太刀一振
贈ったと伝えられている。
今日、塩留めの太刀と呼ばれ、所蔵されている。
永禄十二年1月11日、越後からの塩が゛到着した。
喜んだ人々は、謙信の徳をたたえ、
この日を塩市の日とした。
これを、江戸時代の陽明学者・頼山陽が讃えて
「敵に塩を送る」という故事が生まれたと
いわれている。
「塩を絶つとは卑劣で武士の恥であり、
相手の国の力を弱めようとする行為自体が、
相手に対し恐れをもっている証拠だ」
と言い、敵国である武田家に塩を通常の価格で
売ったという。
尚、高い値段で塩を売りつける者がいるのなら
連絡せよとのことだった。
上杉謙信は皆が恐れていた甲斐の武田信玄を、
まったく恐れてはいないという心情を感じとれる話だ。
それと心の広い人物であったことも伺い知れるものだ。
今日は塩の日である。
1569(永禄11)年の、
武田信玄と交戦中の上杉謙信が、
武田方の領民が今川氏によって
塩を絶たれていることを知り、
この日、越後の塩を送ったとされている。
この話が、
「敵に塩を送る」
という言葉のもととなった。
謙信が敵将武田信玄の領国甲斐、信濃に
塩を送ったという話は
戦国の美談として残されている。
信玄が三国(甲斐・相模・駿河)同盟を
破って駿河へ侵攻すると
今川氏真は相模の北条氏康とはかり
永禄十年報復措置として
信玄領国へ塩を送ることを前面的に禁止した。
戦国大名が取った経済封鎖政策一環である。
塩留めとなれば甲斐領民の困惑ぶりは、
想像にあまりある。このことを知った謙信は、
「信玄と争うところは、
弓や刀による戦にある。米や塩ではない」
と、以前と同様に
塩を輸送するように命じた。
このため武田の領民は、深く謙信の恩義を感じ、
その厚志を徳としたという。
義塩に感謝した信玄が、そのお礼に太刀一振
贈ったと伝えられている。
今日、塩留めの太刀と呼ばれ、所蔵されている。
永禄十二年1月11日、越後からの塩が゛到着した。
喜んだ人々は、謙信の徳をたたえ、
この日を塩市の日とした。
これを、江戸時代の陽明学者・頼山陽が讃えて
「敵に塩を送る」という故事が生まれたと
いわれている。
「塩を絶つとは卑劣で武士の恥であり、
相手の国の力を弱めようとする行為自体が、
相手に対し恐れをもっている証拠だ」
と言い、敵国である武田家に塩を通常の価格で
売ったという。
尚、高い値段で塩を売りつける者がいるのなら
連絡せよとのことだった。
上杉謙信は皆が恐れていた甲斐の武田信玄を、
まったく恐れてはいないという心情を感じとれる話だ。
それと心の広い人物であったことも伺い知れるものだ。