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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

日々好日(1月11日 塩の日)

2012年01月11日 | 日々好日
日々好日(1月11日 塩の日)

今日は塩の日である。

1569(永禄11)年の、
武田信玄と交戦中の上杉謙信が、
武田方の領民が今川氏によって
塩を絶たれていることを知り、
この日、越後の塩を送ったとされている。

この話が、

「敵に塩を送る」

という言葉のもととなった。

謙信が敵将武田信玄の領国甲斐、信濃に
塩を送ったという話は
戦国の美談として残されている。

信玄が三国(甲斐・相模・駿河)同盟を
破って駿河へ侵攻すると
今川氏真は相模の北条氏康とはかり 
永禄十年報復措置として
信玄領国へ塩を送ることを前面的に禁止した。

戦国大名が取った経済封鎖政策一環である。
塩留めとなれば甲斐領民の困惑ぶりは、
想像にあまりある。このことを知った謙信は、

「信玄と争うところは、
 弓や刀による戦にある。米や塩ではない」

と、以前と同様に
塩を輸送するように命じた。
このため武田の領民は、深く謙信の恩義を感じ、
その厚志を徳としたという。

義塩に感謝した信玄が、そのお礼に太刀一振
贈ったと伝えられている。
今日、塩留めの太刀と呼ばれ、所蔵されている。

永禄十二年1月11日、越後からの塩が゛到着した。
喜んだ人々は、謙信の徳をたたえ、
この日を塩市の日とした。

これを、江戸時代の陽明学者・頼山陽が讃えて
「敵に塩を送る」という故事が生まれたと
いわれている。

「塩を絶つとは卑劣で武士の恥であり、
 相手の国の力を弱めようとする行為自体が、
 相手に対し恐れをもっている証拠だ」

と言い、敵国である武田家に塩を通常の価格で
売ったという。
尚、高い値段で塩を売りつける者がいるのなら
連絡せよとのことだった。

上杉謙信は皆が恐れていた甲斐の武田信玄を、
まったく恐れてはいないという心情を感じとれる話だ。
それと心の広い人物であったことも伺い知れるものだ。



日々好日(1月10日 尾崎紅葉 金色夜叉)

2012年01月11日 | 日々好日
日々好日(1月10日 尾崎紅葉 金色夜叉)

尾崎 紅葉は1868年1月10日に生まれた、
明治期の文壇の重きをなした小説家である。

1897年(明治30年)から
読売新聞に連載された『金色夜叉』は
彼の代表作となった。
しかし、明治36年に37歳の若さで病死する。
結局この長編は未完に終わった。

『金色夜叉』は作品名では知らなくとも
「貫一・お宮」の名前などは知っていると
いう人が多いだろう。

また、熱海の海岸で貫一が
宮を蹴り倒す場面、

「来年の今月今夜になったならば、
 僕の涙で必ず月は曇らして見せるから」

という名ゼリフも、テレビやマンガなどの
パロディでよく知られている。

孤児の間貫一は、亡父を恩人と慕う鴫沢隆三に育てられ、
お陰で一高で学ぶ身となる。
貫一は隆三の娘の宮を恋し、
宮も貫一を心憎からず思う。

隆三は貫一に学士号を取らせ鴫沢家の婿にと考えていた。
しかし、宮は、あるパーティーで
銀行家御曹司・富山唯継に見初められ、
そちらに心がなびく。

隆三も、貫一を自分の跡継ぎにする意志に変りはないが、
宮を富山に嫁がせてくれ、と頼む。

諦め切れない貫一は、熱海まで宮を追い、
海岸で彼女への思いを伝える。
しかし、彼女の気持ちは変わらない。

「よいか、宮さん、一月の十七日だ。
 来年の今月今夜になつたならば、
 僕の涙で必ず月は曇らせて見せるから、
 月が曇つたらば、宮さん、
 貫一はどこかでお前を恨んで、
 今夜のように泣いていると思ってくれ」

と貫一は叫び、宮の前から姿を消す。

激怒した貫一は、心を捨て、復讐のために、
高利貸しになる。一方、お宮も幸せに暮らせずにいた。
やがて、貫一は金を捨て、お宮と再会する。

というところで金色夜叉は終了する。

明治の小説でもっとも大衆に愛読された金色夜叉、
紅葉は、読者の熱望に応えるまま、
「続金色夜叉」、「続続金色夜叉」、
「新続金色夜叉」と書き続けるが、
もともと病弱であったのと、
胃癌と診断され中断。10月30日、自宅で没した。

遺稿の断片が整理された「金色夜叉腹案覚書」によると、
最後に寛一は高利貸しを廃業し、
宮のことを許すという構想があったらしい。
生前に完結できなかったことが悔やまれる。



日々好日(1月9日 宇野重吉 福井が生んだ俳優)

2012年01月09日 | 日々好日
日々好日(1月9日 宇野重吉 福井が生んだ俳優)

宇野 重吉は福井県福井市出身の俳優である。
「ルビーの指輪」の寺尾聡さんの父親と
いったほうが分かるかもしれない。

1947年に第一次民藝を創設。

それが1949年に内紛で解散した後、
ついで1950年に劇団民藝を創設。
ロシアのチェーホフなどの
ヨーロッパ各国の劇を演じ、
たちまち新劇のリーダー的存在となる。
中国や近代日本の題材なども扱い、
確かな演技力と斬新な演出により、
民藝を国内有数の劇団に育て上げた。

モットーは「芝居でメシの食える劇団」。

舞台にとどまらず、テレビや映画でも幅広く活躍した。
後年は飄々とした老人役を多く演じた。

1985年9月からは、宇野重吉一座をたちあげ、
気軽に芝居を観に劇場に来られない地方の人のために、
地方公演をはじめる。

晩年は癌と戦い、胃の2/3、
左肺の半分を失いながらも地方公演を続けていた。

1987年10月に放映された
NHK特集『舞台・いのちの限り〜宇野重吉・旅公演2万キロ〜』に詳しい。

1988年1月9日、死去。73歳であった。

彼はこよなく福井を愛した。
こんなエピソードがある。

福井の郷土料理で有名な「沢庵のにたの」
ちょっと古くなった沢庵を
水抜きし煮た家庭料理である。
福井出身の宇野重吉さんが生前テレビで宣伝してたそうだ。

また富山の友人と飲んでいたとき

「富山の魚はおいしい」

と友人が言い張るもので重吉さんは

「その魚は福井から泳いで行った魚じゃ」

と言ったそうだ。

しかし、福井弁には苦労したそうで、
無アクセントの訛りを直すのには
大変な苦労をした。

だから、彼を頼って、民藝に応募した福井の若者に対して、

「福井弁を直すのは大変だ。
 辞めなさい」

と、断ったそうだ。

その彼も最後は自分のお国訛り(福井弁)で
芝居をしていった。







日々好日(1月8日 玄奘三蔵 経典翻訳)

2012年01月08日 | 日々好日
日々好日(1月8日 玄奘三蔵 経典翻訳)

645年1月8日、唐の仏僧の玄奘三蔵が
インドなどを巡る16年の旅から帰国した。

玄奘三蔵は602年に生まれた。
唐代の中国の訳経僧である。

13歳で出家したが、戦乱の続く中国に
仏教の真髄を求めることはできず、
玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、
また、仏跡の巡礼を志し、
629年、国禁を犯して密かに出国したのである。

河西回廊を経て高昌に至った。
現在の新疆ウイグル自治区・トルファン地区に
存在したオアシス都市国家である。

高昌王である麴文泰(きくぶんたい)は、
熱心な仏教徒であったことも手伝い、
玄奘を金銭面で援助した。

玄奘は西域の商人らに混じって
天山北路を辿って中央アジアの旅を続け、
ガンジス川を越えてインドに至った。

ナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、
また各地の仏跡を巡拝した。

ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、
ハルシャ王へも進講している。

こうして学問を修めた後、
天山南路を経て帰国の途につき、
出国から16年を経た645年1月8日に、
657部の経典を長安に持ち帰った。

幸い、玄奘が帰国した時には唐の情勢は
大きく変わっており、時の皇帝・太宗も
玄奘の業績を高く評価したので、
16年前の密出国の件について
玄奘が罪に問われることはなかった。

その時の苦難の多かった旅に後に『西遊記』
のモデルとなったことは有名である。

その後、王の厚い援助を得て、経典翻訳に努めた。

玄奘が翻訳した経典の総数は1335巻に達した。
翻訳に着手してから終了まで17年半で
単純に平均しても一年に75巻以上もの計算になる。

このような速さにもかかわらず、
玄奘訳で統一のとれた訳文を保持しえたのは、
玄奘の翻訳所に列した人々のレベルの高さであろう。

経典には、翻訳者の名前がハッキリ記されている。
彼らの業績は、釈尊のお名前とともに
永遠に輝き続けるだろう。



日々好日(1月7日 七草粥)

2012年01月07日 | 日々好日
日々好日(1月7日 七草粥)

七草がゆ・七草粥(ななくさがゆ)・七種粥とは、
人日の節句(1月7日)の(朝)に食べられている
日本の行事食(料理)である。

この行事が近くなると、
セリ、ナズナ、ゴ(オ)ギョウ、ハコベラ、
ホトケノザ、スズナ、スズシロの七種を
セットした商品が、多くの八百屋などの
販売店にて販売される。

春の七草や餅などを具材とする塩味の粥で、 
その一年の無病息災を願って食べられる。
祝膳や祝酒で弱った胃を
休める為とも言われる。

この行事は、平安時代には行われていたが、
室町時代の汁物が原型ともされている。

セリ  =湿地性植物である。高さは30cm程度で
     茎は泥の中や表面を横に這い、葉を伸ばす。
     和名は、まるで競い合う(競り)ように
     群生していることに由来する。

ナズナ =ぺんぺん草ともいわれ、田畑や荒れ地、
     道端など至るところに生える。

ゴギョウ=母子草といわれ、日干しし、お茶にする。
     咳止めや内臓などに良い健康茶ができる。

ハコベラ=全草は繁縷(はんろう)という生薬で、
     利尿作用、浄血作用があるとされる。

ホトケノザ=コオニタビラコ(小鬼田平子)のことで、
     最近は滅多にみることができない。

スズナ =カブのことで、「カブ」の語源は諸説あり、
     頭を意味する「かぶり」、
     根を意味する「株」、
     またはカブラの女房詞である「オカブ」からとされている

スズシロ=大根のことで、大きな根を意味する。

信長が尾張から決起して天下を取り、
京都へ乗り込んで、羽振りを利かしていた頃である。
厨房役を引受けていた料理人は、八十六歳の老人だった。
 ある日信長、この老料理人を呼んで尋ねた。

「貴様は八十六歳だというに、
すこぶる達者だが、
何か健康法でもあるのか」

「怖れ入ります。私はただ、
料理人なるが故に達者でございます」

「それはまたどういう理由だ。
世間でよく、料理人は先に、
いろんな美味しいものを食い荒すから、
余計に短命だと聞いているが、その方はどうじゃ」

「私は永い間、料理一筋務めまして、
儀式か何かの場合に、よく鶴を使います。
この鶴という鳥は、いつどの鶴を料理致しましても、
その胃袋には七分しか食物が入っておりませぬ。
他の鳥は、胃袋がはち切れる程食っております。
 鶴の長命は、これに限る。
人間も食べすぎてはいかぬと知らされ、
私は常に七・八分より食べないことにしております。
 これは終始手にかけた、鶴に教えられたことで、
お蔭で私は長寿を保っております」

と、答えたという。

オランダの名医、ベルハーフの遺言集は大冊だが、
その表紙には『医術の極意』と題し、
最後の頁には、こう大書してあった。

「頭寒足熱 腹八分」

七・八分が良いのは食物のことばかりでなく、
人生何事にも言えよう。

誰彼の見境もなく、思うままに言いすぎて嫌われたり、
相談を受けもせぬのに、あれこれ指図して失敗する。
親切も、度がすぎれば迷惑となる。

貝原益軒も、こう諭している。

「おもいを少くして心を養い、欲を少くして精を養い、
飲食を少くして胃を養い、言を少くして気を養うべし。
これ養生四寡なり」





日々好日(1月6日 近松門左衛門が誕生)

2012年01月06日 | 日々好日
日々好日(1月6日 近松門左衛門が誕生)

近松門左衛門は1725年1月6日、
現在の福井県福井市にあった越前福井藩士に生まれた。

江戸時代前期の元禄期の人形浄瑠璃・歌舞伎の作者である。

門左衛門は、1664年(寛文4年)、
父と共に京都へと移り住む。

1683年(天和3年)、
『曾我兄弟の仇討ち』の後日談を描いた
『世継曾我』(よつぎそが)が宇治座で上演され、
翌年竹本義太夫が竹本座を作って
これを演じると大好評を受け、
門左衛門の浄瑠璃作者としての地位が確立される。

その後も義太夫と組んで名作を次々に発表し、
1686年(貞享3年)、竹本座上演の
『佐々木大鑑』で初めて作者名として
近松門左衛門と記載した。

1703年(元禄16年)、『曽根崎心中』を発表。
根崎心中は

「此の世のなごり。夜もなごり。
 死に行く身をたとふれば、
 あだしが原の道の霜」

という文章ではじまる。
有名な道行の最後は

「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」

と結んでいて、
お初と徳兵衛を命がけで恋を全うした
美しい人間として描いている。

心中物は大変庶民の共感を呼び、人気を博したが、
1724年(享保8年)に、
幕府は心中物の上演の一切を禁止した。

こうした作品の真似をして心中をする者が
続出するようになったためである。

この点は今も昔も変わらぬようだ。
テレビや新聞で練炭自殺が報道され、
特集番組が組まれると、
ならって練炭で死ぬ人が続出する。

根底には
「こんな辛い人生なら
 死んだほうがましだ。
 しかし、死ぬのなら
 美しく、苦しまなくて
 死にたい」
という願望があるからだろう。

翌年の1725年(享保9年)11月、
近松門左衛門は72歳で没する。

辞世の歌

「残れとは 思ふも愚か 埋み火の
 消ぬ間徒なる 朽木書きして」

日々好日(1月5日 三木 清)

2012年01月05日 | 日々好日
日々好日(1月5日 三木 清)

日本の三大哲学者の1人と言われる三木清は、
1897年1月5日、兵庫県に生まれ。
一高在籍時に西田幾多郎の『善の研究』に強い感銘を受け、
京大で哲学を学ぶことを決意した。

京大哲学科を卒業後、ドイツ・フランスに留学し、
ハイデガーから直接哲学を学び、

「私は本の読み方をハイデッガー教授から学んだように思う」
(三木清「ハイデッゲル(ハイデッガー)教授の思い出」)

と書いている。

帰国後、「岩波講座哲学」、「岩波新書」などの
立ち上げに尽力するなど文化人としても活躍した。

ところが、1945年6月12日、
治安維持法の容疑者をかくまったという嫌疑により検挙・
拘留されてしまう。

戦争終結後の1945年9月26日、
豊多摩拘置所で疥癬(カイセン)の悪化により獄死 。
享年48歳であった。

この三木の非業の死をきっかけとして
GHQは治安維持法を撤廃したといわれている。

遺稿は『親鸞』だった。
その三木清は『歎異抄』について

「万巻の書の中から、たった一冊を選ぶとしたら、
 『歎異抄』をとる」

といったと言われる。

その三木清について、英文学者であり、
文芸評論家の本多顕彰氏が
『歎異抄入門』の中で、次のように記している。

「戦争が始まったとき、ある雑誌が、
『あなたが出征するとして、
 ただ一冊の本を持って行くことを
 許されたら何を持って行きますか。』
 というアンケートをやった。
 そのころは、『海行かば』の歌がおさめられている
 万葉集が大はやりであったから、
 回答の大部分がそれであろうことは予想され、
 他の本を選ぶことは気のひけることで
 あったが、私は、かまわず『歎異抄』と書いた。
 歎異抄にはひかれるところもあったし、
 それよりも、その本には深い意味がありそうなのに、
 まだそれを私はきわめていなかったからである。
 回答の十中八、九までは万葉集であり、
 その中に私の『歎異抄』がしょんぼりしていた。
 しかし、おしまいのほうに、
 もう一つ『歎異抄』があり、
 その下に三木清の名があった」

遺稿となった『親鸞』には次のように書かれてある。

「『教行信証』は思索(しさく)と体験とが
 渾然(こんぜん)として一体をなした
 稀有(けう)の書である。
 それはその根柢に深く抒情(じょじょう)を
 湛(たた)えた芸術作品でさえある。
 実に親鸞のどの著述に接しても我々を先ず打つものは
 その抒情の不思議な魅力であり、
 そしてこれは彼の豊かな体験の深みから
 溢(あふ)れ出たものにほかならない。
 しかしながら、親鸞の宗教をたんに「
 体験の宗教」と考えるのは誤りである。
 宗教をたんに体験のことと考えることは、
 宗教を主観化してしまうことである。
 宗教はたんなる体験の問題ではなく、
 真理の問題である」
    (三木清『親鸞』)

三木清は、教えの深さと体験の深さの両方に感動し、
体験至上主義ではいけないと警告を発している。



日々好日(1月4日 ニュートン 真理の大海原が横たわっている)

2012年01月04日 | 日々好日
日々好日(1月4日 ニュートン 真理の大海原が横たわっている)

サー・アイザック・ニュートンは
1643年1月4日に生まれた。

ニュートン力学を確立し、
古典力学や近代物理学の祖となった。
古典力学は自然科学・工学・技術の
分野の基礎となるものであり、
近代科学文明の成立に影響を与えた。

ニュートンは良き師に巡り会うことになった。
アイザック・バローである。
ケンブリッジにおいて1663年に開設された
ルーカス数学講座の初代教授に就任したバローは
ニュートンの才能を高く評価し、
多大な庇護を与えた。

バローは時間、空間の絶対性を重要視する
プラトン主義を奉じた数学者であり、
ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。

バローのおかげもあり1664年に
ニュートンは「スカラー」(奨学金が支給される学生)に
してもらうことができ、さらに翌年には
学位を授与されることになる。

彼との出会いによってニュートンの才能は開花し、
1665年に万有引力、二項定理を発見、
さらに微分および微分積分学へと
発展することになった。
ニュートンの三大業績は
全て25歳ころまでになされたものである。

万有引力の法則に関して言えば、
古い伝記などでは

「リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て
 万有引力を思いついた」

とするものが多かったが、
今では真偽のほどは確かではない、
とされるようになっている。

あくまで、ニュートンの家の窓から
リンゴの木が見えることから
作られた話にすぎないともされる。

ニュートンは同時代の人と
しばしば争っていたことが知られている。

1660年代には、ライプニッツと
微分積分法の先取権を巡って争いが生じ、
裁判で25年も争い。

1672年にはロバート・フックと
光の分散と干渉の理論に関して論争になった。

1680年にはジョン・フラムスティードと
彗星を巡って論争になった。

1686年には、ロバート・フックとの間で
万有引力のアイディアの先取権をめぐって対立した。

精神的に疲れ、ニュートンは精神状態に
変調をきたすようになった。
不眠や食欲減退に苦しみ、被害妄想にも悩まされた。

彼の発見は凄い、しかし、彼は科学の発見で
幸せになったのであろうか。

「目の前には手も触れられていない
 真理の大海原が横たわっている。
 だが、私はその浜辺で貝殻を
 拾い集めているに過ぎない」

「真理の大海は、すべてのものが未発見のまま、
 私の前に横たわっている」

私は、海岸で遊んでいる子供のようなもの。
ときに、なめらかな小石を見つけたり、
きれいな貝を見つけたりして、
はしゃいでいる存在に過ぎない。
まだまだ発見されることの多い
大きな海を目の前にして。

あったのは絶望。



日々好日(1月3日 荘子の詭弁)

2012年01月03日 | 日々好日
日々好日(1月3日 荘子の詭弁)

老子と100年後の後継の荘子の思想を並べて
「老荘思想」と呼ばれる。

この思想ほど後年、中国、日本の文化、
特に文芸に影響を与えた思想は無いといっていい。

荘子の出自については、
はっきりとしたことは分からない。
春秋時代の後の戦国時代、紀元前4世紀末から
同3世紀にかけての生まれと推定される。

荘子が友人と水のほとりを歩いていた。
荘子は足を止め、

「ご覧、あの白い魚、楽しそうに泳いでいるね」

と言った。すると友人が

「魚でない君に魚の楽しみが分かるまい」

と逆らった。すると荘子も負けていない。

「僕でない君に、何で僕の心中が分かるのか。
 いいかい。
 『君に魚の楽しみが分かるまい』と言った君は
 他人の心中が分かるという前提に立っているんだ。
 それなら僕に魚の心中が分かったていいじゃないか」

キツネにつままれたような話だが、
一応は論理が通っている。

彼は徹底した反権力主義者であった。

宋の人で曹商という人がいた。
あるとき宋王の使者として秦に行ったが、
行きは十台の車だったが秦王に気に入られ、
帰途に車を百台貰った。

この話を荘子に自慢すると荘子は

「秦王は病の腫れ物があり、
 それをなめると車五台をもらえるという。
 君は王の痔でもなめたのか」

といってあざ笑ったという話がある。

徹底的な反権力主義で、権力者におもねり、
こびる人間を嫌った。

また、彼は無用の用を重んじた。

無用の用とはどういうことか。
荘子は巧妙な比喩を使って語り明かす。
 
ある人から、

「君の議論ときたら、無用きわまるな。」
 
と批評されて、荘子の答えはこうである。
 
「いや、無用なりゃこそ、用の足しにもなるんだよ。
 地面にしたってそうだ。
 人間が立つためには、足をおく余地さえあればいいわけだが、
 さて足をそばだてて、
 その廻りをみんな奈落の底まで掘り下げたとして見たまえ。そ
 れでも足下の地面が何かの役に立つだろうか。」
 
「それは立たないさ。」
 
「してみれば、無用が実は用の足しになることも
 判ろうというもんじゃないか。」
 
だが更に言ってみれば、本当の無用の用とは、
人間的なさかしらを去って、
“道”の世界に優遊する事によってのみ果たされるのであって、
常識的な意味での無用
役立たずとは少し違うようだ。

しかし、お釈迦様の教えからみれば、
これも戯論といえるだろう。

仏教の教えを正しく学んでゆく上に
大いに議論してゆくことは
大切だ。

しかし、相手をやりこめようとする
議論の為の議論や
無意味で、役に立たない議論を
仏教では戯論といい、
釈尊はその姿勢を徹底的に
正され、諭しておられる。

一人の修行者が釈尊の元に来た。、

目を険しくいからせた男は、
真摯に求道の指針を仰ぐ
弟子たちとは雰囲気が違う。

無為な議論のために来たことが、
誰の目にも明らかだった。

こんなことは今までもよくあったが、
釈尊はいつも同じ姿勢を貫かれる。

かつて大樹の陰で瞑想なされていた時、
近づいてきた男が、
「あなたは一切の智者だそうだが、
後ろの木の、葉の数を知っておられるか」
と問うたことがある。

静かに世尊は言い放たれた。
「知りたければ、そなた、数えてみよ」

戯論に応ずることも、
また戯論である。

本質と無関係な議論に、
釈尊は一刻たりとも使われない。

生死の大問題に向かう仏法者に、
無駄な時はないからだ。

一方、相手の多くは腹を立て、
悪口雑言を並べて去っていく。

仏の威徳に打たれ、
恭順する者もあるが、
「彼はどうだろう」
釈尊とその修行者の成り行きを
見守っていた阿難は思った。

「世尊は私の知りたいことを
少しも教えてくださいませんね。
満足のいくお答えが頂けないなら、
私は出家をやめたいと思っています」
 
入ってくるなり弟子は言った。

知りたいこととは、
「宇宙には果てがあるのか」
「世界はいつまで続くのか」
などの問いであった。

「それを知るのがさとりへの第一歩だ」
とばかりに、彼は胸を張る。

世尊は彼に問うた。
「そのようなことを教えるから、
 我が元で修行せよと、
 そなたに約束しただろうか?」

「いえ、そうでは」
修行者は小声であわてて否定する。

「もし仏がその問題について
 説かないうちに、
 そなたが命終えたらどうなる?」
 
仏陀の問いに、
弟子の勢いは次第に萎えていく。

続けて釈尊は、例えで修行者を諭された。

「遊歩中の男の足に毒矢が刺さった。
 一刻も早く抜かなければ命が危ない。
 友人たちは、
 『すぐに矢を抜き、治療しなければ』
 と勧めたが、男は、
 『いや待て。この矢はだれが射たのか。
  男か、女か。その者の名前は。
  何のために矢を射たのか。
  矢に塗られた毒はどんな毒か。
  それらが分かるまで、
  この矢を抜いてはならん』
 と言い張った。
 やがて全身に毒が回り、
 男は死んでしまったのだ」
 
阿難は修行者の様子を窺った。
男の愚かしさが自己に
引き当てられたのか、
身じろぎもせずに、
彼は聴き入っている。
阿難はその仏縁をただ念じた。

世尊のお言葉は続く。

「無常は迅速である。
 今、こうしている間にも、
 老いや病、そして死の苦しみが
 現実にあるではないか。
 われはこの苦悩の根本原因と、
 その解決の道を説いているのだ。
 人生の大事は何か。
 よくよく知らねばならない」
 
仏教の深遠さに触れ、
己が誤りを知らされたものか、
修行者の表情から、
先ほどの怒気が消えていた。

穏やかなその顔を見て、
阿難もようやく安堵するのであった。




日々好日(1月2日 初夢)

2012年01月02日 | 日々好日
日々好日(1月2日 初夢)

初夢の夜をいつにするかについては
諸説があるが一般には2日の夜。

吉夢のベスト3は「一富士、二鷹、三なすび」。
これは徳川家康の好物を順に
並べたものだという説がある。

縁起良いと言われた理由は、
色々な説があるのだが、
現在の所一番有力なのは徳川家康説である。

つまり、徳川家康は幼少期を過ごした
思い入れのある駿河(現在の静岡県)の国で
自慢できるものは

1:富士
2:鷹
3:茄子(家康は茄子が大好物だったらしい)

と常日頃言っていたと言うのである。

そこで、初夢に徳川家康公の自慢の品を
見ることが出来れば、
その年も安泰だと言うところから、
それが吉夢へと繋がったらしい。

しかし、縁起かつぎが如何におろかなことか。

縁起かつぎのドン太が、大根の種をまくのに畑にいった。
途中、近所の春子が、ほほをかかえて、小走りでゆく。

「春ちゃん、どうした」

とたずねると、

「歯を虫が食って、昨晩からねむれんので、
 歯医者さんにゆくの」

と言った。

「歯(葉)を虫が食ったって。縁起でもない。
 こんな日に種まけば、ロクな大根にならんわい」
 
プンプン言って、家に引き返した。
あくる日、出かけると、隣の弥兵衛に出会う。
すれちがった弥兵衛が、手ぬぐいを落としたのに気がつかない。
拾ってやると、

「はばかりさん」

と、礼を言われた。

「なんだこのやろう。はばかりさんとは縁起でもない。
 葉ばかりの大根ができてたまるか」
 
また、家へ帰ってしまう。
〝今日こそは、だれに会っても、なにも言うまい〟
翌日は、決心してでかけた。
ところが、イヤなことに向こうから、
村長がやってくるではないか。
村長に、あいさつせぬわけにはゆかぬ。
そこでドン太、最初から断った。

「村長さん、おはようございます。
 実は朝からお願いですが、今日は、
 これ以上、なにも話さずにいってくだされ」

「私が、ものを言うのが悪いのかな」

「いや、別に、悪いというのではありませんが……」

と、一昨日はこんなことで、昨日はこうでと、
大根まきができずに困っているワケを話して、了解を求めた。
 
それを聞いた村長さん、カラカラと笑ってこう言った。

「ドン太さん、そんな根も葉もないこと、
 言うもんじゃないよ」

〝根も葉もなかったら、大根じゃない〟
と、またまた大根まきができなかったという。
ドン太を笑えぬ迷信の、いかに多いことか。
迷信を破らなければ、大根まきもできない。