日々好日(2月1日)一休が誕生)
テレビアニメでおなじみの
「一休さん」は、室町時代に実在した
「一休宗純」という禅の名僧が
モデルとなっている。
一休は1394年の元旦(新暦2月1日)に
生まれたと言われている。
室町時代のの臨済宗大徳寺派
の禅僧である。
一休は、南北朝抗争が
終わって足利幕府成立、
その南北統一時の天皇である
後小松天皇の落胤とされ、
母が身ごもった際、
皇位継承争いに巻き込まれ、
母が南朝方に通じていると
あらぬ疑いをかけられて
追放された時に誕生、
子の身の安全を守るために
母は幼少期の一休を
仏門に入らせたと言われている。
6歳で京都の安国寺に入門し、
周建と名付けられる
一休は時に禅僧として
妙を得たる行動を起こすことでも
有名であった。
青年期に謙翁宗為師に参禅、
師が亡くなった時に悲観して、
あの世で教えを請うと
自殺未遂をしたことがある。
次の師となった大徳寺の華叟である。、
彼の元で参禅する中、
「洞山三頓の棒」という公案に対して、
「有漏路より 無漏路へ帰る 一休み
雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
と答え、華叟宗曇師が「一休」の
道号を授けた。
ここに「一休」の名が由来する。
有漏路とは、
煩悩・苦・迷いの世界のこと、
無漏路とは、
仏・涅槃・悟りの世界のことである。
ある夜、カラスの鳴き声を聞いて、
一休はついに悟ることがあった。
その時、華叟宗曇師が印可状を
与えようとしましたが、
強く拒否して受け取らなかった。
一休の幼い頃のエピソードは
色々と残っている。
ある日の大徳寺、和尚のいない間に、
一休の兄弟子が、足利義満将軍が寺に
あずけおきし名器ジャコバンの茶碗を
壊してしまった。
和尚からどんなお叱りを
受けるか判らない。
兄弟子はただ、泣くだけ。
それを見た一休は
「泣いてもどうにかなるものじゃなし、
いい加減に泣きやめたらどうだ」
と言うと、
「いくら泣いてもどうにもならぬと
思うから,余計に泣けてくるのだ」
となお大声で泣き出す。
そこで一休がこの罪を引き受けた。
「たのんだぞ一休。
その代わり、こんど法事に出る
オレの饅頭は全部おまえにやるから」
と、兄弟子の哀願に、
出るやら出ないやら分からぬ
饅頭を抵当に引き受けた。
割れた茶碗を無造作に
ポンと袂へ投げ込んで
いつものように遊び始めた。
夕方、和尚が帰ってくる。
一休は何を思ったか、
本堂にゆき、仏様の前で
座禅をし始めた。
「おお一休、今日は珍しく
仏様の前で何をしておる、
悪戯でもしておったか」
「いえいえ、一日中本堂で
座禅公案をしておりました」
「なにお前が座禅とな。
どうも怪しいものじゃ。
ほんとうは本堂で
寝ていたのではないか」
「とんでもございません。
一心不乱に公案をしておりましたが、
いまだに解けぬ難問がありまして」
「なんじゃ、その難問とは。
言ってみよ」
「はい、午前中、公案して
おりましたのは
人の生死是いかん。
人間すべて、死なねばならぬのか、
中には死なずにおれる人がおるのか、
と考えておりました」
「ううん、生死これ如何か。
それで分ったのか」
「いやそれが、まだ……」
「そうか、おまえはなかなかの
利口者じゃが、まだ幼いのぉ。
この際ハッキリ知っておくのだぞ。
”生あるものは必ず死す”
とお釈迦さまも言われている。
何人も死は免れぬものなのじゃ。
お釈迦さまでも提婆でも、
どんな英雄豪傑でもな!」
「死はそんなに恐ろしい
ものでございますか。
これで難問の一つが解けました。
ありがとうございます」
「では午後は何を公案して
おったのじゃ」
「これも大変難しく。
物の生滅これ如何と
考えておりました。
この世のもので
壊れないものも
あるのかと思案して
おりました。
その結論が出ない時に
お師匠様がお帰りで」
「それも大事なことじゃ。
それならば教えてやろう。
この世は諸行無常の世界、
どんな物もできたものは
必ず壊れる」
「どんなに大事な物もですか。
どんなに愛する物もでしょうか」
「そうじゃ、どんなに大切に
しておってもじゃ。
生まれたものは必ず滅す。
この時が必ず来る。
それを時節到来という」
「では悟りを開かれた方は
どのように受け止められる
のでしょうか」
「時節が当来したかと
少しも動ぜじ」
これを聞いた一休は
よい師匠を持って幸せと、
和尚を誉め上げる。
和尚は
「そんなにほめられても
出すものはないぞ」
というと、ここぞとばかり一休、
「そちらになくとも、
こちらにございます。
このとおり『時節到来』
にございます」
と、懐から壊れた茶碗を
差し出す。
それを見た和尚、
「うむ、時節が当に来たか」
テレビアニメでおなじみの
「一休さん」は、室町時代に実在した
「一休宗純」という禅の名僧が
モデルとなっている。
一休は1394年の元旦(新暦2月1日)に
生まれたと言われている。
室町時代のの臨済宗大徳寺派
の禅僧である。
一休は、南北朝抗争が
終わって足利幕府成立、
その南北統一時の天皇である
後小松天皇の落胤とされ、
母が身ごもった際、
皇位継承争いに巻き込まれ、
母が南朝方に通じていると
あらぬ疑いをかけられて
追放された時に誕生、
子の身の安全を守るために
母は幼少期の一休を
仏門に入らせたと言われている。
6歳で京都の安国寺に入門し、
周建と名付けられる
一休は時に禅僧として
妙を得たる行動を起こすことでも
有名であった。
青年期に謙翁宗為師に参禅、
師が亡くなった時に悲観して、
あの世で教えを請うと
自殺未遂をしたことがある。
次の師となった大徳寺の華叟である。、
彼の元で参禅する中、
「洞山三頓の棒」という公案に対して、
「有漏路より 無漏路へ帰る 一休み
雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
と答え、華叟宗曇師が「一休」の
道号を授けた。
ここに「一休」の名が由来する。
有漏路とは、
煩悩・苦・迷いの世界のこと、
無漏路とは、
仏・涅槃・悟りの世界のことである。
ある夜、カラスの鳴き声を聞いて、
一休はついに悟ることがあった。
その時、華叟宗曇師が印可状を
与えようとしましたが、
強く拒否して受け取らなかった。
一休の幼い頃のエピソードは
色々と残っている。
ある日の大徳寺、和尚のいない間に、
一休の兄弟子が、足利義満将軍が寺に
あずけおきし名器ジャコバンの茶碗を
壊してしまった。
和尚からどんなお叱りを
受けるか判らない。
兄弟子はただ、泣くだけ。
それを見た一休は
「泣いてもどうにかなるものじゃなし、
いい加減に泣きやめたらどうだ」
と言うと、
「いくら泣いてもどうにもならぬと
思うから,余計に泣けてくるのだ」
となお大声で泣き出す。
そこで一休がこの罪を引き受けた。
「たのんだぞ一休。
その代わり、こんど法事に出る
オレの饅頭は全部おまえにやるから」
と、兄弟子の哀願に、
出るやら出ないやら分からぬ
饅頭を抵当に引き受けた。
割れた茶碗を無造作に
ポンと袂へ投げ込んで
いつものように遊び始めた。
夕方、和尚が帰ってくる。
一休は何を思ったか、
本堂にゆき、仏様の前で
座禅をし始めた。
「おお一休、今日は珍しく
仏様の前で何をしておる、
悪戯でもしておったか」
「いえいえ、一日中本堂で
座禅公案をしておりました」
「なにお前が座禅とな。
どうも怪しいものじゃ。
ほんとうは本堂で
寝ていたのではないか」
「とんでもございません。
一心不乱に公案をしておりましたが、
いまだに解けぬ難問がありまして」
「なんじゃ、その難問とは。
言ってみよ」
「はい、午前中、公案して
おりましたのは
人の生死是いかん。
人間すべて、死なねばならぬのか、
中には死なずにおれる人がおるのか、
と考えておりました」
「ううん、生死これ如何か。
それで分ったのか」
「いやそれが、まだ……」
「そうか、おまえはなかなかの
利口者じゃが、まだ幼いのぉ。
この際ハッキリ知っておくのだぞ。
”生あるものは必ず死す”
とお釈迦さまも言われている。
何人も死は免れぬものなのじゃ。
お釈迦さまでも提婆でも、
どんな英雄豪傑でもな!」
「死はそんなに恐ろしい
ものでございますか。
これで難問の一つが解けました。
ありがとうございます」
「では午後は何を公案して
おったのじゃ」
「これも大変難しく。
物の生滅これ如何と
考えておりました。
この世のもので
壊れないものも
あるのかと思案して
おりました。
その結論が出ない時に
お師匠様がお帰りで」
「それも大事なことじゃ。
それならば教えてやろう。
この世は諸行無常の世界、
どんな物もできたものは
必ず壊れる」
「どんなに大事な物もですか。
どんなに愛する物もでしょうか」
「そうじゃ、どんなに大切に
しておってもじゃ。
生まれたものは必ず滅す。
この時が必ず来る。
それを時節到来という」
「では悟りを開かれた方は
どのように受け止められる
のでしょうか」
「時節が当来したかと
少しも動ぜじ」
これを聞いた一休は
よい師匠を持って幸せと、
和尚を誉め上げる。
和尚は
「そんなにほめられても
出すものはないぞ」
というと、ここぞとばかり一休、
「そちらになくとも、
こちらにございます。
このとおり『時節到来』
にございます」
と、懐から壊れた茶碗を
差し出す。
それを見た和尚、
「うむ、時節が当に来たか」