goo blog サービス終了のお知らせ 

歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

日々好日(2月1日)一休が誕生)

2012年02月01日 | 日々好日
日々好日(2月1日)一休が誕生)

テレビアニメでおなじみの
「一休さん」は、室町時代に実在した
「一休宗純」という禅の名僧が
モデルとなっている。

一休は1394年の元旦(新暦2月1日)に
生まれたと言われている。
室町時代のの臨済宗大徳寺派
の禅僧である。

一休は、南北朝抗争が
終わって足利幕府成立、
その南北統一時の天皇である
後小松天皇の落胤とされ、
母が身ごもった際、
皇位継承争いに巻き込まれ、
母が南朝方に通じていると
あらぬ疑いをかけられて
追放された時に誕生、
子の身の安全を守るために
母は幼少期の一休を
仏門に入らせたと言われている。

6歳で京都の安国寺に入門し、
周建と名付けられる

一休は時に禅僧として
妙を得たる行動を起こすことでも
有名であった。

青年期に謙翁宗為師に参禅、
師が亡くなった時に悲観して、
あの世で教えを請うと
自殺未遂をしたことがある。

次の師となった大徳寺の華叟である。、
彼の元で参禅する中、
「洞山三頓の棒」という公案に対して、

「有漏路より 無漏路へ帰る 一休み 
 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

と答え、華叟宗曇師が「一休」の
道号を授けた。
ここに「一休」の名が由来する。

有漏路とは、
煩悩・苦・迷いの世界のこと、
無漏路とは、
仏・涅槃・悟りの世界のことである。

ある夜、カラスの鳴き声を聞いて、
一休はついに悟ることがあった。

その時、華叟宗曇師が印可状を
与えようとしましたが、
強く拒否して受け取らなかった。

一休の幼い頃のエピソードは
色々と残っている。

ある日の大徳寺、和尚のいない間に、
一休の兄弟子が、足利義満将軍が寺に
あずけおきし名器ジャコバンの茶碗を
壊してしまった。

和尚からどんなお叱りを
受けるか判らない。
兄弟子はただ、泣くだけ。

それを見た一休は
「泣いてもどうにかなるものじゃなし、
 いい加減に泣きやめたらどうだ」
と言うと、

「いくら泣いてもどうにもならぬと
 思うから,余計に泣けてくるのだ」
となお大声で泣き出す。

そこで一休がこの罪を引き受けた。

「たのんだぞ一休。
 その代わり、こんど法事に出る
 オレの饅頭は全部おまえにやるから」

と、兄弟子の哀願に、
出るやら出ないやら分からぬ
饅頭を抵当に引き受けた。

割れた茶碗を無造作に
ポンと袂へ投げ込んで
いつものように遊び始めた。

夕方、和尚が帰ってくる。

一休は何を思ったか、
本堂にゆき、仏様の前で
座禅をし始めた。

「おお一休、今日は珍しく
 仏様の前で何をしておる、
 悪戯でもしておったか」

「いえいえ、一日中本堂で
 座禅公案をしておりました」

「なにお前が座禅とな。
 どうも怪しいものじゃ。
 ほんとうは本堂で
 寝ていたのではないか」

「とんでもございません。
 一心不乱に公案をしておりましたが、
 いまだに解けぬ難問がありまして」

「なんじゃ、その難問とは。
 言ってみよ」

「はい、午前中、公案して
 おりましたのは
 人の生死是いかん。
 人間すべて、死なねばならぬのか、
 中には死なずにおれる人がおるのか、
 と考えておりました」

「ううん、生死これ如何か。
 それで分ったのか」

「いやそれが、まだ……」

「そうか、おまえはなかなかの
 利口者じゃが、まだ幼いのぉ。
 この際ハッキリ知っておくのだぞ。
 ”生あるものは必ず死す”
 とお釈迦さまも言われている。
 何人も死は免れぬものなのじゃ。
 お釈迦さまでも提婆でも、
 どんな英雄豪傑でもな!」

「死はそんなに恐ろしい
 ものでございますか。
 これで難問の一つが解けました。
 ありがとうございます」

「では午後は何を公案して
 おったのじゃ」

「これも大変難しく。
 物の生滅これ如何と
 考えておりました。
 この世のもので
 壊れないものも
 あるのかと思案して
 おりました。
 その結論が出ない時に
 お師匠様がお帰りで」

「それも大事なことじゃ。
 それならば教えてやろう。
 この世は諸行無常の世界、
 どんな物もできたものは
 必ず壊れる」

「どんなに大事な物もですか。
 どんなに愛する物もでしょうか」

「そうじゃ、どんなに大切に
 しておってもじゃ。
 生まれたものは必ず滅す。
 この時が必ず来る。
 それを時節到来という」

「では悟りを開かれた方は
 どのように受け止められる
 のでしょうか」

「時節が当来したかと
 少しも動ぜじ」

これを聞いた一休は
よい師匠を持って幸せと、
和尚を誉め上げる。

和尚は
「そんなにほめられても
 出すものはないぞ」
というと、ここぞとばかり一休、

「そちらになくとも、
 こちらにございます。
 このとおり『時節到来』
 にございます」
と、懐から壊れた茶碗を
差し出す。

それを見た和尚、
「うむ、時節が当に来たか」





日々好日(1月21日 勝 海舟 これでお終い)

2012年01月22日 | 日々好日
日々好日(1月21日 勝 海舟 これでお終い)

勝 海舟は1899(明治32年1月21日に
亡くなった。

勝海舟は、すごい勉強家でも知られる。

長崎で外国軍艦に乗り組み、実地に研究して、
西洋の兵学の必要性を痛感し、江戸へ戻ってきた。
 
ある日、某書店に立寄ると、
新刊の兵学の洋書が目にとまった。
砂中に宝石を発見したように喜んだ彼は、
その代価を尋ねると五拾両という。
海舟には、驚異の大金である。

しかし、この書を逃しては、
航海者に灯台のないのと同じ、と思った海舟は、
八方工面した金を持って、書店へ駆けつけた。

ところがなんと、〝昨日売れてしまった〟と店主がいう。
 
一度は落胆したが、その購求者は、
四ッ谷大番町の某であることが分かった。
早速訪ね、

〝ぜひ譲渡を〟

と懇願したが、

〝ゆずる位なら買いはせぬ〟

と、すげない返事。
一思案した彼は、ならば毎日参上するから、
拝見させて頂きたいと頼んだ。

うるさい奴と思ったが、余り懇望されるので主人は、
夜半十二時以後ならば、と答えた。

海舟は喜びの礼を述べ、十二時以後の約束で帰宅した。
本庄の錦絲堀の彼の住所から、大番町までは八キロもある。
余程の健脚でも大変なのに、
そのうえ、深夜の勉学だから容易なことではない。

彼はしかし、豪雨も暴風の夜も、暑中も通い続け、
八冊の大部を写し了るのに二ヵ年余かかっている。

始めは、うるさいと思っていた主人も、
月日を重ねるにつれて、
倦まずたゆまぬ彼の不屈の精神に感服する。

手許にありながら、未だに読み切れないこのような書籍を、
我々如き凡眼の許に置くのは勿体ないから、
貴下に贈呈したいとまで申しでた。

すでに写了させて頂いたのだからと、
その御芳志に深く感謝し、彼は辞退したという。

しかし、その海舟も晩年は、子供たちの不幸に悩み続け、
その上、孫の非行にも見舞われ、
孤独な生活だった。

1月19日に風呂上がりに
ブランデーを飲んで
すぐに脳溢血により意識不明となり、

21日死去。最期の言葉は

「コレデオシマイ」

だった。



日々好日(1月19日 白隠が生まれる)

2012年01月19日 | 日々好日
日々好日(1月19日 白隠が生まれる)

白隠禅師は、1685年(貞享二年)1月19日に、
静岡県原で生まれた。

原は昔、東海道の宿場町のひとつで、
旅をする武士や町人たちが、
疲れを休めたり馬の乗り継ぎを
したりする人通りの多い町だった。

その原にある旅籠屋のおかみさんが、
子供が産まれる前の夜、不思議な夢を見た。

それは、深い眠りの中に、
白い衣に黒い冠のきちんとした
身なりの男の人が現れ、

「わたしは、伊勢神宮の神様の使いの者である。
 こんど生まれる子は、ただの子供ではない。
 日本中の人々から慕われる立派な人に
 なる子であるから大事に育てなさい。」
といって、すうっと消えてしまった。

そして、次の日、男の子が産まれた。

「男の一心、岩をも通す人になってほしい」
と岩次郎と名付けた。
この岩次郎こそ、のちの白隠禅師である。

岩次郎は、幼い頃から大層利口な子で、
母と一緒にお寺へ行くのが好きだった。
それも難しい説法をすっかり覚えて
帰ってくるのだった。

家へ帰ると、家中の座布団を積み重ねて、
岩次郎はその上に座り、
旅籠の使用人を集めては、
その日に聞いた僧侶の話をした。

大人でもよく解らない仏教の言葉を
自由に使うので、聞いているものは
目を見張った。

岩次郎(後の白隠)が、11歳の時。
原の昌源寺に、その頃有名な日厳上人が来た。

「さて、皆さん。今日は地獄のお話しです。
 この世に生まれた人間は、
 いつかは死ぬということから、
 逃げることは出来ません。
 人間が死んでから行くところは、
 極楽が又は地獄です。
 極楽は楽しいところですが、
 地獄は恐ろしいところです。
 どういう人が、地獄へ行くかといいますと、
 それは、この世の中に生きているうちに、
 悪いことを沢山した人です。
 地獄には、針の山だとか、
 血の家だとか、恐ろしい場所があります。
 針の山を登る人は、痛がって泣き叫んでいます。
 血の池を渡る人は、蛇に噛まれて苦しがっています。
 それだけで終わりではありません。
 冷たい氷に閉じ込められたり、
 ぐらぐらと煮えたぎった地獄の大釜に
 入れられて釜ゆでにされたり、
 恐ろしいことがいつまでも続くのです。
 皆さんのうち、誰一人としてこういう
 恐ろしい所へ行きたいと思う人はいないでしょう。」
 
岩次郎は、家に帰って来ても
頭の中は地獄のことで一杯になった。

風呂に入った時、母が焚く風呂窯の火が
地獄の業火に思え、
「御母さん、俺、地獄へ行くかもしれないよ。
 地獄へ行ったら、どうしたらいいか教えて、
 おらあ、怖いよう、怖いよう。」
と泣き出した。

岩次郎は、毎日、夜中に起きて
仏様の前に座り、目をつぶり、
二年間、祈り続けた。

その後は近くの山で子供とは思えぬ
命がけの修行に取り組んだ。

1699年(元禄十二年)の松蔭寺で
15歳の岩次郎は、出家をしたのである。

「燃え上がる火も激しく流れる水も
 恐れない力を持つまでは、
 絶対に修業を止めません。」
と、固く誓ったのだ。

白隠20歳の時、母の死を知る。

母の病気も知らず、
何の世話をも出来なかったことを詫びた。
今はただ、仏の道に入った自分が
「立派な僧になりなさい」
という母の最後の教えを果たすことが
親孝行であると思い、
修業に励む決心を一層強くした。

色々な土地を、修業して歩き、
23歳、故郷の松蔭寺に帰ってきた。

松蔭寺に戻った17077年(宝永4年)
富士山が噴火した。
あの有名な宝永の大噴火である。

百も千もの雷が、
一度に落ちてきたような
ものすごい音がして、
天まで届くかと思われる火の柱が立った。
原の村人たちは、
年寄りの手を引いたり、
小さな子供をおぶったりして、
みんな海の方へ逃げた。

その騒ぎの中で、白隠だけは、
松蔭寺から一歩も出ないで、
一心に座禅をしていた。

「捨て身の修業をしないで、
 どうして、火も水も恐れない心を
 作ることが出来ようか」
と、祈り続けるのだった。

この噴火で天に舞い上がった灰は、
それから15日間も、原の宿の上に
降り続けた。
この時、新しく出来た山が宝永山である。

その後、数々の修業を積んだ白隠の名は、
だんだんと日本全国に評判となり、
僧侶だけではなく、大名、武士から
農民や町人まで教えを求めて
松蔭寺をたずねる人々が多くなった。




日々好日(1月18日 白隠死す)

2012年01月18日 | 日々好日
日々好日(1月18日 白隠死す)

「駿河には、すぎたるものが二つあり。
 一に富士山、二に原の白隠」
と昔から言われてきた。

これは、日本一の富士山と同じように、
白隠が禅宗の名僧高僧であったことを
表わしている。

ある日、近江の国、彦根城の井伊家の家老が
参勤交代の途中、
白隠を訪ねて質問をした。

「地獄と極楽はどこにあるのですか」

白隠は
「どこにあるかだと。
 そんな質問をするヤツは
 ろくなヤツではないな。
 武士とあろう者が地獄、極楽が
 心配ということは
 死が怖くなったのか。
 その持っている刀は
 たけみつか何かであろう。
 武士は武士でも
 カツオ武士か。
 この腰抜け侍」

これだけ侮辱されて、

 「何、腰抜けだと」
と武士は激怒し、
「せっかく遠くからきたのに、
 何と失礼な。
 謝れ、さもなくば斬る」
武士は刀に手をかけた。

しかし、白隠はさらに「腰抜け」といい、
ついに武士は刀を抜いた。

白隠は殺されてはたまらぬと
走り出した。

「待てー」
武士は追いかけ、
一太刀浴びせようとした時、
白隠は振り向き、叫んだ。

「それそれ、それが地獄じゃ」

武士はハッとして止まり、刀を納めた。
何か感ずるところがあったのだろう。
正座し、謝罪した。

すると白隠、またもや言う。

「それそれ、それが極楽じゃ」

このような話を聞くと世間の殆どの人が
感心して白隠を凄い人だと
いうだろう。

地獄・極楽は決して死後
あの世だけではない。
我々の毎日の生活、
そこに地獄も極楽もある。
白隠は、地獄極楽は
自分の心の中にこそ
あると教えた。

しかし、このような考えを親鸞聖人は

「然るに末代の道俗、近世の宗師、
 自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し」

と、かくの如き説は自力教の真面目を
正直に打ち出して、浄土の真証を
貶しているのだときびしく批判し
排斥せられている考え方であると
論破しておられるのだ。

阿弥陀仏に対する説明は
仏教各宗に於いて解釈を
異にしているが、
大きく分ければ、

●聖道諸宗に於ける理性を
 主とする解釈で阿弥陀仏を
 自性唯心的なものとするもの

●浄土諸宗の事相を主として
 浄土の方角を指定して
 その形状等を示して
 今現に説法中の人格的仏と味う

二つになる。
 
即ち、阿弥陀仏を自性唯心的に
考えるのは、華厳、天台、真言、禅宗等の
諸大乗や一切の自力宗の人達であり、
自性とは自己の本性が阿弥陀仏である。

吾らの外に阿弥陀仏は
おらないということであり、
唯心とは吾らの心が浄土であって、
この心をはなれて外に浄土があると
思うのは迷いである
という考え方である。

故にこのような見方を
「己心の弥陀」「唯心の浄土」と
もいわれている。

このような考え方の根本は
自己の本性は法爾の仏性である。
ただそれが久遠以来の
迷執の錆の為に仏性の鏡面が
曇っているけれども
錆の底には本来の玲瓏たる
仏性の光は輝いている。

故に煩悩の錆そのものも
清浄な仏性とはなれたものではなく、
全く同一のものだ。
そこにこそ煩悩即菩提、
生死即涅槃の真理が
横たわっている。
吾らはこの真理を自覚し
体得さえすればよい。

一切の諸仏というも
各自固有の仏性を
開発したものだ。

吾々もこの仏性を磨き出すことに
努力し真の仏性を開顕せられた時が
無上の証果を獲た時である。

という徹底的自力主義の原理である。

しかし、これが如何に
迷った考え方であったかが
三河の浄土真宗の門徒で強信者と、
評判の高かった七三郎同行との
話で知らされる。

白隠のいた所は駿河(静岡県)で
あったが、よく隣の三河(愛知県)に
説法に行っている。

その三河に浄土真宗の門徒で強信者と、
評判の高かった七三郎同行がいた。

ある日、白隠が三河の七三郎のいる村で
説法した時のこと。
七三郎が大きな声で念仏称えながら
黙々と畑を耕していると、
そこへ白隠が通りかかった。

「これこれ、そこにいるのは
 七三郎さんじゃないか。
 ちょっと尋ねるが、
 お前さんの称えているその念仏は、
 一体、なんのオマジナイじゃ」

マジナイなど、最も嫌われた親鸞聖人を
熟知しながら、
殊更にイジワル問答をしかけてくる。

「よう尋ねてくだされた和尚さん。
 このお念仏は大マジナイでございます」

浄土真宗には、マジナイなどの
迷信は一切ござらぬ、
と大上段に振りかざしてくるもの
と思いきや、七三郎、
ニッコリ笑って、こう言い抜けた。

「大きなマジナイとは、そりゃ何じゃ」

コヤツ、言いよるなと
白隠心密かに驚くが、
少しもそんなそぶりを見せずに突っ込む。

七三郎すかさず、こう言い放つ。

「鬼が転じて仏になる、
 大マジナイでござる」
 
無学を侮って、妙好人七三郎に
仕掛けたイジワル問答を、
見事に切り返された白隠は、
そのまま立ち去れるほど
無我ではあり得なかった。

そこで話題一転、こう問いかける。

「それじゃ七三郎さん。
 あんたの信ずる阿弥陀さんは、
 何処にいなさる」

己心の弥陀(心の阿弥陀仏)
しか知り得ぬ白隠は、
七三郎の指方立相の弥陀
(十万億土の阿弥陀仏)を
嗤おうとしたのだろう。

「ここを去ること十万億の
 極楽浄土におられます」

「ほおう。それはまた、
 えろう遠い処になぁ。
 いざという時、
 間に合わんのじゃないか」

七三郎が白隠のツボにはまってくる。
シメタと斬り込む白隠に、
軽く七三郎、こういなす。

「でもね今は、お留守でございますよ」

「何処へお出かけじゃな」

「十方の仏国土をご巡教でございます」

「それで今は、何処においでじゃ」

オヤオヤと思いながら、
なおも追及する白隠に、
七三郎平然と答える。

「この三河の国に来ておられます」

「それは初耳。して三河の何処へじゃ」

その時七三郎、拳で己の胸を
大きく叩いて言い放つ。

「分からぬか。ここじゃ」

白隠が主張した

「吾らの外に阿弥陀仏は
 おらないということであり、
 唯心とは吾らの心が浄土であって、
 この心をはなれて外に浄土があると
 思うのは迷いである」

という考え方。
故にこのような見方を
「己心の弥陀」「唯心の浄土」と
もいわれている。

それが如何に間違っていたかを
三河の浄土真宗の門徒で強信者と、
評判の高かった七三郎同行から
厳しく教えてもらうことになった。




日々好日(1月17日 ベンジャミン・フランクリン)

2012年01月17日 | 日々好日
日々好日(1月17日 ベンジャミン・フランクリン)

ベンジャミン・フランクリンは1706年1月17日に
生まれた 政治家、外交官、著述家、物理学者である。

アメリカを独立へと導いたフランクリンは多才である。
ボストンの貧しいローソク屋に生れた彼は、
少年時代、笛が欲しくてたまらなかった。

ある日、思わぬお金を貰ったので、
雀躍りして玩具屋に飛びこんだ。

「笛を下さい。よく鳴る笛を」

嬉しそうな少年に、ずるそうな店頭の主人が問う。

「坊や、幾ら持ってる?」

「これだけ」

純真なフランクリンは、掌を開いて、すべてを見せる。

「よし。それだけあるなら、笛を一つあげよう」

夢みていた笛を吹きながら家に帰って、
得意になって一切を兄弟に話すとメソクソだ。

「なんてお前は馬鹿なんだ。
 それだけあれば、そんな笛は四本も買えるぞ」
 
嘲けられ、急に萎れてしまったフランクリンに、
父親はこう諭している。
「人間は何か欲しくなると、
真価以上に高く買いすぎるものだ。
 よくよく気をつけねばならないよ」
 
父の言葉が胸に沁みこんだ彼は、
酒色に耽る人を見るとこう思った。

「あの人は、一時の楽しみの欲しさに、
多くの犠牲を払っていることを知らない。
 やっぱり笛を高く買いすぎている人なのだ」
 
借金してまで着飾っている人には、

「あの人も、服装の値打ちを余りにも高く見ている。
 つまりは笛を高く買いすぎているんだ」
 
また、守銭奴には、

「あの人は金が欲しさに、
 金の価を買いかぶりすぎている。
 あれも笛を高く買いすぎている仲間だ」

と、一生の教訓としている。
ストーブや避雷針の発明、
図書館の開設や道路舗装など、
実際生活の向上に貢献したのも肯ける。

 〝仕事を追い、仕事に追われるな〟

彼の格言の一つである。



日々好日(1月17日 ベンジャミン・フランクリン)

2012年01月16日 | 日々好日
日々好日(1月17日 ベンジャミン・フランクリン)

ベンジャミン・フランクリンは1706年1月17日に
生まれた 政治家、外交官、著述家、物理学者である。

アメリカを独立へと導いたフランクリンは多才である。
ボストンの貧しいローソク屋に生れた彼は、
少年時代、笛が欲しくてたまらなかった。

ある日、思わぬお金を貰ったので、
雀躍りして玩具屋に飛びこんだ。

「笛を下さい。よく鳴る笛を」

嬉しそうな少年に、ずるそうな店頭の主人が問う。

「坊や、幾ら持ってる?」

「これだけ」

純真なフランクリンは、掌を開いて、すべてを見せる。

「よし。それだけあるなら、笛を一つあげよう」

夢みていた笛を吹きながら家に帰って、
得意になって一切を兄弟に話すとメソクソだ。

「なんてお前は馬鹿なんだ。
 それだけあれば、そんな笛は四本も買えるぞ」
 
嘲けられ、急に萎れてしまったフランクリンに、
父親はこう諭している。
「人間は何か欲しくなると、
真価以上に高く買いすぎるものだ。
 よくよく気をつけねばならないよ」
 
父の言葉が胸に沁みこんだ彼は、
酒色に耽る人を見るとこう思った。

「あの人は、一時の楽しみの欲しさに、
多くの犠牲を払っていることを知らない。
 やっぱり笛を高く買いすぎている人なのだ」
 
借金してまで着飾っている人には、

「あの人も、服装の値打ちを余りにも高く見ている。
 つまりは笛を高く買いすぎているんだ」
 
また、守銭奴には、

「あの人は金が欲しさに、
 金の価を買いかぶりすぎている。
 あれも笛を高く買いすぎている仲間だ」

と、一生の教訓としている。
ストーブや避雷針の発明、
図書館の開設や道路舗装など、
実際生活の向上に貢献したのも肯ける。

 〝仕事を追い、仕事に追われるな〟

彼の格言の一つである。




日々好日(1月16日 禁酒の日)

2012年01月15日 | 日々好日
日々好日(1月16日 禁酒の日)

1月16日は、1920年にアメリカで
『禁酒法』が施行されたことにちなむ
『禁酒の日』である

朝鮮、中国など大陸各地にも事業を起こし、
帝国ホテル、帝国劇場などを創立した
明治、大正の実業家、大倉財閥の
創設者・大倉喜八郎氏は、

「人は多く酒で失敗する。俺は生涯飲まないぞ」

と、固く禁酒を貫いていた。

それを聞いた時の首相・黒田清隆は、

「なに、交際でも宴会でも酒を飲まぬとな。
 生意気なことをいう男だ。
 よし、俺が必ず飲ませてみせる」
 
と、大倉氏を招いて一席を設けた。
席上、黒田清隆、裸も裸、褌一つ身にまとわぬ
素っ裸でステテコ踊りを始めた。

黒田首相は、薩摩(鹿児島)出身である。
裸で踊られたら一座の者は何がなんでも
酒を飲まねばならぬ。
それが鹿児島の風習であることを
知っていた大倉氏は困惑した。

「これは偉いことになった。
 先方は時めく総理首相、
 自分は一介の商人、
 どう信念を貫くべきか」
 
苦慮していると、たまたま首相が便所に立った。

「今だ」

その機を逃さず退場し、平生の信念を貫いた。
翌日、

「ああ、大倉という男は偉い男だ」

と、黒田氏は称讃し昨日の無礼を詫びたという。

一実業家に無礼を詫びた黒田氏も偉いが、
時めく首相にも平生の信念を曲げなかった
大倉氏は立派である。

禁酒も禁煙も三日坊主、
勤勉も努力も猫の精進で五日も
続かぬのが我々の常である。

折角、遠大な抱負を持ちながら
些細な誘惑に腰を折り、
ちょっとした困難に方針を
翻すことの如何に多いことか。

信念の達成には、敢然として万難を
乗り越える覚悟がなければならない。



日々好日(1月14日 コンピューターがプロ棋士を破る快挙)

2012年01月14日 | 日々好日
日々好日(1月14日 コンピューターがプロ棋士を破る快挙)

コンピューター将棋ソフト「ボンクラーズ」と
元名人の米長邦雄永世棋聖(68)が戦う
第1回電王戦が14日、
東京・千駄ヶ谷の将棋会館で行われ、
ボンクラーズが113手で勝った。

コンピューター将棋ソフトが、
一般的な公式戦と同じルールで
男性プロ棋士に勝ったのは初めて。

ボンクラーズは、昨年12月に行われた、
持ち時間各15分の早指しによる前哨戦に引き続き、
同3時間の本番でも米長永世棋聖に快勝した。

米長永世棋聖はタイトルを通算19期獲得し、
2003年に引退した元トップ棋士で、
日本将棋連盟会長。

ボンクラーズは会社員の伊藤英紀さん(49)が開発し、
昨年の世界コンピュータ将棋選手権で優勝した実績がある。

日々好日(1月13日 東大赤門)

2012年01月13日 | 日々好日
日々好日(1月13日 東大赤門)

1828年(文政10年)1月13日
加賀前田家の江戸藩邸に
御守殿門(現在の東大赤門)が建立される。

江戸時代、現在の東京大学の敷地には
加賀(現在の石川県)前田家の江戸屋敷があった。

1827年11月、前田家は十一代将軍・家斉の
第21女・溶姫(やすひめ)を正室として
迎えることになった。

そのため、前田家は溶姫が住むための御殿を建てた。
この御殿を『御守殿(ごしゅでん)』という。
御守殿専用の丹塗(にぬり)の門も建てました。

これが『赤門』です。

かつての加賀百万石の前田家の建造物では、
この『赤門』だけが現在に残された。

溶姫は十一代将軍・家斉を父に、お美代の方を母に、
文化10年(1813年)に生まれた。

父の家斉は、14歳で将軍となり、
50年間もその職にあった。

15人の徳川将軍では、
将軍在職年数の最長記録の持ち主である。

将軍在職年数だけでなく、
生まれた子どもの数でも、最多であった。

正式な記録によると、
男26人、女27人の計53人。

ただし、当時の医療、衛生水準の低さは将軍家も同様で、
半数近くの子は幼いうちに死去している。

当時の幕府の閣僚の重要な職務は、
将軍・家斉の息子の養子先、
娘の嫁ぎ先を決めることであった。

後継者の家慶以外の息子は、
大名の養子にしなければならない。

将軍の息子を養子に迎えることは、
名誉なことには違いないが、
養子には将軍直属の家臣がついてくるから、
下手をすると、お家を乗っ取られる恐れもある。

それは、娘を押し付けられる場合も同じ。

加賀前田家のように将軍家の姫にふさわしい御殿を
作らなければならない。

財政難に苦しむ大名には、できれば避けて通りたい。
前田家が『御守殿』を建てるために、
どれだけの費用が必要であったかは
わからないが、いずれにせよ、
領国の農民の肩に負わされていた。

『御守殿』が建ったために、
とばっちりを受けた江戸市民がいる。

「御守殿が出来て 町屋も片はずし」
   (当時の川柳)

御守殿の前面に当る本郷五丁目の半分と
六丁目全部にわたって、片側の民家を
ことごとく立ち退かせたのである。

『目障りだから』という理由で。
当時の御殿女中の髪型は、
俗に『椎茸髱(しいたけたぼ)』という
『片はずし』であった。

その『片はずし』と道路沿いの町屋の『片側』の民家を
立ち退かせたをかけた『落首』である。

立ち退かせたのは、前田家の重臣だが、
江戸市民は

「溶姫が立ち退かせた」
「いや、立ち退かせたのは溶姫の母のお美代の方だ」

と噂していた。

このお美代の方が、家斉の後半生の政治に大きな影響を与える。




日々好日(1月12日 光緒帝が秦の皇帝に即位)

2012年01月12日 | 日々好日
日々好日(1月12日 光緒帝が秦の皇帝に即位)

1875年1月12日
光緒帝が秦の皇帝に即位した。

清の光緒帝は1871年の生まれ、
母は西太后の妹である。
清朝の第11代皇帝。即位したのは3歳の時であり、
同治帝が早世した後に権力保持を狙う
西太后によって擁立された。

歴史的な懸案となっていた
清の時代の11代目皇帝・光緒帝の死因を巡って
論争が続いていたが、光緒帝は

「胃腸の急性ヒ素中毒」

で死亡したと確認された。

光緒帝の死因の謎を解くため、
2003年から中央電視台、清西陵管理処、
中国原子力科学研究院、
北京市公安局法医学検査鑑定センターなどが専門家を集めて、
「清光緒帝死因」調査グループを発足させ、
光緒帝の墓(清西陵)から取り出した
毛髪や遺骨、衣類に対して研究を行っていた。

光緒帝は清の国勢回復を強く望み、
変法運動への興味を強く持つようになり、
西太后の傀儡を脱し、
自らの手で清の中興を成し遂げようとしが、
変法運動が失敗した後、
光緒帝は西太后に10年間も軟禁された。

そして1908年11月14日夜、
光緒帝が亡くなる。

その翌日、西太后も74歳で
この世を去った。

光緒帝と西太后死亡時期が近いため、
自分の最後を悟った西太后が
光緒帝を自分よりも長生きさせないために
毒薬投与により暗殺したとする説があるものの、
犯人はいまだ不明であり、
今後の調査の進展が待たれている。