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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(灯台もと暗し))

2012年12月06日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(灯台もと暗し))
    
我々の眼は万物を見ることが出来るが
視力の届かぬ遠方のものは
見ることが出来ないと同時に、
余りに近すぎるものも
見ることが出来ない。

目、目を見ることあたわず、
刀、刀を切ることは出来ないのである。
皆も一生に一度なりとも
他人の顔を直接見るように
自分の顔を見たいと
思うことがないだろうか。

これは到底不可能なことであろう。
どんな利発な人間でも
自分の眼で自分の顔を
直接見ることは出来ない。

それは余りにも近すぎる存在だからである。

昔から

「灯台下暗し」

という諺がある。

千里の遠きを照らす灯台も、
その下は真っ暗なものであるように、
我々は他人の事になると善も悪も、
殊に悪いことについては目がつくが、
自分の事になると白痴同様なのは
自分が自分に近すぎるからである。

灯台下暗しということわざの意味だが、

「身近の事情はかえって
 分かりにくいものである。」

という意味のことわざである。

本来は「灯台」とは、
船の目印になる岬の「灯台」ではない。

「灯台下暗し」の「トウダイ」、

実は「灯明台(とうみょうだい)」
のことを指している。 

灯明台とは昔使われていた、
油やろうそくを燃やして明かりと
する室内照明具のこと。

「燭台(しょくだい)」

とほぼ同じ意味だ。

灯明台の芯に火をつけて
辺りを明るくしても、
台の足元は暗くなっている。

暗い部屋でろうそくをつけて見れば
このことがよく分かるだろう。
今なら懐中電灯で前を照らしても
肝心要の足元を照らすことはできない。
真っ暗のまま。

そこから一番分っていそうで
分っていないのが自分のことだから、
灯台下暗しといわれるように
なったのだ。

ところが、現在は灯明台など
使われてはいない。
海を照らす灯台がピッタリくる。

日本一高いところにある灯台は
日本海に面した
兵庫県の余部埼灯台である。

伊笹岬に立つ日本一標高の高い灯台で
光達距離も日本一である。

では、この灯台の光の
とどく距離はというと、
余部埼灯台のレンズは250ワットの
メタルハライドランプを使って
光は、約73キロメートルの
遠くまで届くそうだ。

ところが、その灯台の下は
真っ暗闇である。

何事に置いても、
意味さえ間違わなければ
ことわざも変化して
いっていいのでは。

人間の実相を語る歴史人(蔡君謨のヒゲ)

2012年12月05日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(蔡君謨のヒゲ)

蔡君謨(さいくんぼ)とは
1012年に中国の福建省に生まれた
北宋四大家の一人と
謳われる書家である。

55歳でなくなったが、
福建のお茶を有名にした功労者でもある。

お茶の歴史は古い。
喫茶の風習は元々中国の唐代から
宋代にかけて発展したものである。

8世紀頃、中国の陸羽が著した
『茶経』(ちゃきょう)には
茶の効能や用法が詳しく記されている。

これは固形茶を粉末にして
茶釜で煎じる団茶法であった。

抹茶の発生は、龍鳳団茶に代表される
高級な団茶を茶碾で
粉末にしたものを用いており、
団茶から抹茶が発生した。

宋代(960~1279年)になると、
茶は片茶(固形茶)と
散茶(葉茶)に分類された。

しかし、宋代の『茶録』に現れるのは、
龍鳳茶などと呼ばれる固形茶。
    
また、それまで主流だった
固形の茶葉を粉にして
湯に入れてそのまま漉さずに飲む
「投茶法」がより進化して、
「点茶法」が生まれた。

よくすられた茶葉を丁寧に石臼で挽き、
天目茶碗の様な深い茶碗を用いて
茶筅で泡立てて飲む方法に進化した。

この点茶法が栄西のような禅僧によって
日本に伝えられた。

『茶経』に故郷のお茶が
掲載されていないことを
常々不満に思っていた蔡君謨は
さらに茶書『茶録』を執筆し、
福建省のお茶を一躍歴史の主役的位置に
引きあげた。

蔡君謨が福建の役人になり、
大龍鳳団を改良した
小龍鳳団を作って献上し
北宋4代目仁宗皇帝の寵愛を
受けることにある。

その後、5代、6代皇帝にも
信頼を受け、福建のお茶を
有名にしていった。

その北宋6代目神宗(しんそう)皇帝の時
のことである。

蔡君謨は五丈六尺(19メートル)の
見事なヒゲで有名であった。

そのヒゲを見た天子が

「そなたはまことに
 立派なヒゲをもっているが
 そのヒゲを寝る時、
 夜具に入れて休むのか
 外に出して寝るのか」

と尋ねた。

天子に聞かれて蔡君謨、ハタと困った。
毎日、気にかけずにおったが、
どう寝ていたのか思い出せない。
毎日やっているのにである。

いい加減なことは言えないと蔡君謨。
早速、家に帰って試してみた。

始めは布団の中に押し入れてみたが、
どうも胸が押さえられて息苦しい。

次に出してみたが、今度は喉の辺りが
スースーして、どうも寝付かれない。

出したり、入れたりと朝までやったが
ついに分らなかった。

次の日、目を真っ赤にして、
天子に答えた。

「毎日、やっていることながら、
 このヒゲ、どのようにしているのか
 分りませんでした。」

すると天子

「政治のことでは何事も
 良く知っているそなたが
 自分のことは全く
 分からんようじゃのう」

『知るとのみ 
  思いながらに 
   何よりも 
    知られぬものは 
     己なりけり』

である。

「お前の前にいる。
 これがオレじゃないか」

といわれるかも知れぬが、
では頭のギリギリから
足の爪先までオレか、
それでは床屋で
生き別れして来るのか、
判らない最大のものが
我身自身である。




人間の実相を語る歴史人(孔子家語)

2012年12月02日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(孔子家語)

他人の欠点を責めることは知っているが
自己のそれは判らないのだ。

盗賊仲間が大勢集まって
山中で宴会を開いた。

勿論何一つ盗品でないものはない。
その中に金盃が一個あった。

一同は、その金盃を
かわるがわる廻し飲みしていたが
やがて宴たけなわとなった頃
金盃が見えなくなった。

すると泥棒の頭領が立腹して

「今まであった金盃がない。
とあっては、
 この中に泥棒がいるに違いない」

といったそうだ。

泥棒の親分が
己が泥棒であることを
忘れている様に
我々には自己を見失っては
いないだろうか。

「孔子家語」師弟の一問一答の中に

「先生世にも珍らしい
 慌て者があるものです。
 私の友人が先日
 引っ越しをしたのですが
 諸道具から猫まで運び乍ら
 自分の妻を忘れたので
 奥さんは独り空家に残って
 泣いていましたよ」
 
すると孔子は言下に

「女房を忘れる位は
 まだよろしい方だ。
 世の中には自分を
 忘れている連中が
 どれ程多いか判らない」

と答えている。

孔子は儒教の創始者、
紀元前500年ごろの人である。

孔子といえば論語と
いわれるほど有名であるが、
『論語』に劣らぬ内容を持つのが
「孔子家語」(こうしけご)である。
論語に漏れた孔子一門の説話を
編集したものだ。

「孔子家語」の中で有名なものといえば

「良薬は口に苦くして病に利あり。
 忠言は耳に逆らいて行いに利あり」

という誰でも知っている故事であろう。

良い薬は、苦くて
飲みにくいが病には効く。
忠告は、聞くのはつらいが行いを
正してくれるので為になる。
という意味である。




人間の実相を語る歴史人(柴田鳩翁 鳩翁道話)

2012年12月01日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(柴田鳩翁 鳩翁道話)

鳩翁道話とは柴田鳩翁の説法集である。

柴田鳩翁(1783‐1839)は
江戸時代後期の心学者である。
天明3年5月5日生まれ。
江戸で職を転々としたあと,
郷里の京都にかえり野史(やし)講談で
生計をたてる。
39歳のとき薩?徳軒(さった-とくけん)に入門し,
心学を修業した。

心学は 心を修練し、その能力と
主体性を重視する学問。
宋の陸九淵(りくきゅうえん)や
明の王陽明の学問である。

45歳で失明した柴田鳩翁は
剃髪(ていはつ)して「道話」の形で
心学教化につくした。

その道話が鳩翁道話となってまとめられた。

近畿を中心とする12州10万の百姓が,
文政・天保の封建社会より
新興明治にむかう一大変動の響きを
聞く中、精神の支えとしてしたのが、
この書であった.

ここに収められている柴田鳩翁の道話は
心学道話史上の粋であるといわれている。

彼は天保10年5月3日、57歳で死去した。

その鳩翁道話の中に、
このような話が載っていた。

或る富農家に、多くの召使いが
雇われ、生活を共にしていた。

その中に十五、六になっても
ひえ症で毎夜、寝小便する者がいた。

夜具も畳もぬれくさるので
困った主人は、止むを得ず、
馬小屋の屋根裏に夜具を運び
馬と同宿させることにした。

馬小屋の二階は丸竹を
あみ簀の子にしてあるから
夜中に小便が瀧のように流れても、
そのまま馬の下に敷いたワラに
落ちて肥料になる。

夜具の濡れず、肥料もできて
これは一石二鳥である。
名案を早速、実行に移した。

気の毒なのは馬の方、
夜中に必ず、夕立がある。

ところがその中にスノコの竹に
虫が入っていたのと
夜毎の小便で次第に腐って
遂に或る晩、床が割れ、
二階に寝ていた小僧が落ちた。

幸いなことに
馬の為に一面に藁が敷いてあるのと
大して高くないので
怪我もなく無事だった。

落ちたことも知らず、
白河夜船の小僧だが、
びっくりしたのは
気持ち良くねていた馬さんで
よくよく見れば宅の子供、
しかし安眠妨害されたので
耳元に口をあてて

「ヒヒンヒヒン」

と一声高くいなないた。

流石の子供も眼を
こすりこすり横をみれば
馬が立っている。

思わず小僧は叫んだ。

「誰か来てくれ馬が二階に上った」

我身知らず程、
哀れな、なさけないものはない。






人間の実相を語る歴史人(鏡のない村)

2012年11月30日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(鏡のない村)

ある処に鏡が一つもない村があった。
村人は自分の顔をハッキリと
見たことがなかったのである。

そんな折、どうしても町に
買い物にいかなければ
ならなくなり、一人の若者が
行くことになったのだ。

町へ行くと見るもの、会うもの
珍しいものばかりで目を奪われた。

ある店の前にきて、
四角板のようなものが
置いてあり、覗いてビックリした。

そのには死んだ筈のお父さんが
いるではないか。

「お父さん、20年前に
 亡くなったと思ったのに
 こんな処におられたのですか。
 すぐに村へおつれします。」

それは鏡に映し出された自分の顔だった。
20年も経つと死んだお父さんに
ソックリになって、
鏡に映った自分の顔をお父さんと
見間違えたのである。

早く村に帰って、皆をビックリさせ、
喜ばせてやろうと若者は家路についた。

家に戻った若者は二階の
押入れの中に鏡を仕舞い、

「お父さん、しばらく
 待っていてくださいね。
 まず、妻を呼んできて、
 驚かせますから」

と妻のところへ行った。

「おい、町で凄いものを
 買ってきたぞ。
 二階の押入れに入れて
 あるから見て来い。」
 
と言った。

妻はどんなお土産かと
押入れの戸を開いた。

するとそこには若くて
綺麗な女性がいるではないか。
夫は自分に内緒で女を
かくまっていたと思った妻は
激怒した。

本当は鏡に映った自分の姿だったが、
鏡を見たことのなかった妻は
他の女だと見間違えたのだ。

「あなた、いつから
 あんな女をかこっていたの」

と夫を攻め立てる。

「女、そんなの知らないよ。
 それよりもお父さんがいて、
 ビックリしただろう」

「お父さんなんていなかったわよ」

と、仲の良い夫婦なのに
大喧嘩が始まった。

そこへ尼さんがやってきた。

「どうしたのですか。
 普段は仲の良い夫婦が大喧嘩して」

と仲裁に入ってくれた。

事情をきいた尼さんは、

「それなら私が見てきましょう」

と二階へ行って戻ってきた。

「はい、確かに女の方はおりました。
 しかし、改心したようで、
 髪をそり、尼になっておりました」

と言ったという。

尼さんも自分の顔を見たことがないので
鏡に映った姿を見間違えたようだ。

鏡は自分の姿を映し出す為に
作りだされた物。
無いと笑い話どころか、
悲劇がおきる。

或る富裕な婆羅門の子が
美しい妻を迎えた。

新婚の若き夫婦は飲酒によって
一層の快楽に酔うた。
ある夜、新妻が酒を飲もうとして
カメの蓋を開けると酔眼に
ふと美しい女がうつった。
新妻はテッキリこれは、
自分に秘めた女だと
感じ夫に憤り泣き叫んだ。

夫は、驚いてカメを覗くと、
そこには女は見えず
若い情欲に燃えた男の顔が見えるので、
妻に怪しい男があると
思って妻に激しく、
その不貞を怒った。

若い夫婦の激しい争いで
カメは打ち砕かれ
酒つきて始めて
浅ましい争いが絶えたという。

悦楽の悪夢に酔うている若い夫婦には
自分の姿も判らなかったのである。
三毒五欲の悪酒に酔い潰れて
我身知らずから
我々の一切の迷いや
苦悩の生ずることを
知らねばならない。






人間の実相を語る歴史人(スフィンクス)

2012年11月29日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(スフィンクス)

アフリカの砂漠に千古の沈黙を守る
フェキオン山のスフィンクスは、

「初めは四本足で歩き、
 中頃二足となり、
 終りに三足となる動物は何か」

と道を通る人々に、
この謎の質問を投げて
答え得ない者を喰い殺した。

ある旅人(オイディプス)が正解を答えると
スフィンクスは崖から身を投げたという。

この謎の答えは

「人間」。

赤ん坊の頃は四つん這い、
やがて二本足で立つようになるが、
老人になると杖を突くので三本足になる、
というわけである。

つまり人間に向かって
人間とは何ぞやと問うのである。

スフィンクスは
ライオンの身体、
美しい人間の女性の顔と
乳房のある胸、
鷲の翼を持つ怪物。

ナイル河畔に奇怪な姿を現す
古代民族の神像ではない。
彼はたえず我々の生活に接近して

「お前は何か」

と問うているのである。

哲学も文芸も科学も宗教も
此の問に対する答である。

我々は一人一人此の問に
答えなければならない。
彼の前には代弁も許されなければ
受け売りの知識も間に合わないのだ。
では何故に自己がかくも不明なのであろうか。

自己とは如何なるものか。 




人間の実相を語る歴史人(汝自身を知れ)

2012年11月28日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(汝自身を知れ)

人類歴史の初頭に於いて
ギリシャのデルファイの神殿の扉に
きざまれた。

「汝自身を知れ」

の有名な言葉は千古に輝く金言である。

ソクラテスの友人が、神に問うた。
「ソクラテスより
 知恵のあるものは誰か?」

神の託宣はこうだった。

「ソクラテスより
 知恵のあるものはいない」。

その話を聞いたソクラテスは、
神の言葉を疑問に思った。

自分がそんな知恵者でも
賢者でもないと思ってた。

周囲には自分より賢そうな、
またそう自認している哲学者や、
政治家、職人、芸術家等々が
あふれていた。

ソクラテスは、彼らに直接
話を聞きに行った。

どれだけ賢くても答えられない。
矛盾をつかれた者達は、
ソクラテスを恨んだ。

ソクラテスは多くの敵を作り、
ついに死刑に処される。

無知の知というのは、
ソクラテスがその問答法で
用いたとっても有名な言葉である。

『無知の知』

何も知らないと知ることこそが、
真の知を知り得るみなもとだ
とした言葉である。

科学の分野は

「わかっている。
 知っている」

そんなつもりになっている
事柄を疑ってかかるところから
始まるのである。

歴史上こうであったと
いった解釈がなされている事柄や
科学の分野においても新たなる発見は、
時に、既存の価値観や定義を
疑ったところから
進歩をとげていったりする。

しかし、科学・医学の発達は
また、人間の知の限界を
示している。

人間は

「無知の知」

という言葉を
聞いた時、絶望を感じる。

「汝自身を知れ」というのは、

人間とはどんな存在なのだろうか。

世間から知者と思われ
尊敬されている人々を
みても分かるように、
真の知がどんなことか
誰も分かっているものはいない。

人間にとって本当の幸福になるには
本当の自己を知らなくてはなれない。

では我々人間の実相とは何か、
我々は大きな問題に必ず、
答えを出さなければならない。





人間の実相を語る歴史人(釈尊と貴公子)

2012年11月27日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(釈尊と貴公子)

仏教の第一歩は現実の
自己自身を出発点とする。

ある時、釈尊が林中の一樹の蔭に
休んでいられた。
その時林中で三十人余りの貴公子達が
日頃のウンプン晴らしに
銘々夫人同伴で酒宴を楽しんでいた。

その中に一人の独身者が
娼婦(お金で買う女性)の
ような女を連れて加わっていた。

ところが、みんな飲むほどに酔うほどに
疲れて休んでしまった。
一人の貴公子が夜中、起きると
自分の身につけていた貴重な品物がない。

娼婦が一行の貴重品を
盗んで逃げたのである。
目がさめて驚いた一同は
懸命に探し廻っている時、
丁度一樹のかげに釈尊の尊容を見て

「一女人の通りかかるのを
御存知ありませんか」

と尋ねた。

釈尊はことの次第をきかれて

「そのようなわけか、
 だが一女人を求めることと
 汝自身を求めることと、
 いずれが大事であろうか」

と反問されたので一同
迷夢からさめた心地して
釈尊の説法をきき
お弟子となったことが
古い仏典に記されている。

道元禅師の正法眼蔵の
現世公案の一節にも

「仏道を習うというのは自己を習うなり」

と道破し

「よもすがら、仏の道を求むれば、
 我こころにぞ、たずね入りぬる」

と源信僧都は述懐している。


人間の実相を語る歴史人(一寸法師④ 鬼退治と打出の小槌)

2011年08月31日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(一寸法師④ 鬼退治と打出の小槌)

打出の小槌と聞くと、ドラえもんを思い出す。
何をしても駄目な小学生、野比のび太と、
22世紀から彼のもとにやってきたロボット・ドラえもんの
日常生活を描いた作品である。
典型的なプロットは「のび太の身にふりかかった困難を、

ドラえもんから貸し与えられた
ひみつ道具で一時的に解決するが、
その後その道具を不適切に使い続けた結果、
しっぺ返しを受けるというものである。

子供達に楽して幸福が舞い込んでくる筈がないことを
自然に感じられるいい番組だ。
大人でもつい見入ってします。
打出の小槌も同じである。

ある人が有名な音楽家タンベルグに、
ピアノの演奏依頼にいった。
近日にせまった新曲発表を、
ぜひ、成功させたかったからである。
ところが、タンベルグの返事は意外であった。

「申し訳ないが、練習する日がたりません」

「あなたほどの大家、4~5日もあれば、
 これくらいの歌曲は、わけないでしょう」

「いや、私は公開の席に出るには、
 一日50回、一ヶ月1500回以上の
 練習をしなければ出演いたしません」

さすが達人の言というべきか。
大家でも、かかる信念に生きているのだ。
飲み、食い、眠り放題で、頭角を現そうとすることは、
木に縁(よ)って魚(うお)を求めるに等しい、と
言わねばならぬ。

「この槌は宝うち出す槌でなし。
  なまくら者の頭うつ槌」

苦にするな金は世界に預け置く
ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)
1月17日に生まれたアメリカの政治家。
合衆国独立の立役者。
印刷業者であり、科学者でものあり、
多彩な活動をした。
たこをあげて、雷が電気であうことを立証した。

「立てる農夫は座る紳士よりも高し」

このごろの風潮か、
三Kの職業が大変嫌われる傾向にある。
農業に従事している若者と、
ブランドの洋服で身を固めている色男と
どちらを女性は選ぶか。
もちろん遊んでいるイケメンだ。

ある貴族がいった。

「自ら働いて生活するは真の紳士なり、
 自らを怠って人を働かすは盗賊なり」

働くとは端を楽にすること。
儲かるとは信用ある者にお金が入ってくる。

「苦にするな金は世界に預け置く
  入用ならば働いて取れ」


人間の実相を語る歴史人(一寸法師③ 障害があるからこそ、ものの本質が見える)

2011年08月30日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(一寸法師③ 障害があるからこそ、ものの本質が見える)

アメリカ・アラバマ州の北部、タスカンビヤの町近くで、
ヘレンケラーは1880年6月27日誕生した。
生後6カ月目には早くも片言ながら

『こんにちは』

を言い、1歳の誕生日にはヨチヨチ歩き出すほどの成長ぶりだった。
 
しかし1歳9カ月目に、原因不明の高熱と腹痛におそわれ、
一命だけはとりとめたものの、耳と目をおかされ、
光と音の世界から完全に隔離されてしまった

両親は見識の高い人であった。
ヘレンのために家庭教師のあっせんを依頼した。
そこで推薦されて来たのが、アンニー・サリヴァン嬢で、
このサリヴァンこそ、50年間ヘレンのよき半身となって
献身的努力を続けた『偉大なる教師』であった。

サリヴァンが、ヘレンの家へ来たのは、22歳だった。
ヘレンに会ってみると、7歳になった彼女は
頭脳が極めて明せきで、ことに記憶力がよく、
適切な教育により素晴らしい子供になれるとの確信を抱いた。
 
サリヴァンは着いた翌日から人形をヘレンに抱かせ、
指文字で「DOLL(人形)」という字をその掌に書いた。
もちろんヘレンは何のことか判らなかった。
繰り返しているうちに、それが自分の抱いているものの名前であることを覚り、
すべてのものに名のあることを理解するようになった。

教育をはじめて3カ月目、ヘレンはもう300の言葉を覚えた。
ある日ヘレンがコップとその中に入っている水を
同じものだと主張してゆずらず、
遂にサリヴァンとけんかになってしまった。
サリヴァンはヘレンの気分を転換させるため、
しばらく他のことに興味を移し、
その上で初めて戸外に誘い出し、
ポンプ小屋に連れて行って、
持っているコップに冷たい水を注ぎこんでやった。

と同時に「水」と指文字で書くと、
瞬間ヘレンの顔色がさっと変り、
コップを落して打たれたようにじっと考えこんでしまった。
彼女の面にいつもと違う輝きが現れはじめた。
自分の誤りが分ったのである。

このことがあってから、あれほど頑固だったヘレンが
急に素直になり、サリヴァンの教えをよくうけ入れて、
進歩も目立って来た。

ヘレンは水といっても、コップの水もあれば、
流れる水もある。水の本当の姿を知ったのである。
目も見え、耳も聞こえる私達には
水は水だろうと分かっている気持ちになっている。

しかし、本当に判っているのだろうか。
ヘレンのように水の本質を自分の心で感じとってこそ、
分かったといえるだろう。