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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

目蓮尊者②(ウラボンとは)

2009年03月19日 | 釈迦十大弟子
目蓮尊者②(ウラボンとは)

ウラボンという梵語は倒懸ということ。
即ち「倒(さか)さに懸(かか)れる者」ということである。
だから『盂蘭盆経』とは
「倒さに懸れる者を救う方法を教えた経」
ということである。

果して、倒さまに懸って苦しんでいるのは
目連の亡き母だけだろうか。
死後にだけ餓鬼道があるのではない。
腹だけが馬鹿に大きく皮骨連立の奇形動物だけを餓鬼だと
思っていたら大間違いなのだ。
迷いを迷いと思われず、真実を真実と信じられず、
迷いを真実と誤解して苦しみ悩んでいる者は、
仏眼からごらんになると、
皆倒さに懸って苦しんでいる餓鬼なのです。


目蓮尊者①(お盆の由来)

2009年03月18日 | 釈迦十大弟子
目蓮尊者①(お盆の由来)

お盆の由来となったのが、目蓮尊者のこの話しである。
正しくは盂蘭盆といゝ、『仏説盂蘭盆経』から起こったもの。

目連尊者は神通力第一と称され、特に孝心の深い人であった。
その目連尊者が神通自在を得て三世を観ました時に、
いたましいことには、尊者の亡き母が餓鬼道に堕ちて
苦しんでいることが判った。

目連は深く悲しんで直に鉢に飯を盛って母に捧げたが、
母が喜んでそれを食べようとすると、
忽ちその飯は火焔と燃え上り、どうしても食べることが出来ない。
鉢を投げて泣きくずれる母を尊者は悲しみ、
「どうしたら母を救うことが出来ましょうか」と
釈尊にお尋ねになった。

その時、釈尊は
「それは、そなた一人の力ではどうにもならぬ。
この七月十五日(新暦では八月十五日)に、
飯、百味、五果等の珍味を十方の大徳衆僧に供養しなさい。
供養の功徳は大きいから、亡き母は餓鬼道の苦難から
まぬがれるであろう」
と仰せられた。

目蓮が、釈尊の仰せに順ったところ、
母は、たちどころに餓鬼道から天上界に浮ぶことが出来た。
この喜びの余り踊ったのが盆踊りの始まりだと言う人もある。

盂蘭盆は、この目連尊者の故事から祖先供養の日と
なって今日に相続しているが、
一体これは私達に何を教えているのか、味わってみよう。

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舎利弗尊者④(聴聞の心構え)

2009年03月17日 | 釈迦十大弟子
舎利弗尊者④(聴聞の心構え)

本来の仏法を聴聞する時の心構えを舎利弗と維摩の話は
教えてくれる。

智恵第一といわれた舎利弗は座禅をしながら、
「どうだ、オレほどしっかりと座禅している者はおるまい。」
と、形ばかりを気にし、心は他人に向いている。
だから、維摩が来た時、
「また嫌な奴がきた。何か言うに違いない」
などと考える。

我々なら聴聞中、姿は真剣に聞いているような
振りはしているが、心はどうか。
「ご法話が終わったら、あのバスに間にあうかな」
「今日はスーパーの特売日、あの商品残っているかな」
「前の人は何じゃ、背が高いくせに、こんな真ん中に
 座って、先生のお姿が見れないじゃないか」
こんなことを思い続けている。

「座禅するなら四条五条の橋の上、
   ゆききの人を深山(みやま)木に見て」

周りがどんなに騒がしくとの、自分の心を
真剣に見つめているなら、気にはならない筈だ。

聴聞も座禅もわが身の心との真剣勝負。

わが身の心をよくよく見つめ、
真剣に聞かなければならないのが仏教である。
舎利弗尊者はそれを教えてくれている。


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舎利弗尊者③(真の聴聞とは)

2009年03月16日 | 釈迦十大弟子
舎利弗尊者③(真の聴聞とは)

仏法を聴聞する時、ただ聞法の場に連なってさえいれば
よいというものではない。

舎利弗尊者が、静寂な山中で座禅をしていた或る時、
たまたま維摩居士がやって来た。
維摩居士はシンラツに仏弟子たちを警策したので、
皆からけむたがられた。
「いやな奴が来た。また何かいやみを言うんじゃなかろうか」
と舎利弗は見ぬふりをしていた。
案の定、近よった維摩は
「舎利弗、そこで何をしておられるのか」
と意地悪な質問をして来た。
みればわかることをワザと尋ねるのだから面白くない。
「座禅をしております」
舎利弗は無愛想に答えた。
すると維摩、すかさず
「座禅、それが座禅か、
もし ジッと身体を動かさないでいるということで
座禅になるのなら、山の中の樹は
皆立派に座禅していることになるぞ」
と大喝一声、諄諄と座禅の本旨を説いている。

ただ聞いてさえおれば仏縁が深まるのではない。
聴聞の本旨を知らなければならない。
蓮如上人が
「聴聞ということをば何と心得られて候やらん、
ただ耳にききたるばかりは聴聞にてはなく候、
その故は千萬のことを耳にきき候とも
信を獲候はずは聞かぬにてあるべく候。
信を獲候はずは報土往生かなうまじく候」
と仰せになっているように、
聴聞は形相ではなく、
その心が大切だということを忘れてはならない。


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舎利弗尊者②(長老シャリホツ)

2009年03月15日 | 釈迦十大弟子
舎利弗尊者②(長老シャリホツ)

舎利弗尊者の名は有名である。
経典の中でも一番読まれているのが阿弥陀経、
その中に「シャリホー、シャリホー」と36回も出てくる。

中でも長老舎利弗が耳に残る。
長老という言葉はよく聞くが、意味を知っている人は少ない。

長老と言われるには三条件が必要である。

1:年耆(ねんき)
     長く同じ仕事に仕え、経験がゆたか。
     舎利弗は弟子の中でも釈尊に
     長く仕え、色々な経験をしていた。
     どんなに勝れた人でも若い人を
     長老とはいわない。


2:知法(ちほう)
     深い仏教の知識
     舎利弗は仏法に関しては誰よりも学んでいた。
     釈尊のお傍で教学に真剣に取り組み。
     あらゆる質問に対して答える力を持っていた。

3:能化(のうけ)
     後輩の指導に勝れている.

どんなに知識が豊富でもその他人格、徳に勝れ、
後輩に慕われ、後輩の指導がよくできなければ
長老とはいえない。
その点、舎利弗は多くの後輩から慕われ、
後輩の指導に当たっていた。


舎利弗尊者こそ長老と呼ぶにふさわしい方であろう。

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舎利弗尊者①(釈尊との出会い)

2009年03月14日 | 釈迦十大弟子
舎利弗尊者①(釈尊との出会い)

舎利弗尊者はたいへん裕福なバラモンの家系の
生まれであった。
親友の目連と祭見物に行った折、
狂喜乱舞し祭に興じている人々を見て、
100年後にはこの人達もこの世にいないであろう無常を感じ、
そのことを目蓮に打ち明けると、
彼もやはり同じことを感じていた。
このことが二人の出家のきっかけとなった。

はじめはサンジャヤのもとで修行し、
彼の説く教説はすべて理解したけれども、
心の安らぎは得られなかった。
もっと深遠な心の安心(あんじん)が得られる教えがきっとあるはずだ。
それが見つかったときはお互い知らせ合おうと約束した。

ある時、舎利弗が街で修行僧を見かけ、
「あなたの清々しい立ち居振舞いに、私は惹かれてなりません。
どうか教えてください。あなたの師は誰なのですか。
そしてその師の教えとはどんなものなのですか」
と尋ねると、

「私の師は釈尊です。しかし、比丘となってまだ日も浅く、
詳しくその教えを説くことはできませんが」
とことわって、偈文をもって釈尊の教えを述べた。
「諸法は因縁より生ず如来(釈尊)はその因を説き給う」。
それを聞いた舎利弗は、釈尊の教えがいかに優れたものであるか、
たちどころに理解した。
さすが智慧第一と称される所以だ。
舎利弗は急いで目連に知らせに行った。
探し求めていた師が見つかったことを。
目連も舎利弗から偈文を聞き、釈尊の教えを理解し、
二人は釈尊の弟子となることを決意した。


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個性を活かす(釈迦の十大弟子)

2009年03月14日 | 釈迦十大弟子
個性を活かす(釈迦の十大弟子)

釈迦如来には多くの弟子があった。
その中でも勝れたお弟子を十大弟子と
後の学者達はいうようになった。

その十人の弟子とは
1:舎利弗(シャリホツ)   -智慧第一
2:目蓮(モクレン)     -神通力第一
3:迦葉(カショウ)     -頭陀第一
4:富楼那(フルナ)      -説法第一
5:阿難(アナン)      -多聞第一
6:阿那律(アナリツ)    -天眼第一
7:羅喉羅(ラゴーラ)    -密行第一
8:迦旃延(カセンネン)   -論議第一
9:須菩提(スボダイ)    -解空第一
10:優波離(ウバリ)     -持律第一

どのお弟子も誰にも負けない
特徴を持たれ、それを活かして、
人生の目的を果たしてゆかれた方ばかりである。

私達にも必ず人には負けない長所が一つはあるはず、
それを見つけ出し、如何に活かすか。
また、他人の長所をみつけ、活かせるか。
ここが人生ターニングポイント。


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