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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

芥川龍之介⑨(報われない仕事)

2009年05月03日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑨(報われない仕事)

34歳の冬、芥川が、当時の作家の代表作を集めた、
『近代日本文芸読本』が刊行された。

100人以上の作家に自ら手紙を書き、
収録の承諾を得るのは、並大抵の作業ではない。
2年にわたる努力の結晶とはいえ、
仕事の性質上、収入は少ないものだった。

にもかかわらず、
「芥川は1人だけ儲けて、書斎を新築した」と
いう噂が文壇に流れる。

1人でも多くの作家を載せようと苦心したのに、
評価されるどころか、
当の作家たちから悪評を立てられた。
誠実が仇で報われ、芥川は深く傷つく。

この事件で神経衰弱が進み、
睡眠薬を愛用し、虜となってゆくのある。

創作活動も10年を迎え、題材の尽きた芥川が、
胃を損じ腸を害し、神経を病みながら
名声を維持するのは、
容易ではなかった。


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芥川龍之介⑧(関東大震災と真実の自己)

2009年05月02日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑧(関東大震災と真実の自己)

芥川は児童小説「蜘蛛の糸」で
人間の本質を描きだした。

そのカンダッタの姿こそが
自分であることを思い知る時がきた。

芥川の妻、文が「追想 芥川龍之介」に
芥川龍之介の姿で印象に残っているエピソードを
書いている。
芥川31歳、関東大震災のときの出来事だ。


「主人は、「地震だ、早く外に出るように」と
 言いながら、門の方へ走り出しました。
 そして門の所で待機しているようです」

 文さんは、次男が寝ている二階に駆け上がりました。
 同居していた伯母は、長男を部屋から抱えだしました。

 私はその時主人に、「赤ん坊が寝ているのを知っていて、
 自分ばかり先に逃げるとは、どんな考えですか」
 とひどく怒りました。

 すると主人は、
 「人間最後になると自分のことしか考えないものだ」
 と、ひっそりと言いました」


いざとなったら、愛する妻のことも
可愛いと育てていた子供もことも忘れ
自分だけが助かってよかったという
我利我利の心しかなかった。

カンダッタは自分であったと龍之介が
痛感した瞬間であった。

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芥川龍之介⑦(蜘蛛の糸)

2009年05月01日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑦(蜘蛛の糸)

彼の文学の中で「蜘蛛の糸」は
不朽の名作という人もある。
仏教説話を基にして、
人間のありのままの姿を描き出した
作品である。26歳に創作した。


釈迦が極楽を散歩しておられた時、
蓮華池の底に見える血の池地獄に
ひときわ苦しむカンダッタを見つけられる。

そこでカンダッタが生前、
蜘蛛を助けたことを縁として
極楽への道へと案内するために、
一本の蜘蛛の糸を彼の頭上に下ろした。

カンダッタは喜び、蜘蛛の糸を上り始めた。
ところが途中でふと下を見下ろすと、
数限りない地獄の罪人達が自分の下から続いてくる。
このままでは糸は重さによって切れて落ちてしまう。

カンダッタは
「この蜘蛛の糸は俺のものだ。
お前達は一体誰に聞いて上ってきた。
下りろ、下りろ」と喚く。

次の瞬間蜘蛛の糸が、
皮肉にもカンダッタのぶら下がっている所から
切れてしまう。

自分さえ助かったらいいという我利我利亡者の
カンダッタの無慈悲な心がまたしても
血の池地獄へ堕としていったのである。


いざとなったら起きてくる
我利我利亡者の姿。
誰もカンダッタのことを笑えない。
自分の相だから。


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芥川龍之介⑥(子育ての苦悩、そして病苦)

2009年04月30日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑥(子育ての苦悩、そして病苦)

創作が思うように進まない。
愛人しげ子の存在。
さらに龍之介を悩ませたのは、長男の誕生だった。

芥川家にいた養父母とフキの3人は、孫を溺愛し、
子育てに過剰に干渉した。

家庭内の人間関係に疲れた芥川は、
自伝的小説『或阿呆の一生』で、
長男出生を次のように表現している。

「何の為にこいつも生れてきたのだろう?
 この娑婆苦の充ち満ちた世界へ」

娑婆(しゃば)とは堪忍土のことである。
お互いが堪忍してゆかねば生きてゆけない。
我慢してゆかねば暮していけない。
それがこの世の有様ある。

30歳の時、海外特派で中国に赴くが、
帰国後は健康がすぐれず、
特に下痢に悩まされた。
神経衰弱も発症した。
以後、持病との闘いが続く。


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芥川龍之介⑤(夏目漱石との出会い)

2009年04月29日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑤(夏目漱石との出会い)

芥川の人生を大きく変えたのは、
文豪・夏目漱石との出会いだった。

漱石が弟子と面会する「木曜会」に、
参加するチャンスを得たのだ。
漱石の学識と人格は、龍之介を
とらえて離なかった。

大正5年、24歳になった芥川は仲間と、
雑誌『新思潮』を刊行する。
創刊号で、とりわけ漱石の注目を引いたのは、
芥川の『鼻』だった。
漱石は期待の弟子に、愛情のこもった手紙を書いた。
それは、最大級の讃辞の羅列であった。
漱石から、予想外の激賞を受けた芥川は、
華やかな文壇デビューを、
大学卒業間近の25歳で果たした。

しかし、出る杭は打たれる。

『中央公論』掲載の『手巾』は、的外れな批判にさらされた。

「何を書こうとしたのか雑然として分かってこない。
 どこが面白いのかという気がする。」

本質に迫る建設的な批評なら受け入れられる。
だが、評者の勉強不足、時代認識のズレ、
さらに単なるねたみで酷評されてはかなわない。

若き芥川はいかに傷つき、動揺した。

卒業後、芥川は海軍機関学校の英語教授となる。

漱石の訃報を聞いたのは、その直後だった。
出会いから1年しかたっていない。
まだ漱石から学ぶことが一杯あった。、
芥川は悲しみをバネに、
教育、創作、読書に専心した。

月給と原稿料で生活できる見通しがつき、
27歳になった龍之介は、
8歳下の塚本文と結婚。

しかし現実は煩わしかった。
マンネリ化した執筆生活。

そんな中、新人作家の集まりで、
既婚者である秀しげ子と出会う。
しげ子は、女性の少なかった文壇で
華やかな存在であった。
一時期、芥川は彼女の面影に悩まされ、
密会を重ねた。
しげ子は次第に利己的な本性を露わにし、
龍之介にまといつくようになり、
自宅まで押しかけてきた。

創作の苦しみ、そして女性問題。

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芥川龍之介④(失恋)

2009年04月28日 | 芥川龍之介
芥川龍之介④(失恋)

芥川は成績優秀で
一高(東大の前身)に無試験で入学、
東京帝国大学に進んでいる。

その中、23歳の時、吉田弥生と交際を始めた。
青山女学院を卒業した弥生は、文学を好み、
英語も堪能。彩色兼備であった。

ところが弥生に、別の男性から縁談が舞い込む。、
龍之介は弥生に求婚したいと、育ての母フキに告げると
激しい反対にあう。
相手の女性が「士族」でないことや、私生児だったこと、
結局、龍之介があきらめるしかなかった。

芥川は友にこう打ち明けている。
「イゴイズムのない愛がないとすれば
 人の一生程苦しいものはない
 周囲は醜い 自己も醜い
 そしてそれを目のあたりに
 見て生きるのは苦しい。」


また小説「仙人」の中に
「何故生きてゆくのは苦しいか、
 何故、苦しくとも、
 生きて行かなければならないか。」
と書かれている。

これこそ人生の目的、
「なぜ生きる」

この問いこそが全ての人間にとって
崇高な大きな大きな課題ではある。


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芥川龍之介③(龍之介のおいたち)

2009年04月27日 | 芥川龍之介
芥川龍之介③(龍之介のおいたち)

芥川龍之介は明治25年、新原敏三の長男として、
東京に生まれた。

生後8ヵ月の時、母フクが突然、精神に異常をきたし、
龍之介はフクの兄・芥川道章に預けられ、
クの姉・フキが、我が子のように
龍之介の面倒を見たのである。

愛情に包まれ、芥川夫妻を両親と信じて
育った龍之介だったが、
たまにフキが会いにいく妹のフクが
実母であり、自分が"もらわれっ子"だと気づいた。

実母は、龍之介が11歳の時に世を去った。
たまに訪れると、煙管で頭を殴られる始末で、
龍之介は後年、
「僕は一度も僕の母に母らしい親しみを
感じたことはない」と
述懐している。

この母の存在は彼に大きな影響を与えた。
いつかこの母のように精神異常者に
なるのではないか。
この思いは死ぬ間際まで
彼を苦しめることなる。

龍之介は13歳の時、正式に芥川の養子に
なった。


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芥川龍之介②(レミングの不思議な習性)

2009年04月26日 | 芥川龍之介
芥川龍之介②(レミングの不思議な習性)

レミングというネズミは、ある日突然、
群れをなして海に向かい、残らず海に落ちて自殺すると
いう不思議な習性を持っている。

ジェームズ・サーバーというアメリカの作家が
レミングとの対話をテーマにショートコントを書いた。

「君達はなぜ海に突進して溺死するのかね」

するとレミングが答えた。
「なぜ人間は、それをしないのかね」

生きとし生きるものの行動様式は、そう簡単に
説明がつかない。


同じように人間でもいえるだろう。
あなたはなぜ死を選ぶのか。

誰も死にたいと思ったことは一度はあるだろう。
しかし、なぜ死にたいと思ったのと
自分に問いかけた時、自分の心なのに
回答がない。

芥川龍之介は、「或旧友へ送る手記」で、
次のように書いている。

「誰もまだ自殺者自身の心理を
ありのままに書いたものはない。
僕は君に送る最後の手紙の中に、
はっきりこの心理を伝えたいと思っている。
君は新聞の三面記事などに生活難とか、
病苦とか、或は又精神的苦痛とか、
いろいろの自殺の動機を発見するであろう。
しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。
のみならず大抵は動機に至る道程を示しているだけである。
少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。
何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」
      (或旧友へ送る手記)


彼が全人類に投げかけた究極の疑問。
「ぼんやりした不安」

これに答えなければならない。

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芥川龍之介①(わが子への遺言)

2009年04月25日 | 芥川龍之介
芥川龍之介①(わが子への遺言)

芥川 龍之介は1892年3月1日に生れた。
その作品の多くは短編で、
「芋粥」「藪の中」「地獄変」「歯車」など、
『今昔物語集』『宇治拾遺物語』などの古典から
題材をとったものが多い。
「蜘蛛の糸」「杜子春」など、童話も書いた。

1927年7月24日未明、友人にあてた遺書に
「唯ぼんやりした不安」との理由を残し、
服毒自殺。35歳という年齢であった。

後に、芥川の業績を記念して菊池寛が
芥川龍之介賞を設けた。

明治以降、日本文学界にその名を残しながら
自殺した芥川龍之介。
その自殺の理由を誰もが知りたがった。

そして、焼き棄てよとの遺言にもかかわらず、
遺族が大事に守り続けた遺書が
発表されたのである。

「わが子等に」あてた一通には、
1:人生は死に至る戦いなることを忘るべからず。
  もしこの人生の戦いに破れし時には
  汝らの父の如く自殺せよ。
  ただし汝らの父の如く 
  他に不幸を及ぼすを避けよ


2:従って汝等の力を恃む(たのむ)ことを勿れ(なかれ)。
  汝等の力を養うを旨とせよ。」

と8か条の遺言がしたためられていた。

わが子に人生の戦いに破れた時には死ねとは
あまりにも衝撃的だ。
その過激さからか。この遺書は
殆どの芥川全集には紹介されていない。

しかし、人生の目的を求めている人には
彼の言葉をしっかり受け止め、
自殺をするのではなく、
人生究極の目的を果たす
きっかけにしなければならない。

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