بسم الله الرحملن الرحيم
السلام عليكم
سترةストラ(遮蔽物)とは、礼拝するものが眼前に礼拝場所と一般の通行人の往来とを観念の上で仕切る目印となるもの。
礼拝者の前を人が通った場合、その礼拝は無効になりますが、スジュード(跪拝)するすこし前方にストラを置けば、観念上で仕切りができ、前方が広がったところ(例えば公園)でも、礼拝ができるわけです。
ただし、ストラはあくまでストラであり、それに対して礼拝するわけではないと思いましょう。
同様にサッジャーダ(礼拝用マット)はサッジャーダであり、それに対して礼拝するわけではないので、私の知るシスターはときどきサッジャーダの向きをわざと上下逆にして、「サッジャーダではなくアッラーに向かって礼拝している」という気持ちを確認していました。
ですので、ジュマー(集団)で、横にいる礼拝者との間に空間が出来ても、持参したサッジャーダから動かずに、空間を埋めようとしない人がいて、「え~!!!」と内心思ったことがあります。(コタ・キナバルでジュムア(金曜の集団礼拝)に参加したときは顕著でした。’イード=ル=フィトルが今回名古屋では屋外で執り行われましたが、そこでも見られました。アスタグフィルッラー)
غقر الله لنا و لهم
ガファラ=ッ=ラーフ ラナー ワ ラフム
(アッラーが私たちを彼らをお許しくださいますように)
・・・このドゥアーを言うと、上述の内容がガイバ(陰口)になることが避けられるそうです。
ジャマーでは礼拝者と肩と肩、足と足をくっつけてシャイターンが入り込まないように礼拝します。
IslamQ&A#21502
神戸モスクでは肩と肩だけで、足はくっつけないそうです。
fiqf al-Imam KEY PROOF IN HANAFI FIQHの45P(ISBN 0-9728358-0-6)にはそのことについて言及しています。
ご興味のある方はご覧下さい。
「列を真っ直ぐにする」ということの目的のために隣の人の肩と自分の肩、隣の人の足と自分の足をくっつけると考えればいいのではということで、足を広げる事で、礼拝に集中できなかったら本末転倒ということだと私は理解しましたが。
アッラーフ アアラム
またラカーごとで離れていってしまう傾向がありますから、キヤームの都度、隙間を埋めて、離れないようにしましょう。
ー「アッラーのみ使いصلى الله عليه و سلمは礼拝者のストラについて尋ねられた。そこで彼は”鞍の後部のような物(مؤخرةالرحلmu'akhkharattu=r=rahl)と答えられた。」
(ムスリム、サヒーフ第一巻342p)
ー「あまえたちが誰でも礼拝するなら、面前に何かを置きなさい。なにも見つからなければ杖を立てなさい。それもなければ線を引きなさい。そうすれば彼(礼拝者)の前を通る者が彼(の礼拝)を害することはない。」
(アフマド、アブー・ダーウード、イブン・マージャ、アル=バイハキー、サヒーフ)
ストラの効力
ー「誰でも彼の前に鞍の後部のような物を置いて礼拝する時それは彼を隠していることになる。もし彼の前に鞍の後部のような物がなく、ろばや女性や黒犬が通過した場合は彼の礼拝は無効になる」
ろばは耳障りで、黒犬の姿は醜く(「黒犬は悪魔だから」とその後アッラーのみ使いصلى الله عليه و سلمは言われました)女性の姿は魅力的だからと考えられている。
(ムスリム、サヒーフ第一巻348p)
ハンバリー派のフィクフでは
「礼拝は馬具のような起立した遮蔽物(sitra)に向かって行うのがスンナである。もし起立物が見つからなければ線に向かって。真っ黒な犬が横切った場合のみ、礼拝は無効になる。」
(ハンバリー派フィクフ神事編419p)
「つまり、女性やロバや悪魔などは(無効に)しない」al=Raud al=Murbi'vol.2p119)
という説もあります。
ハディース・ムスリムでアブーフライラーによる伝承では「犬」の記載はなく、アブー・ダーウードやアン・ナサーイーでのイブン・アッバースによる伝承で言及している「生理中の女性が礼拝者の前を通ることを禁じる」箇所にも「犬」の項目はありません。
アッラーフ アアラム
アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام
السلام عليكم
سترةストラ(遮蔽物)とは、礼拝するものが眼前に礼拝場所と一般の通行人の往来とを観念の上で仕切る目印となるもの。
礼拝者の前を人が通った場合、その礼拝は無効になりますが、スジュード(跪拝)するすこし前方にストラを置けば、観念上で仕切りができ、前方が広がったところ(例えば公園)でも、礼拝ができるわけです。
ただし、ストラはあくまでストラであり、それに対して礼拝するわけではないと思いましょう。
同様にサッジャーダ(礼拝用マット)はサッジャーダであり、それに対して礼拝するわけではないので、私の知るシスターはときどきサッジャーダの向きをわざと上下逆にして、「サッジャーダではなくアッラーに向かって礼拝している」という気持ちを確認していました。
ですので、ジュマー(集団)で、横にいる礼拝者との間に空間が出来ても、持参したサッジャーダから動かずに、空間を埋めようとしない人がいて、「え~!!!」と内心思ったことがあります。(コタ・キナバルでジュムア(金曜の集団礼拝)に参加したときは顕著でした。’イード=ル=フィトルが今回名古屋では屋外で執り行われましたが、そこでも見られました。アスタグフィルッラー)
غقر الله لنا و لهم
ガファラ=ッ=ラーフ ラナー ワ ラフム
(アッラーが私たちを彼らをお許しくださいますように)
・・・このドゥアーを言うと、上述の内容がガイバ(陰口)になることが避けられるそうです。
ジャマーでは礼拝者と肩と肩、足と足をくっつけてシャイターンが入り込まないように礼拝します。
IslamQ&A#21502
神戸モスクでは肩と肩だけで、足はくっつけないそうです。
fiqf al-Imam KEY PROOF IN HANAFI FIQHの45P(ISBN 0-9728358-0-6)にはそのことについて言及しています。
ご興味のある方はご覧下さい。
「列を真っ直ぐにする」ということの目的のために隣の人の肩と自分の肩、隣の人の足と自分の足をくっつけると考えればいいのではということで、足を広げる事で、礼拝に集中できなかったら本末転倒ということだと私は理解しましたが。
アッラーフ アアラム
またラカーごとで離れていってしまう傾向がありますから、キヤームの都度、隙間を埋めて、離れないようにしましょう。
ー「アッラーのみ使いصلى الله عليه و سلمは礼拝者のストラについて尋ねられた。そこで彼は”鞍の後部のような物(مؤخرةالرحلmu'akhkharattu=r=rahl)と答えられた。」
(ムスリム、サヒーフ第一巻342p)
ー「あまえたちが誰でも礼拝するなら、面前に何かを置きなさい。なにも見つからなければ杖を立てなさい。それもなければ線を引きなさい。そうすれば彼(礼拝者)の前を通る者が彼(の礼拝)を害することはない。」
(アフマド、アブー・ダーウード、イブン・マージャ、アル=バイハキー、サヒーフ)
ストラの効力
ー「誰でも彼の前に鞍の後部のような物を置いて礼拝する時それは彼を隠していることになる。もし彼の前に鞍の後部のような物がなく、ろばや女性や黒犬が通過した場合は彼の礼拝は無効になる」
ろばは耳障りで、黒犬の姿は醜く(「黒犬は悪魔だから」とその後アッラーのみ使いصلى الله عليه و سلمは言われました)女性の姿は魅力的だからと考えられている。
(ムスリム、サヒーフ第一巻348p)
ハンバリー派のフィクフでは
「礼拝は馬具のような起立した遮蔽物(sitra)に向かって行うのがスンナである。もし起立物が見つからなければ線に向かって。真っ黒な犬が横切った場合のみ、礼拝は無効になる。」
(ハンバリー派フィクフ神事編419p)
「つまり、女性やロバや悪魔などは(無効に)しない」al=Raud al=Murbi'vol.2p119)
という説もあります。
ハディース・ムスリムでアブーフライラーによる伝承では「犬」の記載はなく、アブー・ダーウードやアン・ナサーイーでのイブン・アッバースによる伝承で言及している「生理中の女性が礼拝者の前を通ることを禁じる」箇所にも「犬」の項目はありません。
アッラーフ アアラム
アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام
私も名古屋のイードに参加しました。確かに『隙間』がありました。日本人ムスリマが肩をくっつけようとしないのは、日本的な習慣でよほどよく知っている間柄でないと体を触れ合うことに抵抗があるから、または隣の人が嫌がるのでは、という考えからだと思っています。特に集団礼拝の機会が少ない日本では慣れるまでにかなりの時間を要するのではないかと思います。でも「コタ・キナバルで顕著でした」を読んで
???です。とにかく、遠慮せずに肩をみなさんくっつけて下さい、お願いします!って次回の集団礼拝では呼びかけます。インシャーアッラー。
و عليكم السلام
NKさま
コメント、جزاكم الله خيراジャザークムッラーフ ハイラン
コタキナバルの新しいモスクでは、下が大理石かなにかで皆さんご自分のサッジャーダ持参でした。私のように何も持参していない者の為に、備え付けのもありました。自分のサッジャーダの場所で礼拝しようとする気持ちの方が強かったのでしょうね。おそらく。この間の名古屋の’イードも屋外だったため、自分のサッジャーダから動かない人が多く、「隙間」ができてしまったのでしょうね。コタキナバルの古いモスクは下にサッジャーダが敷き詰めてあって、肩をくっつけて礼拝しました。「隙間」がない方が、「みんなで集団で礼拝している」という気持ちが強くなります。日本でも定着していくといいですね。
アッラーのご加護と祝福がありますように
ز السلام