言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

若狭-小浜(5)

2006年11月24日 | Weblog
 若狭小浜を長きに渡り実効支配した酒井氏について、余談ながら話を続ける。
 酒井氏がそもそも、最古参の譜代大名たる由縁は松平親氏という共通の祖先を持つことに端を発している。
 親氏が坂井五郎衛門娘婿から松平太郎左右衛門の養子となったが、それぞれに子をなしたのが両家の発端である。
 酒井氏と称し、早くも三代目に左右衛門尉氏忠と雅楽頭家忠に大きく二系統に別れて伝えられることとなった。
 雅楽頭酒井氏五代目政親の庶子で三男の忠利が武蔵の国川越に分家した後、子の忠勝が三代目将軍家光の側近として元和6年(1620)仕え始めたのが累進の切っ掛けとなった。二年後早くも、武州深谷城一万石を領し大名の席に連なり、続く9年に家光が三代目将軍に就任するや、幕政運営上の中心人物として存分に能力を発揮しては加増に次ぐ加増の結果、十一万三千五百石を以て若狭小浜の領主となったのである。
 職分としては、寛永元年(1624)老中となり、ついには十五年大老職(当時に於ける名称は「御家老」と呼ばれていたそうだが)に上り詰めた。
 大老という職は、大変にご大層なものであって、史上実質たったの九人しか任命されていない特別職であった。
 当初は、長年の勤めに対しねぎらいの意味が込められていたらしく、江戸城中に於いて将軍家光直々に”毎日の登城には及ばず、ゆるゆると出仕して、訊ねるときに相談に乗ってくれればそれでよい”とされたらしく、又”予の前にても堅苦しく居住まいを正さずとも、膝を崩して安座せよ。頭巾も被ったままでよい。”という破格の扱いを受けることにまで及んだことは、これ以降の大老職が日常業務に就くを免除され、重大事や非常事態の決定事項の相談に専念する役職として位置づけられたことが決定した瞬間でもあった。
 寛文2年(1662)七十六歳で没して、江戸の牛込の長安寺に葬られたが、大正十三年になって、小浜の空印寺に改葬されたのが今に残る墓所である。