言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

安土-若狭紀行

2006年11月16日 | Weblog
 この大島半島付け根の部分は一続きの集落のようになってはいるのだが、高浜地区が海岸線を延々と海の幸による風情を感じさせるのに比べて、細い通りを挟んで東に行くと途端に何やら普通の住宅地を思わせる家並みとなっている。
 その如何にも細い道の東側集落を「安土」という。
 そう、「安土(あづち)」なのだ。
 織田信長の築いた近江の國にあった安土城の「安土」なのだ。
 この地名の由来の確認には、長い年月と、大変な労力とが掛かっている。
 実は、その「安土」の本家本元のような安土町に於いても、何故「あづち」という土地の名が付いたのかが理解解明されていなかったのだ。
 言ってみれば、何とも簡単過ぎることなのだ。
 が、弓矢の発達と大いに関係があるといえば、不思議な事と思われるだろう。
 だから、物事の解明は面白いのだ。その意外性と成る程と納得する感覚が一番の醍醐味なのだから。
 で、最初の内は、幾ら安土城跡の周辺をウロウロしても理解できなかった。
 最近の整備事業なんて未だ何も行われていなかったし、天守閣跡に上る道も藪に覆われていて、謂わば登山のような気分であったのだから。
 しかしながら、継続は力なのである。何でも諦めずコツコツと努力をしよう等と教訓を垂れたくなるほどの根気が成果を結ぶ日がやって来た。
 というか、切っ掛けと資料が手に入ったのである。しかも、全くの偶然に。
 大日本帝国陸地測量部発行の明治25年則図同33年製版「八幡町」が手に入ったのだ。
 日本の地形図の図式変遷史は、13年式(フランス式)→18年式(ドイツ式)を経て、陸地測量部が発足し→28年式→33年式→42年式と進んだという。
 言ってみれば、5万分の1の最古の地図と考えて貰っていいだろう。
 嬉しくて、舐めるように眺め回したのだが、地図の丁度真ん中上に琵琶湖の内湖
に突き出すように安土山が有るではないか!
 嘗ての安土城は南を除いて湖に囲まれていたのが地図上で確認されたのである。
 大手門も大手筋も南面に有るわけだし、城全体を眺めるのも南面からなのだ。
 そこで、よくよく山形を眺めてみると、或る特徴を持っていることに気がつく。
 今ではもっとハッキリと分かるようになっている。
 やはり、台形をしているのだ。
 何故やはりなのかというと、「あづち」と言う言葉は、元は「(編)あむ(土)つち」と言い、矢を射る的が据え付けられてある後ろに盛ってある台形の土の部分を指す言葉であったのだ。
 だから、弓道・弓術が日常的に鍛錬訓練する場が設けられ、それによって作られたという技術的・時代的背景を必要としたのである。
 そして、「あづち」という物が生じて、台形を指して「あづちがた」と言うようになったのだ。
 しかし、この地以外にも存在しないことには弱いのだ。
 傍証の例としての証拠が要る為もあり、彼方此方へと走り回ったのである。
 山形県温海町、長野県松本市、岐阜県春日村、島根県太田市(*異字)、愛媛県三瓶町、長崎県大島村(的山)、そしてこの福井県高浜町と、それなりにあることはあるのである。
 おかげで、大いに疲れることもあったのだが、兎も角今回、お見せする次第である。
 漁港海面の上にある山を安土山公園という。
 その山様の突き出た形の輪郭をなぞってみて欲しい。
 この写真ではやや右に振ってはいるのだが、大島半島の山塊がこの部分を以て尽きている。右手辺りから見れば、ハッキリとと示すことが出来たのだろうが、正確に見るには、人家が有って難しい。
 写真に撮れなかったのは残念だが、確認は出来るであろう。 
 こういった苦労も分かってみると、本当に嬉しいものなのだ。