言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

高浜和田-若狭紀行

2006年11月14日 | Weblog
 「言葉の始まり」と言っても、「始めに言葉ありき」という聖書にあるような事ではない。
 物や在り方や観念やらを人が人類としての歩みを始めてから、「言葉の発達と変遷」もあるが、多様な展開を見せ始めたことを含めて、言葉とは何だろうという原点を考え始めると止まらなくなった時期があった。
 といっても、現在は速度は落ちても止まっては居ないようだ。
 「高浜」だって、何故高浜というのだろう?くらいは言わなくても既に考えたことはある。当たり前ではないかなんて言っても尊大ではないだろうかな。
 その段階からもっと溯って、「浜(はま)」って何?となると、かなり時間も手間暇が掛かるのだ。
 辞書を見たって、定義としての”海や湖の、水際に沿った平地”しか無い。
 辞書は、現状の有り様を言うのが役目なのだから。
 問題は、常に語の始まりなのだ。
 語源と言うやつだ。
 端海(はあま)・端網場(へあみば)・踏むと足がハマルから(*これ本気なの?)・土地と海辺との端間(はま)・辺間(へま)と説が山と有る。
 笑ってしまうのだが、それでも了とするものが無い訳ではない。
 が、一向に胸の内にストンと晴れて了解はしない。
 一語に拘って考えるべきではなく、この高浜とか小浜や砂浜、砂利浜という範囲や、「磯」・「渚」も含めて「場」のあり方から考えるべき物なのだと思う。
 そうは言っても、「はま」を中心とする語の群は大量だ。
 殆どが、既に「はま」が「浜」という前提であるから、成り立ちについての参考になる物は見つからない。
 僅かに「蛤(はまぐり)」が、砂の浅い海底部にある「くり」が浜の有り様を言う事が分かる程度である。
 「くり」とは土木用語でも言うところの「くり石」と同じ岩石のことである。
 だから、「浜」とは砂地で有ることがそもそもの起こりであるとは推定できる。
 
 「和田(わだ)」に触れる前に草臥れてしまった。
 次回に回すことにしよう。