ヨーゼフ・K

2005-12-29 | literature

池内紀「カフカの書き方」(新潮社)を読む。

カフカのおさらい。
フランツ・カフカ(Franz Kafka,1883年7月3日-1924年6月3日)。プラハの裕福なユダヤ人家庭に生まれ、作品はドイツ語で発表した。

常に不安と孤独を漂わせる非現実的で幻想的な作品世界は、表現主義的とも言われる独特の不条理さに満ちている。生前すでにある程度の名声を博していたが、死後の1958年に友人マックス・ブロートの編集した全集が刊行されるまで忘れられた存在であった。全集の刊行後、サルトルやカネッティなどに絶賛され、世界的なカフカとなった。

1883年プラハでカフカ一家に生まれる。当時オーストリア・ハンガリー帝国の都市であったプラハで公用語だったのはドイツ語であり、カフカもドイツ語を母語としている。教育を受けたのもドイツ語であり、家庭は標準的な「カフカ」だったので青年期までほとんど自らの出自を意識することはなかった。反ユダヤ暴動が起こった時もカフカの家は暴徒から「ここのカフカはドイツ人も同然だ」と見逃されている。

プラハ大学在学中に生涯の友マックス・ブロートと出会い、影響を受ける。化学のほか少年期から興味のあった美術史やドイツ文学も学ぶが、将来の職業を考えて専攻は法律学だった。1906年法学博士号を取得した後、地方裁判所の研修を経てベーメン王立労災保険局に勤務。勤務態度は非常にまじめで、労働災害の減少を目的に書かれたイラスト入りの詳細な報告書を残している。

知人が彼について述べた言葉に「ドクトル・カフカは非常に礼儀正しい種類のカフカで、挨拶をすれば品のいい微笑とともに穏やかな会釈を返し、部屋がノックされれば、他の人のように『どうぞ』と怒鳴るのではなく静かな声で『お入り』と言った。感じのいい人で聖人のように思えるくらいだったが、いつもガラスの壁の向こうにいるように感じた」というものがある。勤務時間は早朝から午後3時ころまでであり、午後から深夜までを創作にあてた。後には錬金術師小路に小部屋を借りて創作のための仕事場にしている。(ウィキペディアから)

カフカ小説全集全6巻(白水社)の翻訳を完成させた池内紀氏が,「「難解」とされがちなカフカの小説のたのしさ,おかしさが少しでも伝わるように」と書いたカフカの「書き方」についてのエッセイ集。非常に興味深く読めた。ピントはずれの感想だが,とくに「「審判」の構造」や「「城」のありか」の導入部など秀逸だ。引き込まれるように「カフカ」の世界に入った。カフカの創作過程と意図,くらし,それをとりまく諸事情など興味深かった。

生前公刊された小説はごくわずかで,未完の長編「審判」,「城」,「アメリカ」のノートを含むすべての手稿を破棄するというのがカフカの遺言であったが,マックス・ブロートがそれらを保存編纂し著作集としてまとめあげた。これが「ブロート版」である。ブロート版には自身作家であったブロートの編集上の判断がかなり入っていた。1968年のブロートの死後,カフカの手稿の詳細な検討がはじまり,20年がかりで新しい手稿版全集が編まれた。池内訳「カフカ小説全集」はその新しい全集に基づくものであるとのこと。私は高校生の頃,通学列車のなかで「城」や「審判」を読んだ。あれは古い全集に基づく翻訳だったのだろうか。

数年前プラハに2,3日滞在する機会があった。街を歩き回っていたら,カフカの生家にぶつかった。名前を忘れたが大きな広場のすく横にアパートがあった。アパートの角にカフカのレリーフがかざってあり,それをしばらく眺めた後振り向いたところ,視線のすぐ先ヴルタヴァ川(モルダウ)の向こうにカレル城がそびえていた。「城」のモデルについてはいろいろあるとのことだが,そのときには「ああ,これがカフカの「城」か」という感想をもった記憶がある。

(ヨーゼフ・Kは「審判」の主人公の名前)

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