豊田 穣 「出撃―海軍航空隊決戦記」 (集英社文庫)を読む。
いつ購入したかわからない文庫本が実家の本棚にあり,手にとってみた。それがこの本。
副題にあるように,太平洋戦争海軍航空隊戦記を集めた短編集。
最後に置かれている「厚木航空隊の反乱」が一番長い。どちらかというと,それ以外の短めのものにひかれた。
とくに「紫電改戦闘機隊」,「ラバウル最後の爆撃機」。
「紫電改戦闘機隊」は,松山三四三空のエース,鴛淵孝大尉と菅野直大尉の物語。
著者自身海軍航空隊の飛行機乗りだったそうだが(出撃中撃墜され,1週間南太平洋を漂流した後連合軍の捕虜となり生還),若くして散った人々への哀惜の念がよくでている。
これはこの本のすべてについて言える。
奇妙な観念論的区別をもちだし自分たちの身を守ろうとする政治家の態度と正反対なものがここにはある。
著者の後輩にあたる人による巻末の解説もよい。
(写真は「最後の撃墜王」菅野直大尉。「カンノ一番」は「カンノ一番機」の意味で,日本側の無線を傍受していたアメリカ側は「カンノイチバン」を恐れたとのこと)
紫電改と三四三空について(Wikipediaから): 太平洋戦争中盤の1943年後半以降、劣勢の度を濃くしていった日本海軍戦闘機隊に、アメリカ軍を中心とした連合国軍の最新鋭戦闘機と互角に戦える強力な戦闘機として登場した。特に大戦末期、源田実大佐の下、全国から歴戦のパイロットが集められ松山基地で編成された第三四三航空隊(2代目。通称「剣」部隊。以下「三四三空」と略)は、集中配備された「紫電改」と腕の立つパイロットを組み合わせ、更に徹底的な改良が施された無線機(無線電話機)を活用した編隊空戦法により大きな戦果を挙げたとされ、この伝説のため一般には「遅すぎた零戦の後継機」として認知されている。アメリカ軍のグラマンF6Fヘルキャットとの空中戦でも味方被害ゼロの初陣を飾っている。
特攻拒否について:一時、三四三空に対し連合艦隊司令部から特攻攻撃の要請があったが、志賀飛行長が拒否し続けた為最後まで行われる事はなかった。戦後、志賀が残した証言によれば、度重なる特攻拒否に業を煮やした源田(実)が隊舎を訪れ、志賀に特攻を受け入れさせようと圧力をかけたという。志賀が「わかりました。それでは特攻編成の最初の一番機には、私がお供をしますから、あなた自身が出撃してください」と言うと源田は顔面蒼白になり以後、二度と特攻攻撃の話を持ち出すことはなかったという。
少し前「彗星夜襲隊―特攻拒否の異色集団」 (光人社NF文庫)を読んだ。美濃部正少佐率いる芙蓉部隊の話である。
芙蓉部隊(特攻拒否の異色集団)~戦争と平和 |
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