鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

清吉新道

2021年07月21日 | 鳥海山

 斎藤清吉さんの「鳥海山登行 山男のひとりごと」も大変面白い本ですが、すでに絶版。今も斎藤清吉さんを知る人は結構いて、思い出話はよく聞きます。

 鶴間池のところの標識にに書いてあった「清吉新道」の文字も近年削り取られました。清吉新道も植物園のあたりまでは登っている方もいるようですけれど、その先の道は跡形もなく消え去っているようです。

 新しい道は今後開削しようと思っても許可はされませんし、もとからあった道の修復なら許可はされるでしょうけれど、どこが道であったかわからなくなってしまった清吉新道を復旧するのは絶望というほかありません。昔から興味はあったのですが自分の体力、技術では無理、それにそこを知り尽くした経験者がいなければ、なので記録を見て想像し、楽しむだけにとどめています。

 ということで、今となっては古書でたまに見かけることがあるだけの「鳥海山登行 山男のひとりごと」中から「新道開削」の項の一部紹介します。冒頭は

『昭和三十二年十月、山形県総合体育大会山岳部門が鳥海山に決り、八幡町が主担当になった。 
しかし鳥海登山道の中、山形県側のものは行政区域的に遊佐町に集中していて、八幡町から頂上に直行出来る道はなかった。 
だが山岳関係者にして見れば、八幡町からは平素大分お世話になっている。 
この際大会記念に、八幡町から頂上まで直接登れる道を開削して町に寄贈しようと思いたった。 』

というところから始まります。

   七月二十日(第七日)雨後曇り

 やれやれ今日も降りこめられるのかと思っていたら、霧がはれ出し十時出発。 
 一昨日の地点から、妙な痩せ尾根に出くわしたがその まま拓いて行くと、ほぼ九百メートル地点で怪し気な小道を発見。はてこんな処にとは思ったが、何であろうと道があれば助かる。その道なりにドンドン登って目指す。大きな陵線に出たは良いが、この道は尻切れトンボの行き止まり。出来れば尾根なりに進むべきだが、この辺は 物凄く太い根曲り竹(チマキザサ)が密生していて、身動きも出来ない。 
 後で調べて見たら勘助坂からマタフリの滝の下を巻いてくる筍採り専門の道で行き止まりなのは当然だ。 
 とにかく無駄骨で、標高差で二百メートル程戻り今度は左にはいるルート探しにかかったが、夕刻になり小舎に戻る。 

 

 

 こんな調子で日記が開削の始まりから終わりまで続きます。興味ある方はぜひ手に入れて一読することをお勧めします。WEB上に無数にある鳥海山行きの記録を読むよりもこの一編を読む方がはるかに鳥海山への思いを感じることが出来ます。


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