すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

関心を持つということ。

2014-09-29 09:57:19 | 日記・できごと
秋晴れの週末、近所の商店街でお祭りがありました。

息子は人力車に三回も乗せてもらい、金魚すくい、スーパボールすくいも、なんと無料で楽しませてもらいました(*^^*)

太っ腹な商店街に感謝!
また、お買い物に来まーすの心境です。

金魚すくいは全滅でしたが、7匹もの金魚をおみやげにいただきました。

それで、夫と息子は帰宅してから水槽を買いにでかけ(商店街で水槽売れば儲かるのにーと思いましたが、その大らかさがいいのかも?!)、狭い部屋の一角にこんなコーナーが出来ました↓



命がやってくると、家の中が華やぎます。息子だけでなく、夫と私もなんだか嬉しい。

ついついじっと眺めてしまう私の隣で、息子は何度もエサをやりたがり、夫に怒られてます(^_^;)

お祭りでもらう金魚って、すぐに死んじゃうイメージでしたが、夫がネットで調べると、上手に育てれば10年は生きることもできるんだとか。

大切なのは、
エサと水質管理のための日々の観察。
そして、金魚への関心

関心かあ、と。

金魚かわいい、とか、
赤いのがキレイ、とか、
あっエサ食べてる、とか、
おはよう、おやすみ、とか、
きっと、そんなささいなことですよね。

関心って愛ですもんね。

金魚も、我が家に来た時から、私たち家族の関心と愛を必要とするようになるんですね。

マザーテレサの名言や「星の王子さま」のバラのお話にも通じますが、命は関心
を求めてやまない性質があるのということかな。

その反対の無関心は、命には致命的なもの。身体的虐待よりも、ニグレクトを受けた子どもの方が援助が困難、という話も聞きますが、命の性質を物語っています。

関心を持つということ。

家族になった金魚くんたちにも、実践してみます。それで、長生きしてもらおう。10年後も生きてくれる金魚くんがいたら、ほんとにステキだ。



気功教室に通う。

2014-09-06 12:01:33 | 日記・できごと
プレ更年期かな、という症状がしばらく続いていました。

関節痛に生理不順。

それ以外に、へその奥の炎症や脇の下の固定化した湿疹などの皮膚疾患も悩みのタネ。

治ってはまた発症するというサイクルがここ数年繰り返されて、気分はジミに下降傾向。

母が膠原病の一種を更年期以降に発症しているので、私も遺伝的にリウマチとかの心配もあるけれど、病院に行く気にはなれません。
怖いし、薬もいやだ。

で、なぜか気功をやってみたいと思いつきました。

市販の漢方薬で症状が緩和したので「東洋っぽいのがいいかも」と単純に思ったのと、以前やっていたヨガは遠のいてしまったのでヨガ以外の易しいボディワークを体験してみたいという興味から。

ホームページの雰囲気から、あんまり怪しくなさそうで、女性気功師のやっている気功教室を選んで行ってみることに。

体を振動させて気を感じ巡回させる養生気功というもので、健康と美容を促す効果があるのだとか。

先生は、素朴で静かな印象の人。参加してる人たちからは、やや重たいものを感じました。

軽い気持ちでやってきた私には場違い?などと思いながら、先生の見よう見まねで体を動かします。

うーん、なんだか、違和感。
教室を満たす重い空気や気功に対する警戒心もあったのか、最初はこの違和感だけ。振動で疲労した足腰の痛みも辛い。
もう、「来ないかな、多分」とも、思いながら。

そんな初心者の心を見越したように、先生はにこやかに言います。悟りの笑顔で。

「気功は頭でわかってるだけじゃ何にもなりません。まずは、やってみることが大切です」

やってみることが、大切。

この一言が、妙に残る。逃げ腰の自分に響く。言われてしまった、という感じです。

で、しばらくやってみました。家に帰って毎日毎日。

あれれ、なんだかいいかも。

何がいいかって聞かれてもわからないけれど、なんだかいい。毎日ついつい続けてしまうほど、私に馴染んでいます。さあ、今からやるぞ!と気合いを入れる必要もないほどに、自然な日課になっていく。段々、やらないと気持ち悪い感じになってきました。

ヨガは、スタジオでやるのは楽しかったけれど、家では長続きしなかったっけ。
だから、引越しとか出産があってやらなくなったのでした。


そして、数週間開けて再び気功教室へ。先生も、参加者たちも、なぜか明るい印象に変わっています。私の意識が変わったから?!

実際、参加者たちの顔ぶれは入れかわって、空気は軽い。オシャレなOLさんや奥様みたいな雰囲気の人が大半で、時折大きな笑い声が起きたりもしました。

違和感、は消えました。

症状は、消えたとまではいかないけれど、薄まりました。これは事実。最初は、すっきり消えないくらいでちょうどいい。

しばらくか、ずっーとかは、わかりませんが、続けます。気功と気功教室。

死の恐怖。

2011-05-26 22:08:35 | 日記・できごと

胃カメラを飲んだ。

飲んだといっても、鼻からのやつ。痛みや不快感は想定内だった。ただ、胃に空気を注入する音なのか、なんだかすごい音がするし、目の前には自分の胃や食道が映し出されて気持ち悪いし、ただ、そのおどろおどろしい感じに閉口した。

非びらん性胃食道逆流症という病名がついた。

胃はいたって綺麗で、症状があるものには、こういう病名がつくらしい。

2週間以上、胃の不調が続いていた。食欲不振、胃酸過多、げっぷ、口の酸っぱい感じ、みぞおちの痛み等々。

もともと胃は弱いけれど、ここまで長びくのは初めて。年齢も年齢だし、テレビでは児玉清さんが胃がんで亡くなってるし、

「もしや私も胃がん?」

そう思い始めたら、最後。

いてもたってもいられず、ネットであちらこちらの情報をひっかきあつめ、自分の病名、最悪の病名も頭に描いてしまう。

そのせいもあってか、胃の調子は悪くなる一方。胃カメラを飲む日までは、生きた心地がしなかった。結局、取り越し苦労になったわけだけれども。

自分にまつわるいろんなことに、最悪の状況を思い描くのが結構多い。マイナス思考という単純な話しではなく、いいことを思い描いて結果が悪かった場合、その落差に絶望するのはご免という感じ、
いわゆる防衛機制的な面もあるのだと思う。

こと、体の変調に関しては特にその傾向が強くて、年中、頭の中では「がん」にかかっている。

それにしても、私は、何が怖いのかな。

「がん」は怖い。それは認める。けれど、死ぬのが怖いか?という質問まで切り詰めていくと、わからない、となる。

「がん」というものの、その破壊的なイメージのせいだろうか。がんと同じように死亡率の高い心臓病、脳梗塞は、それほどまでに怖いと思えない。

たとえば、飛行機がおちる、というのはどうだろう。

それは、とてつもない恐怖。それって死への恐怖なのだろうか。うん、やっぱり死の恐怖のような気もする。感覚的な恐怖。

そうなんだ、死は感覚的な恐怖なんだ。
理屈を超えた恐怖なんだ。

池田晶子さんは、死が怖くない、死などそもそもない、と言っていた。
治療はしていたようだが、最後まで、がんと積極的に闘うでもなく、逝った。

死が怖くない池田さんも、最初の告知の時はどんな心境だったんだろう、なんて考える。飛行機が落ちそうになったら、心臓がバクバクしたりしないだろうか、とか。

池田さんだけじゃない。
死を怖くない、という人は結構いる。
「だからあなたも生き抜いて」の大平光代さんも、天国の存在を否定して最近話題になっていたホーキング博士も、死は怖くないと断言する。

子どものためだったり、まだしたいことがたくさんあったり、まだ、生きていたいとは思うけれど、特段死は怖くないと。

そういう人たちは、がんを告知された時、飛行機が落ちそうになった時、どうなんだろう。それは、それなりに恐怖を覚えるのだろうか。

その恐怖と死は必ずしもつながらないのだろうか。

死生観の話しが出てくると、必ずと言っていいほど、

「今を生きること」こそが大切、というような結論に持っていかれる。

池田さんの本にも、僧侶であり作家の玄侑さんの本にも、最近読んだ「父親が息子に伝える17の大切なこと」という本にも、そんなニュアンスの文章が並んでいた。

私としては、軽い肩すかしをくらった気分になる。

厳密に言えば、死を見つめることと、今を生きる、という二つがどうしてつながるのかわからない。

ただ、私の敬愛する人たちが口をそろえて言っているのだから、きっとそこには、広大無辺で深遠な、何かがあるのだろう。

胃カメラから、ずいぶんは話がそれてしまったけれど、何が言いたいのか、というと・・・。

私もそろそろ人生の折り返し地点にいる。感覚的な死への恐怖を超えて(少しずつ克服して)、自分なりの死生観を築いていく時期に足を踏み入れたのかな、
なんて思い始めているのだ。




雨の日の「とげぬき地蔵」

2006-05-17 21:28:53 | 日記・できごと

つい先日、そぼ降る雨の中、おばあちゃんたちの原宿「巣鴨」まででかけてきた。とげぬき地蔵尊高岩寺に参詣するためだ。

初巣鴨、初とげぬき地蔵。ひそかに以前から参拝したかったお地蔵様だ。

ご本尊のとげぬき地蔵は秘仏ということでお目にかかれず、境内にいらっしゃる洗い観音とお会いしてきた。
(この洗い観音さまをとげぬき地蔵だと思っている人多いみたい。何を隠そう、実は私もその一人でした・・・。笑)

普段の境内はおばあちゃんたちの長蛇の列で、洗い観音さんのところにたどり着くまでには、それなりの覚悟が必要のようだ。たまたま私が参拝した日は、雨ふりが幸いして、 数人の方たちが待っているだけで、するするっとおそばによることができた。

いやぁ、なんというお優しいお顔なのだろう。言葉を失うほど感動を覚えた。すべてを包み込む温かで、美しいまなざし、優雅なお姿。

もともと、仏像好きで、お気に入りの仏像というのも色々あるけれど、 これほどお優しいお顔をした観音さまは初めてお目にかかった。

いつまでも、いつまでも、ずーっと見ていたくなる、そんなお顔だ。

別れが名残惜しくて、帰るときに携帯の写真を撮ろうかとも考えたけれど、写真におさめるのが、なんだかもったいない気がして、やめてしまった(少し後悔・・・悲)。

この洗い観音さま、お腹の悪い人はお腹、頭痛のする人は頭痛、腰の悪い人は腰、という具合に、体の治したい箇所を白いお手拭でこすると効果があるという。直接手で触れてもいのだとか。

特に身体に悪いところのない私は、迷わず、水にぬれた観音さまの心(心臓)に手を当てて、ゆっくり撫でてみた。石の感触が、優しく指先に伝わる。なんともいえない心地よさ、そして安心感。

なんだか、心の棘がすっと抜けたように、わたし自身も優しい気分になってくる。

まるで、恋わずらいのように、今でもあの慈悲ぶかいお顔を頻繁に思い出す。とびきり悲しいことや辛いことがあったときには、迷わず会いに行こう!そう思っている。(まあ、すこし悲しかったり辛いときでもいいけど)

ゆっくりじっくり時間を掛けてお顔を見るために、もちろん雨の日をねらって。