今朝の祈りは、義母の「私が死んだら祈ってくれる」を思い出しました。
18才で結婚。姑に鍛えられ、4才の私を育ててきました。
当時の教主様に、「息子(私)を差し上げます」と言ったことを、しきりにおもわれるのも、幽顕行でしょうか?
義母は、昭和33年を境に、苦海から喜びの世界にはいりました。
それまでの苦労は、御神尊様とのご縁のきっかけとなりました。
姑を見送り、主人も見送り、
実の子がありながら、私たち家族と暮らしていました。
義母は、祈りを軸に、大きなことはできずとも、人の話しに耳を傾けました。
〈ともすがり〉と、原田行場の献身行にも、定期的にまいっていました。
常に御神尊様と向き合う姿勢、
その背中は、今もはっきり思い出されるのです。
人を憎んだり咎めたりする心は、〈笑顔と笑い声〉を奪っていました。
手を合わせて、そのことが分かってきました。
義母は〈我の念〉を断ち、〈どんなときでも、にっこり、おはよう〉と云える人になって、人生を卒業しました。有りがたいことです。
合掌
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