Already 三丁目は夕日

徒然なるままの些細なブログ

生きる、活きる。志、視、使、仕、死。こんなもんだろ、サラリーマンなんて。

2013-08-28 23:17:20 | 日記
最近、TwitterのTLで目にした「ビートたけし名言bot」が気になった。中身的には、自分のために死ねる百人を得るより、自分がその人のために死ねる一人を見つけた方が幸せ、みたいな感じだったと思う。確かに、文明開化から日本文化は間違いだったかのように、また太平洋戦争後には、過ちの償いと武力以外で西洋に勝つための方法として、日本古来の風習、精神を捨て去ることに力を入れてきた。今のところ、企業という組織では「自分のために死ぬことが出来る部下」を多数持つことが、組織内のステータスであり、世の中の上位にいるかの錯覚を与えるような泥酔状態を野放しにすることが、当たり前となってしまった。しかし、遣われているスタッフの誰の口からも「ソノヒトノタメニ、シネル」なんて言葉は絶対に出て来ない。
当たり前である。皆自分が大切なんである。
残念ながら、普通の企業人は、企業という組織はいつか出て行かなければならない。死ぬまで「自分のために死ねる部下」を持ち続けることは不可能である。しかし、年金受給開始年齢が遅くなるので、まだまだ企業という傘を被ることができる人生は続けることができる。繋がりを内向きに圧力をかけ続けてれば「自分のために死ねる」人は増えるだろう。しかし、企業という傘が無くなったときはどうなんだろう。まぁこんなことは出世出来ないサラリーマンの定番な愚痴。基本、出世出来ないサラリーマンは、下手な俳優と同じく、「芝居が下手」はともかく「自分に嘘を着くのが嫌」なんだろうと。
自分は「オトコゲイシャ」をしてまで、命を預けてもらう部下を得る必要はない。かといって、自分を認めない企業を恨むわけでもないのだが。
ただ年金受給開始年齢が遅くなるってことは、企業も雇用者を抱えなければならない。そこでイノベーションが早すぎる時代で、そんな意識で企業に残り続けることができるのか?肩書があっても仕事が出来ない職員はいる。年金受給開始年齢が遅くなることで肩書ばかりの職員も増える可能性は低くはない。そんな構造が続くのであれば、スキル継承なんてままならない。事実、一部の業界ではそうなってきている現状もある。どこに行くのかニッポン。その前に自分の在り方を考えろよ。