未来技術の光と影。
SIYOU’s Chronicle




「ランニングで脳が若返る! 新しい神経細胞をつくる因子のメカニズムを解明。
http://wired.jp/2011/08/23/%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%8b%e3%83%b3%e3%82%b0%e3%81%a7%e8%84%b3%e3%81%8c%e8%8b%a5%e8%bf%94%e3%82%8b/
老齢マウスにはWnt3がほとんど見られない。このままでは老齢マウスの神経新生は減衰していく一方だが、ストレスを感じさせない程度の運動(ランニング)を短期間行わせることにより、なんと海馬アストロサイト細胞のWnt3産生能が大幅に増加したのだ。
Wnt3の増加に伴い、海馬で新しく産み出される神経細胞の数が増加するため、老化で低下した「新しく神経を作る力」が、運動等によって再び活性化することが解明された。つまり、運動という外部からの刺激によって脳が若返ることがわかったのだ。

ランニングにより、脳を若返らせることができることが、マウスによる実験で証明されたようだ。

だが、はたしてこれがそのまま、人間にも適用されるのか?は、まだ不明であろう。

科学的とは言え、メカニズムが良く解明されていないうちは、無暗に目新しいことにチャレンジするのは、控えた方が良いかもしれない。


「凄いな。この記事読んだか?」
「ええ。人間でも効果あるんですかね。」
「そうだな、さっそく実験してみるか。おまえ、ちょっと走ってみてくれる?」
「何言ってんですか。こーゆーのは段階を踏まないとダメですよね。いきなり人間での実験は倫理的にまずいでしょ。」
「いや、解剖するわけじゃないんだからさ。倫理も何もないだろ。」
「わかりましたよ。・・・どうです?数値上がってます?」
「いや、全然ダメだな。もっと、必死に走らないとダメなんじゃないか?」
「いやいや、『ストレスを感じさせない程度の運動』ってあるじゃないですか。人間ではダメなんじゃないですか?」
「もう終わりかよっ。いくらなんでも、諦めるの早すぎだろ。」
「いや、実験なんですから、ちゃんと計画立ててから実行しないとダメですよね。」
「そーだな、じゃぁ、アレだ。お前、ねずみの真似してみな。」
「いや、そんな事で数値上がるワケないじゃないですか。」
「試してみもしないで、結果が解るのか?」
「いや、あまりにも『非科学的』だと言ってるんです。」
「検証を行わず、頭で考えただけで可能性を排除して行く。そういう態度では、偉大な科学者にはなれんぞ。」
「解りましたよ。やればいーんですよね。やればっ。『チュー』っ!!」
「・・・何それ?」
「いや、だから、ネズミの真似ですよ。やれって、言いましたよね。」
「言ったけどさ、そう言うコトじゃないんだよ。」
「『どうだっ!マブダチに殴られる気分はっ!マブダチに裏切られる気分に似ているだろっ!!』」
「・・・何だよ、それ?」
「『マジすか学園』に出てくる『ネズミ』のセリフです。どうです?数値上がってます?」
「上がるはずないだろ。」
「そーやって、試しもしないで否定するのが、一番いけないんじゃなかったでしたっけ?」
「解ったよ。じゃあ、これは効果がないみたいだから、次な。」
「『首から上は勘弁してくれよ。割と気に入ってんだよ、この顔。』」
「・・・それは?」
「『鉄コン』に出てくる『ネズミ』のセリフですよ。」
「・・・それ、似てるのか?」
「結構、似てると思うんですけど。」
「数値上がってないんで、次な。」
「『鬼太郎さんよぉ~』」
「いや、それはたぶん、『ネズミ男』だから。」
「だから、何でもやってみないと解りませんよね。」
「とは言え、このまま、無秩序に物真似ステージ進めても仕方ないだろ。『ネズミでは効果がある。ネズミと人間との違いは何か?を探る。』という主軸は、守らないと。それにさ、さっきから全然走ってないけど、一番大きなファクターは『走る』ってことだろ。それ抜きで物真似だけして若返るなら、物真似タレントの脳みそなんか、赤ちゃんみたいにツルツルになってるはずだろ。」
「じゃぁ、クマネズミとか、ハタネズミとかの真似ですかね。」
「真似ってゆーのは、声だけじゃないだろ。」
「たとえば?」
「そーだな。一番顕著なのは、走り方だろ。」
「走り方?」
「『Wnt3』が増加していた時のネズミって、二本足で走ってたと思うか?」
「・・・記事には書かれてませんね。」
「そりゃ、そーだろ。むしろ二本足で走ってたんなら、そっちの方が記事になるだろ。」
「そうすでかね。」
「そーなんだよ。いーから、やってみろよ。」
「自分、人間なんで、足、2本しかないんですけど。」
「知ってるよ。手を使って、四つん這いで走れって意味だよ。くだらねーこと言ってないで、さっさとしろよ。」
「・・・どうです?数値上がってます?」
「おっ、ちょっと上がったみたいだぞ。」
「本当ですか?からかって遊んでるんじゃないでしょうね。」
「自分で見てみろよ。」
「・・・んー、若干上がってはいますが、まだまだ、誤差の範囲じゃないですか?これ。」
「まだ、なんか足りないようだな。お前さ、ちゃんと、『ネズミの気持ち』になって走ってるか?」
「『ネズミの気持ち』?」
「そーゆーのが大切なんじゃないのか?」
「ネズミの気持ちなんて、解りませんからね。」
「じゃぁ、とりあえず、走りながら考えようか。」
「四つん這いで、ですか?」
「あぁ、その方が『ネズミの気持ち』が掴みやすいんじゃないのか?」
「解りましたよ。・・・どうです?」
「いや、ちっとも変わらないよ。もっと色々試してみろよ。」
「・・・『チュー』っ!!」
「おっ、すげー。数値上がったぞ。」
「まじっすか?」
「あぁ」
「と、言うことは?」
「と、言うことはだな。ただ、走るだけじゃダメで、『四つん這い』で『チュー』と鳴きながら走ることによって始めて、『Wnt3』の分泌量が増えるってことだろ。早速、ネットに第一報を流すぞ。」
「これ、発表するんですか?」
「あぁ、もちろんだよ。」
「いや、まずいでしょ。これは。」
「なんでだよ。」
「『四つん這いで「チュー」と鳴きながら走ると、脳が若返ることが科学的に証明』とかのニュースが流れたら、実践する人が出て来るとは、思わないんですか?」
「出るかもしれないが、精々、早足で歩く程度のスピードしか出ないだろうから、それほどの危険性はないだろ。」
「そんなことを言ってるんじゃないんですよ。仕事帰りに暗い道を歩いていると、後ろから来たやつが、四つん這いで横を走り抜けて行くんですよっ!そして、10mほど先で『チューっ!!』とか叫ぶんですよっ。怖すぎると思いませんか?」
「弱虫だな、お前。」
「そー思うのは、私だけじゃないですよ。普通はその場に固まって、見つからないように、気配を察して振り向かれたりしないように、息を凝らして、どこかへ行ってしまうのを祈りながら、その場に立ち竦むことになるんですよ。」
「そんなの、精々一分ぐらいだろ。」
「そういう時の一分って、何時間にも感じられるんですよ。そして、やっと姿が見えなくなりかけた時に、後方から、今度は2・3人の足音が近づいて来るんです。もう、絶対に振り向けないですよね。そーして、今度は2・3人がやはり、四つん這いで『チュー』とか言いながら、横を走り抜けて行くんですよ。怖すぎですよね。」
「いや、ふつーは、指差して、笑うだろ。『マジ、ウケるんですけどぉ』とか言ってさ。」
「『ブリッジ』で、高速で車を追いかけて来るお婆さんの話、聞いたことないんですか?」
「良くある、都市伝説のたぐいだろ。」
「子供のころ、その話聞いて、すごく怖かったんですよ。」
「でもそれは、『ブリッジ』だろ?四つん這いとは違う。」
「こーゆー記事って、そんなに正確に覚えてるもんじゃないんですよ。その時に抱いたイメージを思い出しながら、何となく実践してしまうもんだから、間違って『ブリッジ』で走ろうとする人だって、出て来るに違いないんです。」
「いくらなんでも、そりゃ、おかしいと気付くだろ?」
「『俺もやってみっかな?』って、試した時に、知らないうちに『ブリッジ』になってて、『あれ?思ったより難しいもんだな。』とか思って戸惑っていると、10人ぐらいのグループが近づいて来て『お仲間ですね?』『ご一緒にどうです?』とか声かけて来て、『あっ、ありがとうございます。でも、今日はじめてなんで、もうしばらく自分で色々試してみます。』『そうですか。では、お先に。』とかの会話があって、彼らは四つん這いで走り去って行くんですよ。」
「・・・それで?」
「で、しばらくして、ふと気付くんですよ。『そう言えば今の人達って、皆、「ブリッジ」だったよな。』と。もし『ご一緒』してたら、一体どうなってたんだろう。って、恐怖に震え上がりませんか?」
「お前、良く、そういうこと思いつくよな。」
「いや、なんか、前にそういう光景を見たことあるような気がするんですよ。」
「そんなわけないだろ。」
「そう言えば自分、小さいころ『ブリッジ』得意だったんですよ。おかしいな、こんなこと、今まで思い出したことないのに。」
「『Wnt3』の効果じゃないのか?」
「そうそう、ある時『ブリッジ』で歩いてたら、いつもは優しい母が『2度と人前で「ブリッジ」してはいけません!これはあなたの命に関わる、大事なことなんですっ!!』って、もの凄い形相で怒られたことがあったなぁ。まだ、歩くのもやっとぐらいの頃だと思いますよ。」
「そんな時の記憶って、残ってるもんなのか?」
「いや、自分でも良く解りません。こんなこと、初めてです。」
「どうやら、『Wnt3』の効果は、脳細胞が若返るんじゃなくて、脳そのものが、子供のころに戻って行くようだな。」
「そんなこと、あるんですかね?」
「本当なら、凄いぞ。これは、解剖してみないと解らんな。」
「何、ブラックな事言ってんですか。」
「いや、マジだよ。どうやらお前、人間じゃないみたいだからな。」
「なに、ワケの解らないこと言ってんですか?」
「自覚してないのか?さっきからお前、ずっと『ブリッジ』で走りまわりながら話してるんだぞ。」
「バブーっ!!」


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「Q&A:ビル・ゲイツ、世界のエネルギー危機について語る
http://wired.jp/2011/08/05/%e3%83%93%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%82%b2%e3%82%a4%e3%83%84%e4%b8%96%e7%95%8c%e3%81%ae%e3%82%a8%e3%83%8d%e3%83%ab%e3%82%ae%e3%83%bc%e5%8d%b1%e6%a9%9f%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e8%aa%9e%e3%82%8b/
1時間に及ぶこのセッションでゲイツ氏は、原子力は依然として最も安全なエネルギーであるが、先進国は研究開発に十分な投資をしておらず、ソーラーパネルを各人の家の屋根に付けたところで二酸化炭素削減にはつながらない、単なる「子どもだまし」であると述べた。


全く同感だ。

「原子力発電は必要である。」

もう少し正確に言えば、

「人類は、あと50年くらいは、原子力発電を使わざるを得ない。」

と私は考える。

では、「原子力発電は『必要悪』である。」のか?

『悪』であるのは、「原子力発電」という技術ではなく、それを安易に運用していた人的要因にある。

中国での高速鉄道の事故を聞いて、日本の人々はどう思ったか。

「高速列車は危険であるので、新幹線をすぐに廃止すべきだ。」

とは、普通は思わない。

「安全対策が、日本に比べて不十分であったのであろう。」「事故の原因を追及し、どうしたらもっと安全に運用できるのかの対策を打つべきである。」

と、思うであろう。

それは、航空機の事故でもそうであるし、自動車事故でもそうである。

日本だけでも、年間5千人の人が、自動車事故で亡くなっている。

これだけの人命が失われているにもかかわらず、「自動車を廃止するべきだ。」との声は聞こえない。

それは、代替手段がないから。というのも、大きな理由であろう。

だが、先ほどの高速鉄道の件で、「廃止すべきだ」とは考えずに、「安全性に問題があったのでは?」と、考えた時に、「代替案がない」ことを検討した者がどれだけいたであろうか?

恐らくは、既に同様のことが何度もあったため、最初にその事に思い至った時点で、「代替案がない」ことも考慮した末に、「廃止はありえない。安全性を向上するべき。」との結論に至り、以降、同様の事象が発生した場合には、意識下でこの選択肢は捨てられ、意識に上ることがないものと思われる。

そう言った意味で、今、原発の安全性について、熟考するのは大切である。

では、「原発の安全性」はどれだけのものであるのか?

そもそもは、最初に原発を計画した時に、地域住民の反対に対して「原発は安全である。」と、宣言してしまったことに端を発する。

100%の安全性など、この世には、ない。

だが、「ほとんど安全である。」とか「危険性は殆どない。」では、反対派を押し切って、事業を強行することが出来ない。

この「原発は安全である。」というレトリックが、反対派を宥めるためだけに使用されたのであればまだ良かったのたが、原発が運用されるようになってから天下って来た上層部も「安全性?100%安全なんだろ?」との、盲目的な過信に至ったのではないのか。

そのため、安全性の向上に対する技術改革が、二の次になってしまっていたのは確かであろう。

原発は安全なのか?

少なくとも、これほどの被害を出さずに、運用することが出来たのは明らかだ。

「想定外の大きさの津波であった。」

のが、今、今回の事故の主要因とされている。

確かに、これだけ広範囲に被害が及んだことに関しては、想定外の域に達している。

だが、原発の設計の際に考慮するのは、その地点での津波の高さ=波高だ。

Wikiの「津波」の項(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2)をちょっと見ても解るように、決して想定外の規模とは言えない。

データの不正確さを鑑みたとしても、過去に同様の津波は発生している。

明治以降でも、大きな津波被害は10件に上っているし、その半数で「波高」が福島原発の想定波高=5.7mを上回っている。

平成5年の「北海道南西沖地震」では、波高16.8mを記録している。

今回のような津波の襲来を想定していないのがおかしい。

「安全性」云々を語れるレベルに達していないのは明らかだ。

そもそも、「5.7m」という精度の数値が、想定値とし出てくるのはおかしいであろう。

現実に発生した津波の波高ですら、0.1m の精度では観測出来ていない。

堤防の建造では、高さが10cm違うだけで、建設費用が大きく違ってくる。

堤防をどれだけ高く作る必要があるのか?のために恣意的に導き出された数値であろう。と、批難されても、なんら反論できない値だ。

原発についても、他の事故と同じように、どうしたら安全性が高められるか?の検討を、ちゃんとして欲しい。

「たとえ技術的な改善が可能であったしても、既得権益に雁字搦めになった組織構造に問題があるので、原発に安全性を期待するのは不可能である。」

との声もあるであろう。

だが、日本の社会の仕組みは、そこまで絶望的な状態なのであろうか。

それこそ、これを機に、改善するにはどうしたら良いのか?を、ちゃんと検討するべきではないのか。

今まで通りのやり方で、今後も日本の経済的首位が維持できると、皆、本気で思っているのか。

ただ漠然と「大丈夫だろ」と、意識下での判断に頼り過ぎていないだろうか。


「これでは、安全性への配慮が、二の次になっていたと批難されても、なんら反論が出来ないのではないですか?」
「おっしゃる通りです。大変申し訳ございませんでした。」
「と、言うことは、今のこちらの言い分を認めるわけですね?」
「と、おっしゃいますと?」
「安全性の向上は『二の次』になっていたと。」
「はい。全くその通りでごさいます。」
「では、『一番目』は何だったんですか?」
「はい?」
「安全性を二番目にしてまで、優先させなければならなかった『一番目』の事項とは、何だったのでしょう。」
「...それは、経済的要因です。どんなに素晴らしい計画があっても、それに見合った資金がなければ何も実現出来ません。」
「このずさんな計画の、いったいどこが『素晴らしい』と言うおつもりですか?」
「...『素晴らしい計画』とは、このことだけを指すのではありません。」
「私腹を肥やして、『都内の一軒家に住む』とか『ベンツに乗る』とかでしょうかね?」
「そんな、小さなことではありません。」
「では、何なんでしょう?」
「将来は『財団』を設立して、世界平和に利用するんですよ。」
「自分で言っていて、嘘くさいと思いませんか?」
「80年代にビルゲイツが同じようなことを言ったとしても、恐らく誰も本気にしなかったとは思いませんか?」
「しなかったでしょうね。」
「だったら、私が言っていることが嘘だと断定することは、出来ないのではないかね?」
「いえ、簡単ですよ。」
「・・・?」
「80年代には彼も、そんなことは考えていなかったと思いますから。」

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