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あみの3ブログ

141 郡上八幡城@岐阜県郡上市八幡町 令和元年(2019)12月8日 観光編・資料収集編

東海北陸自動車道の郡上IC付近を通過すると山頂部に見える美しい城。
特に夜間に通過するとライトアップされ、漆黒の闇に白く浮かび上がる姿は幻想的でもある。
いつかはライトアップ時間帯に訪ねたいと思いながら、結局帰途を優先させ一度も訪れることができなかった。

今回は1泊2日の行程だったので、2日目関の白神で限定ラーメンを食べてからこちらに立ち寄る計画を立てました。
紅葉は既に終わりを迎えていましたが、好天に恵まれ白い城壁と青空のコントラストが大変美しかったです。
高速道路からの遠景も美しが、天守閣からの眺望もまさに絶景です。



令和元年(2019)12月8日
東海北陸自動車道「郡上IC」下車、吉田川沿いに旧八幡町内に入り、安養寺脇から麓の第1駐車場に進む。「この先急坂・険しい細道」の警告看板に恐れをなし徒歩で登山する観光客も多い。一方通行なので対向車は無く、ワンボックス車でも通行可能。城直下の第2駐車場にはトイレや案内板も完備。そこから徒歩5分以内で到着できる。




駐車場からの参道・西側の石垣は、中央部に現代の積みなおしもあるが、周囲の石垣は往時の姿をとどめている。




追手道(登山道)付近の見晴らし広場は登山の疲れを取る人、やのんびりとお弁当を広げる人の絶好の休憩場となっている。


ここからのお城の眺めは抜群で、絶好の撮影ポイントです。


櫓も再建されており対比が美しい。


石段からの姿が美しく、雪に埋もれた風景は絶品。(でも来たくないw)



資料館事務所で入場券を買い、階段から大手門に向かいます。


正面に天守が見えてきます。



内部は資料館となっており、歴代藩主や郡上の城下町の歴史が紹介されています。
土佐藩主山内一豊の妻で内助の功で有名な千代は、初代八幡城主遠藤盛数の娘として生まれたそうです。
一豊の子孫で幕末の土佐藩主、山之内容堂は坂本龍馬の主君であり、大政奉還から明治維新にかけての一方の立役者として歴史に名を遺した人物です。


内壁や階段、太い柱、すべてが昭和8年に建造された純木造建築。
当時の外観を知る資料が無かったので大垣城を参考にしたそうです。その大垣城は戦災で焼失、再建する際は逆にこの郡上八幡城を手本にしたそうです。


ギシギシ・ミシミシときしむ音でそれを感じることができます。





天守閣からは郡上八幡の街並みが一望できます。


目を転じると深い山並みとそこを切り裂くように走る「東海北陸自動車道路」も見え、自分が見上げていた城に今たっているんだなぁ~と感慨もひとしお。


天下人はこんな風景を見ていたのでスケールが大きんだと思わずにはいられませんね。



【概要】
戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていた。その後、東氏は郡上八幡の町を流れる吉田川の対岸にある赤谷山に赤谷山城を構えたが、永禄2年(1559年)牛首山(後の八幡山)の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされた。その時、赤谷山城を攻撃した時に砦を築いたのが郡上八幡城の起源である。
その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放された。慶隆追放後、天正16年(1588年)に稲葉貞通が城主となり、郡上八幡城の大改修を行った。その内容は八幡山の麓に新たに濠を掘り、本丸に天守台を設け、塁を高くして、塀を巡らし、武庫と糧庫を増築し、鍛冶屋洞に面して大きな井戸を掘り、二の丸を増築して居館とした。この時、現在見られる近世城郭としての郡上八幡城の基礎が築かれた。
その後、関ヶ原の戦いの功によって再び慶隆が城主となり、城の改修を行った。『慶隆御一世聞書』によると、郡上八幡城は慶長6年(1601年)春から慶長8年(1603年)秋まで普請を行い「惣石垣三塀二重之矢倉松ノ丸桜ノ丸等出来」とある。5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以後井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。廃藩置県まで郡上藩の藩庁であった。

青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県によって廃城となる。廃城の翌年の明治3年(1870年)に、石垣だけを残し、取り壊された。現在の天守は、大垣城を参考に1933年(昭和8年)模擬天守としては全国的にも珍しい木造で造られた(本天守は現存する木造再建城としては日本最古となる)。
1955年(昭和30年)8月30日に石垣などの城跡が岐阜県指定史跡に、1987年(昭和62年)9月10日に模擬天守が郡上市有形文化財に指定され、内部は歴史資料館などとして利用されている。

山城であり、市街地を流れる吉田川のほとりに聳える。城自体は小規模だが、城下から眺める城の風景や、城から見下ろす城下町のたたずまいは大変美しい。作家司馬遼太郎は『街道をゆく』で「日本で最も美しい山城であり・・・」と称えている。城の入り口までは徒歩でも自動車でも行くことができ、山麓には山内一豊と妻千代の像がある。
日本100名城の選定対象となるものの、検討の結果、選定されなかった。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(141番)に選定された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


【縄張り】
築城時には吉田川を何党の外堀とし、山頂の要害部と山麓の居館部分からなる典型的なちゅせい山城であった。稲葉氏改修で中腹に二の丸が設けられ、江戸時代中期の改修でここは行政機能を持つ御殿を中心とする本丸となった。これに伴い山頂の旧本丸は丸・桜の丸に分割された。

郡上八幡城公式サイトは→こちら

【郡上八幡城】
《中世の砦から近世の山城へ》

名称(別名);積翠城
所在地;岐阜県郡上市八幡町一の平659
城地種類;山城
築城年代;永禄9年(1566)
築城者;遠藤慶隆
主な城主;遠藤氏、稲葉氏、井上氏、金森氏、青山氏
文化財区分;県指定史跡
近年の主な復元等;昭和8年(1933)10月
天守の現状、形態;
地図;



※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
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