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あみの3ブログ

疋壇城@福井県敦賀市疋田 令和四年(2020)5月21日

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文明年間(室町時代 1469~1487)に朝倉氏の将・疋壇対馬守久保によって築かれた。
 疋田の地は、柳ヶ瀬越・塩津越・海津越といった越前と近江を結ぶ道が集まる交通・軍事上の要衝であり、越前の最南端における防衛拠点としての役割を果たした。また、古文書からは、本城の東・南・西の三方にそれぞれ出城が設けられていたこともうかがわれる。
 元亀元年(1570)の織田信長による越前攻めの際に、手筒山城・金ケ崎城と共に疋壇城も落城した。信長軍が撤収した後に一旦は修復されたらしく、朝倉氏の栂野三郎右衛門尉景仍らが布陣した。しかし、天正元年(1573)8月にふたたび信長が越前に進撃すると、刀根坂の戦いで朝倉方は大敗、城主疋壇二郎三郎は討死、城も破却された。
 そこから400有余年、今も石塁や濠跡が名残をとどめ、周辺に残る城郭関連の小字名と共に往時を物語っている。敦賀市教育委員会、、、現地説明板より


場所は福井県敦賀市疋壇46号字南城( 福井県敦賀市疋田43-1-3)
北陸道「敦賀IC」下車、国道8号線バイパスを高島・大津方面に南下すると、「疋田」交差点で湖東廻りの国道8号線(長浜・米原方面)と、湖西廻りの国道161号線(高島・大津方面)に分岐します。国道161号線へ右折したら、すぐに側道を右折して疋田集落に入ります。
「愛発川の里展示室」の建物が左手に見えたら、小川沿いの道路を左折して集落の中を進みます。



暫く進むと右手に「日吉神社」参道の階段が見えます。神社に登る階段はもう一つあって、そこに「疋壇城址登り口」の木柱が建っており、僅かな駐車スペースがあります。



そこからさらに200mほど進むと集落の外れに「フジインターナショナル」という会社が見えますので、右手手前方向に曲がって山へ登ります。



この道は私道で狭いですが舗装されており、すぐに頂きに達します。




国道161号線からすぐに右折するポイントを見逃した場合は、そのまま400m程進むとJR北陸線の高架トンネルが見えますので、その手前で右折すると「フジインターナショナル」の前に出ます。

私道を道なりに登ると段々になった平坦地に廃屋のような建物が見えてきます。そのまま進むと広い空き地に至りますので、そこが目的地です。



この広場は小学校の跡地で、その後ゲートボール場となり町民の憩いの場となっていたようですが、旧・小学校の建設により疋壇城の南側の曲輪の一部は破壊されたと思われます。
天守より俯瞰
写真右側(西方向)には、JR北陸線(湖西線)が通っています。



この広場の北側に疋壇城本丸が広がり、小高い丘の上には天守台があったとされています。



東側には説明板と城址碑が建っています。



西側の天守台登り口の脇には案内板が設置されており、木箱の中には「訪城ノートと縄張り図」がありましたが、残念ながら持ち帰り用の印刷物はありませんでした。



アクリルにファイルされた縄張り図を写真に撮ってきましたので、それに基づいて行程を紹介します。
この縄張り図は、大正3年6月に浅井孝次郎という人によって作成された1/2000実測図です。赤いマジックで「現在地」「小丸」「本丸」「南城」と記入されていました。
その他はブログ管理者による加筆です。

城は疋田集落の背後にある標高90mの山の頂上に主郭を置き、北と南に主郭を挟むように副郭を配置し、主郭には天守台と思われる高台と段郭が配置され、三方に空堀を巡らせています。南側が小学校建設で破壊されていますが、もしかしたらそこにも空堀があって、四方を取り囲んでいたのかもしれませんね。

特筆すべき点は、本丸・天守台の石垣、本丸段郭法面の石垣、空堀法面特に東面切岸の石垣、副郭の段郭石垣など、いたるところに石垣の遺構が見られます。
これらがすべて同一時期のものなのか、誰かの改修によるものなのか分かりませんが、一部が近世の耕作で積んだものでなかったとしたら、総石垣の壮大な要塞であったことでしょう。




「本丸」

「天守台」
天守台登り口から進入すると、右手に小高く盛り土された一画にでます。実測図の「本丸」南端に設けられた「天守台」です。
南西隅の虎口のようなところから上段に登ってみますと、10m四方はあろうかという削平地で、下草が奇麗に刈り取られ整備されていることがわかります。その中央部に「城址碑」が建っています。
礎石列などは残っていないようですが、まさかこの敷地いっぱいに櫓が建っていたわけではないでしょうね。もしそうだとしたら巨大な建造物になってしまいます💦



少し離れて全体像を見てみましょう。
土台石垣部分が二段重ねになっており、北側に犬走のような空間がありますが、真正面から見ると下段と上段が重なって一体化して見えます。つまり高石垣に見える効果があります。



一段目の石垣から後方の二段目を見た写真。




「本丸郭」
天守台上から北の方向を俯瞰
本丸中央部の削平地は、現在耕作地に転用され畑となっています。



本丸西側のスロープ
北東隅から入って北面、西面、南面と周囲をぐるっと回って天守台に至る、傾斜の付いた通路に見えます。



本丸から東方向
疋田の集落と国道161号線
当時は街道監視の役割があった。



天守台の東隣にあるこじんまりとした郭。
虎口のようなものと、僅かに石積みが残っています。離れのような感じですね。



本丸北側
北面の土塁



北面の土塁から石塁は虎口に繋がる
北東から南東にかけ角石を中心に石積みが露出しています。


本丸北東隅には出入り口があります。(大手口)
両脇に石が積んであり、階段で4mほど下へ降りて、右(東)へ直角に曲がる道は大手道と思われます。
土塁、石塁と組み合わせた内升方虎口ではないでしょうか。



虎口から出て、大手道を降りていきます。
本丸は東に向かって傾斜しており、幾段にも斜面を削って段郭を設けています。実測図にはこの段郭が記載されていないのが気にかかります(;^ω^)
本丸削平地から数えて5段はあったと思いますが、それぞれの法面は石垣で覆われています。



段郭の下は東側の空堀となります。



「私道東側郭」
空堀の北端を大手道が通っており、その先は現在の私道に合流しています。



この私道の東側にも削平地があり、その下は疋田の集落となっています。



もしかして何か残っているかもしれないと思い、私道から下の削平地に降りてみました。
すると竹藪の中に石垣が見えるではありませんか。やはりこの削平地も郭だったのだと思われます。



少し行くと私道と削平地の間の法面にも石積みが見受けられます。





「小丸」
本丸から、北空堀を挟んで北側に広がる小丸郭方向



先ほどの私道沿いに小丸の東面石垣が築かれています。



東側に開いた登り口から小丸曲輪の内部に進んでみます。



先ほどの本丸東面と同じように、小丸東面の傾斜を階段状に削平し法面を石で覆っています。
各段郭削平地は、現在耕作地に転用され畑となっています。
こちらも実測図にはないので流石に不安になりました(;^ω^)



東斜面の段郭は、近世に耕作地として開墾した際、遺構を破壊して段々畑にし、法面を石で補強したものだったのではないでしょうか???
ミーハージジィには石積みで年代を推定するスキルはありませんので、、、(;^ω^)


でもこんなところに耕作地は無いハズなので、やはり、、、本物???




「空堀」
今度は本丸を取り囲む空堀を見てみることにします。


「西側空堀」
天守台登り口の西隣にありますので、そこから堀底に降りていきます。堀底は現在一部が耕作地に転用され畑となっています。



堀底からの写真
右手が本丸切岸、左手が西側土塁、奥が北空堀へと繋がっていく



本丸切岸にも石積みの痕が見られます。



「北空堀」
西から北へL字型をして繋がっていますが、自然地形を巧く利用したものと思われます。
つまり100%手掘りしたわけではないでしょうね。



本丸と小丸の間を隔てる北空堀
こちらも堀底は現在一部が耕作地に転用され畑となっています。




「東空堀」
見どころは本丸切岸の石垣
この上部は天守台横の離れみたいな郭があるところで、スパンと切り取ったようなほぼ垂直な切岸となっています。そしてほぼ垂直な石垣を積む技術はいつ?誰が?
これはもう、高石垣といっていいのではないでしょうか。







空堀の北端方向
空堀の東側を私道が走り、西側の斜面には本丸段郭の石垣が整然と並び、堀の深さと規模がハッキリとわかる。また堀底は耕作地とならずそのまま残っているので遺構としての機能美が感じられる。



本丸下の城址碑や説明板がある辺りが空堀の南端です。


空堀の南端内側の石積み
ここに石を積んでいるという事は、南面に仮に空堀があったとしても繋がってないなかったという事になります。
しかしこの石積みがある堀端面は、もしかしたら土橋だったのではないでしょうか?
そして小学校建設で破壊された南側にも空堀があって、堀に架かる土の橋だったようなイメージです。





「南城」
かつて本丸の南側にいくつもの郭を連ねていた一画
私道の西側に広い平坦地が階段状に並び、建っているのは廃屋。
おそらくこちらも、建設工事で遺構が破壊されているものと思われます。



私道の東側にもいくつか残っており、現在アンテナ塔が建っている辺りに石積みが見られます。



その下の段郭
ちょっとした虎口のようなものも見て取れます



こちらには土塁のようなものも残っています。




小学校跡地から南側に残された削平地
私道の西側に多く残っています。



廃屋がある削平地に侵入してみました。
奥の樹木で覆われた辺りが怪しい(;^ω^)



案の定!石垣発見!!
角石です。
この石の配置から推測すると、石垣上の建物はこの廃屋よりさらに西側にあった事になります。
これより西側には現在JR北陸線(湖西線)が走っており、城郭の一部は線路の下か?



南城段郭最南端の曲輪に建つ廃屋



そこから西に回り込むとJR北陸線の線路がある法面になります。
ナント!
その法面にも石垣があるではありませんか!
こちら向きに石が積んであるという事は、やはり城域はさらに西側に広がっていて、線路の工事で分断破壊されたのでしょうか?



JRの線路法面伝いに下から上段(本丸方向)へ移動してみました。
すると小学校跡地の台地まで石垣は続いていました。
こうなるとまた心配事が、、、(;^ω^)
この石積みはJR線路の護岸壁ではないのか???
ここでもスキルの無さが露呈(;^ω^)
ただのミーハージジィにはもうギブアップです😿




現地説明板によれば、手筒山・金ケ崎城と共に陥落したが、織田軍が撤収した際朝倉方の栂野氏が入り一旦修復されたとの事。
あの見事な空堀はいつ誰の手によるものなのか?
そして天守台石垣は?
東空堀の高石垣は?
小丸の石垣は?
南城の石垣は?
なぞは深まるばかり、、、

福井県教育委員会の「越前愛発関試掘調査概報1」に関わる「平成8年度 疋壇城跡周辺における第1・2次試掘調査」報告書によれば、
『(疋壇城南東部)石列遺構は中世末と近世初頭の2期に亘り、疋壇城が破棄されたとされる天正元年(1573)以後にも修築され使用された可能性がある。』
『地元に伝わる史料「疋田記」には、天正11年(1583)、越中陣の出来に際して、「秀吉公疋田城御膳ひ」と見え、上記のことと照応する。』とあり、
羽柴秀吉が富山の役出陣の途中、疋壇城に立ち寄るにあたり、越前統治にあたっていた丹羽秀長が改修した可能性を示唆している。

またミーハージジィの妄想ですが、朝倉氏滅亡の後越前を支配した柴田勝家が、羽柴秀吉との確執で戦になることを警戒して疋壇城を改修したことは十分考えられると思いますが、流石に石垣など見栄を張る余裕はなかったと思います。

となると、派手好きな秀吉を喜ばせるために丹羽秀長が領主の実力を最大限発揮したのだろうか。


いずれにせよ、疋壇城は交通の要衝。
琵琶湖の北、越前と近江の国境近くにあり、北陸と京都を結ぶ琵琶湖の東回りルートと西回りルートの分岐点があった。
現在においても、城の東を国道161号線が通り、国道8号線との分岐がある。そして西側にはJR北陸本線の湖西線が通る交通の要衝であることに変わりない。

東の山麓の海津越(七里半)から見上げると、城の東面の高石垣だったり、幾重にも重なる段郭の石垣が、威圧するように通るものから見えたであろう。


湖西線「南城踏切」通過するサンダーバード





【疋壇城】
《ひきだじょう》

名称(別名);疋田城
所在地;福井県敦賀市疋壇46号字南城( 福井県敦賀市疋田43-1-3)
城地種類;平山城
標高/比高;90m/10m
築城年代;文明年間(1469~1487年)
廃城年代;1573年(刀根坂の戦い後)
築城者;疋壇対馬守久保
主な改修者;
主な城主;疋壇氏
文化財区分;福井県指定史跡
主な遺構;曲輪、堀、石垣
近年の主な復元等;


※出典、、、
地図;
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