昭和20年7月7日の七夕大空襲で家を焼かれてしまい路頭に迷う。
中学を卒業して西千葉ゆりの木の現在地「新聞販売店」に住み込みで働く、
3畳一間の個室でお給料ももらえる。 大変な仕事でしたが活き活きと働きました。
改築前の西千葉駅は改札を通ると砂利の上を歩いてホームに「懐かしい」
店前は舗装道路ではなく、
確か街路樹は桜が植えてありました。
20歳新聞配達をしながら美容学校に通う。
美容師になろうと決断したのは「新聞の人生案内欄読んでいると」大学を卒業する男性が
美容師になりたいが心配です。という記事でした。
答えは、欧米先進国は男性が主流だから10年たてば日本も男性が活躍する。
10年、我慢ができれば挑戦したらという事でした。
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新聞記事を読んで「えっ」そんな職業があるんだ。
たった10年我慢すればいいんだ。
競争する相手が今はいないんだ
お客様が女性で経営者も美容師さんも女性・・・ようーし、それなら、
中学しか出ていない。
お金もない
親も助けてくれない
ない、ない、ない、 自分だが10年我慢すれば、努力すればいいのだと思いました。
新聞販売店で働いている間、松波町と栄町に住んでいました。
まだ千葉駅が市民会館のところにありました。
確か幸町「壁の穴の木村さんが住んでいるところは海でした」
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昭和39年12月21日現在地の隣に(まこと美容室)をオープンしました。23歳でした。
そのときにためていたお金は15万円でした。後はお金を借りて・・・
オープンしても技術も未熟で、お客様も少なく給料を払えないので、新聞販売店で朝2時に起きてトラックでの新聞の配送をしてました。
5ヶ月ぐらいでしたか、、、居眠り運転で死ぬ思いをしたり、お給料も払えるようになったので辞めさせてもらいました。
40歳で結婚するまで美容室MADOKAの2階に住んでいました。
戦争、アメリカ軍の空襲、焼け出され、仕事を得て、
職業が新聞配達からスタートして、新聞の記事により美容師の職業を得て、新聞販売店が閉店した後に美容室をオープンする。
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千葉駅も現在地に移り中心市街地はすっかり変わってしまう。
海も埋め立てられ
西千葉駅も高架駅に変わり
京葉線が開通
ゆりのき通りも舗装される
ぶら下がりモノレールが走り
奈良屋、扇屋、田畑、が無くなり「そごう、三越、パルコ」がオープン
そして、何時の間にか66歳になる。
自分の千葉市は院内、栄町、松波からスタートして千葉の中心市街地で遊び、楽しみ、
西千葉を中心とした仕事、活動に・・・・
千葉市で空襲に会い・・・千葉市で職業を得て・・・千葉市で独立し・・・千葉市に住む
政令指定都市 千葉市 大きなまちです。
これからの人生・・・死ぬまで千葉市に住むのでしょう。
これからの人生・・・内を目指して生きるのか アミーゴ
今日の写真は真っ白に改装した美容室MADOKAです。写真より素敵ですよ
第3土曜市は基本的に出店する事が出来ます。
JIROさんが担当ですが伝えておきます。
どうぞ、楽しみにしています。
ピーナツ活用も大賛成ですよ。 アミーゴ
すごい人生ですね・・・。戦中戦後を生き抜いてこられた方は、それだけでも尊敬しますのに・・・。
私たちも、子どもたちもまだまだ甘ちゃんです。
これから同じような体験はしたくはありませんが、(そんな世の中になったら大変!!!)逆境に立ったときこそ、前を見て、たくましく生きていきたいものです。