シャープ & ふらっと

半音上がって半音下がる。 それが楽しい、美しい。
思ったこと、感じたことはナチュラルに。  writer カノン

運動会で流れた曲

2023-09-21 17:46:41 | 懐しい話
近くの小学校から、賑やかな声や音楽が聞こえてきた。
運動会の練習のようである。

コロナで、そしてまた熱中症問題で、
小学校も運動会らしい運動会が出来なかったと聞く。
でもやはり、運動会の歓声はいい。
前の記事で、子供は好きではないと書いた私だが、
学校で何かをしている子供達って好きなのだ。

私は、体育はそれほど得意ではなかったが、
運動会は大好きだった。 足が速かったから・・である。
その後、高校では陸上部に入ったように、 走ることが好きだった。
なので、必然的に運動会では「華」だった。

小学校6年の運動会。
プログラム最後の、6年生のクラス対抗リレー。
私はその第一走者に選ばれた。
責任重大だ。とにかくスタートが全てだ。


ピストルの音が鳴る。スタートを切る。
その瞬間、校庭いっぱいに軽快な曲が流れた。
運動会の定番で、よく聴く曲なのだが、その時は曲名がわからなかった。
第一走者にしては、妙に冷静だった。
そのメロディにあと押しされるように、
私は、次のランナーにトップでバトンを渡すことができた。

しかし、クラスは結局最下位だった。
思えば、あの6年生の時のクラスは、
頭は良かったけど運動が苦手、という友達が多かった。
でも、私の人生で一番楽しかったクラスだ。
成人になった時、クラス会を開いたら
ほぼ全員が出席したほどの仲良しクラスだった。

あの時、私をあと押ししてくれた曲は、
その後『ウイリアム・テル序曲』だと知る。
そしてこの軽快なメロディの直前には、
静かで美しい導入部があることも知る。


運動会なんて、もう何年も見に行っていない。
でも、小学校から歓声が聞こえると、
そしてウイリアム・テルを聞くと、

私は半世紀も前の少年に戻る。
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私が若かった時

2023-07-20 16:16:20 | 懐しい話

60歳になったばかりだが、

早くも若い人達との距離感・温度差を感じている。

 

今、地元の盆踊りの準備を進めている。

私はこの春から役員になった関係で、

極力準備に関わらなければいけないが、

とにかく暑さの中、体が動かない。

大病したこともあり、無理も出来ない。

早々に動き出し頑張っている若いメンバーに、頼りっきりである。

『決められた事はやるから、他は頼むよ』という感じだ。

 

思い出すのは36年前。

当時24歳の私は、地元の合唱団のサークルにいた。

広報係を務めていた関係で、

演奏会に向けてとにかく動き回った。

 

毎週出す会報誌も書いた。

楽しい会報にしようと、音楽と関係ない記事を書いたり、

団員から原稿を貰って載せたりした。

私は、団の男性の中では最年少だった。

40~60代の、親ほどの年齢の人に対して

『練習、ちゃんと出席のこと!』とか

『本番まであと○日。頑張りましょう!』などと

会報を通じて、団員を鼓舞し続けた。

 

「若い人達で頑張って」という年配の人の声も多かった。

きっと、気持ちは付いていきたいが、

体が動かないという感じだったのだろう。

それでも24歳の私は、団員を励まし続けていた。

 

そして今。

私が逆に、「若い人に頑張ってほしい」と言っている。

あの頃、自分が一生懸命になれたのは何だったのか。

体も心も溌剌とした、若かった自分。

「歳をとっても頑張れる」

そんな思いは36年経った今、

若かったから感じた思いだったと知る。

 

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エッフェル塔から33年

2023-06-24 14:25:47 | 懐しい話

上のこの写真、

私のmixiのトップページに飾ってある写真だ。

mixiもしばらく書き込んでないが、

この写真はとても気に入っている。

 

夜のエッフェル塔と恋人のシルエット。

シチュエーションとしても最高だ。

こういう写真のサイトから見つけたものだ。

音楽の話題を中心に書いてきたmixiの、

トップの写真としてはミスマッチかもしれないが、

とにかくお気に入りの一枚だ。

 

 

今日は結婚記念日。

33年になった。

新婚旅行はウィーン・ザルツブルク・パリを二週間。

ツアーではなく、個人旅行だった。

私も妻も、英語や独語、フランス語など話せない。

でも、自分たちで行きたい所や観たい舞台、

ツアーでは出来ない体験をしたいと思った。

そして、ウィーンでミュージカルを観たり

朝食で一流ホテルのザッハートルテを食べたり

ザルツブルクでは、町の食堂のレバークノーデルを味わったり、

パリでは丸一日、ルーブル美術館を観たりした。

 

英語なんか話せなくても何とかなる。

二人で協力しあえば楽しめる。

その後の長い夫婦生活が続いたのも

この旅行があったからと考えている。

 

 

最終日。

ドゴール空港に向かうタクシーの中から

青空にそびえ立つエッフェル塔と

ゆったり流れるセーヌ河を見たが、

それ以来、パリには行っていない。

でも、行っておいて良かった、と思える街だった。

 

あのエッフェル塔を訪れたのが、

7月14日・パリ祭の日。

33年前のパリの街は

暑く、華やかで、素敵な光景に包まれていた。

 

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ドリームランド閉園20年

2022-02-17 12:01:20 | 懐しい話
横浜市にあった『横浜ドリームランド』
2002年2月17日に閉園されてから
今日でちょうど20年だ。

私は1才10ヶ月の時にここへ行った。
アルバムにそう記されているのでそうであろう。
昭和40年(1965年)4月。
写真が私である。

入口に近衛兵が立つ。
イギリスと同じ、真っ赤な服に黒い帽子。
私はこの写真のあと、この近衛兵を下から覗きこんだが、
この兵隊さんはピクリともしなかったという。

右の写真は私の叔母とであるが、
奥に「ホテルエンパイア」の高い建物が見える。
あまり高層建築物などなかったこの当時、
このホテルはとても目立ったという。

ドリームランドではヘリコプターに乗るアトラクションもあった。
私は父と一緒に乗ったのだが、
今でも、空から駐車場に停まっている車を見た記憶が残っている。
ここで、というのが正しければ、
私の記憶で最も古いものになる。
2才前の記憶なんて残っているものなのかとも思うが、
父は「たしかに駐車場の上を飛んでいた」と言った。


ドリームランドは、
大船駅からモノレールが開通したが、
強度不足が問題になり、一年後に早々に休止。
それ以来動くことはなく廃止された。
車やバスも、横浜有数の渋滞地点を通過するため、
アクセスに難があった。

その後、各地に遊園地やテーマパークが出来、
ドリームランドは廃れ
20年前の今日廃止となったのだ。

でも私のような
昭和の30~40年代生まれにとって、
ドリームランドは、家族とのレジャーを楽しむ
最たる場所だったと思う。
雰囲気も当時としては斬新で、新鮮味があったのではないか。
今のディズニーランドのような役割を
ドリームランドは提供していたように思う。

今はどのテーマパークも体験型。
この当時は、列に並んで見せる乗せる、
そして売店や食堂で、家族並んで昼食のタイプだったが、
皆、楽しく幸福な時間を過ごしたに違いない。


古い写真に写る、50年以上も前の私。
この時一緒にいた写真の叔母は健在だが、
両親も叔父も他界した。
年月とはそういうものなのだろう。
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母からのクリスマスプレゼント

2021-12-24 12:41:43 | 懐しい話
クリスマスイブ。
世の中はオミクロン株で
またコロナの不安の年末だが、
ともかくイブがやって来た。


今年はとにかく母の出来事に尽きる。
施設と病院の送り迎えの繰り返し。
そのあと半年間は家で介護をした。
そして最後は11月、
自分の部屋で、私達家族に看取られながら旅立った。

5年前に亡くなった父の元に行き、
本人は安心出来たかもしれない。
家には二人の遺影だけが残った。
そんな中で迎えた最初のクリスマス。


うちは年賀状印刷の仕事などしているので、
年末は忙しい時期だった。
家で特別クリスマスパーティーなどした記憶はない。
ただ、一度だけ「サンタクロース」は来た。

小学生の、何年生の時だったか忘れたが、
楽器のピアニカが欲しくて、
母にはその事を話した。
そして12月25日の朝、
枕元にリボンのかかったピアニカがあった。

年末年始、そのピアニカを吹きまくった。
嬉しかったと同時に、
サンタクロースなんて存在せず、
母が買って来たのだろうとも感じていた。

今思うに、うちの場合お金よりも、
買いに行く時間のほうが無かったのでは。
一番忙しい時にこっそりと楽器店まで行った母。
それをとても感謝している。


父も母も、クリスマスだからといって
あの世で一緒に食事しているとか、
そういう事も無いであろう。

「年賀状の枚数減ったな」とか、
「紅白も知らない歌手ばっかり」とか、
そんな事をぼやいているに違いない。


今朝は母の好きだったコーヒーを仏壇に供えた。
ささやかだが、ピアニカのお返しだ。
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ノアノハコブネから29年

2014-05-25 14:44:33 | 懐しい話
今日は、第75回オークス。
3歳牝馬の最高レースである。

オークスというと思い出す馬が、
今から29年前、
阪神日本一になった年・1985年の優勝馬、
『ノアノハコブネ』である。

まだ若かった私。
この頃は、大レースの時は東京競馬場に観に行った。
しかし、この年のオークスほど予想が出来なかった年はない。

とにかく本命不在。
一番人気のミスタテガミでさえ、単勝400円以上ついた。
何だか全くわからず、ともかく観に行き、
サクラクレアだったか、そんな馬を買った記憶がある。


曇り空。雨が降りそうな天気だった。
満員のスタンドに私はいた。

レース直前、オノデンモモコが落鉄。
数分遅れのスタートだった。
当時は28頭というフルゲート。
とにかく、「バタバタと」走っていた。

そして最後の直線に入ったとき、
強い風が吹いたのをはっきり覚えている。
その風に押されるように、
外から突っ込んできた馬がゴールを駆け抜けた。

それがノアノハコブネ、21番人気だった。

スタンドからは、どよめきというより、
あぜんとして声も出なかった。
ようやく隣にいたおっさんが、
「音無(騎手)・・ハコブネ・・何だよこれ・・」
とうめいた。

『間違っても買えない馬』と言われた。
予想から外す以前の馬だったのだ。
翌日の新聞には、『信ずる者は救われた』とあった。



馬の名前とともに、この日の記憶は残る。
彼女は関西馬。
当時強かった関東馬を負かせて欲しい、
関西馬の救世主になって欲しいという、
オーナーの願いから付けられた馬名だった。


しかし、この年の暮れに骨折した彼女は、
そのまま他界した。
オークスは、人間で言えば「女子高生の徒競走」。
関西を救った乙女は、若くして旅立ったのだ。

でもオークスが来るたびに、
記録と、その名を思い出させてくれる馬だ。
あの瞬間、強く吹いた風はまさしく救世主の風だった。


今年のオークス、一番人気はハープスター。
美しい名前だ。
29年前の救世主と同じく、
先頭でゴールを駆け抜けて欲しい。
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七五三とバイオリン

2009-11-15 12:20:38 | 懐しい話

今日は七五三だ。

11月15日が日曜日に重なり、 しかも、今日の東京は快晴である。

良い日になったようだ。

 

そういえば、 七五三の歌、というのは聞いたことがない。

地方によっては、何かあるのだろうか。

私の七五三・・は、五歳の時になるが、 もう41年前になる。(古すぎる話だが・・)

明治神宮に参拝し、千歳飴を引きずって歩く写真が残っている。

 

この日、親戚が大勢お祝いに来てくれた。

その席で、「バイオリンを聴かせて」とリクエストされた。

私は、4歳の時にバイオリンを始めた。 よく、こんなふうに親戚の前で演奏をしたのだ。

小学生の時は、家庭訪問で先生の前で弾いたこともある。

 

この、七五三の祝いの席で弾いた曲は忘れてしまったが、

親戚の一人が言った言葉は、今も覚えている。

『おばさんね、金婚式って曲が好きなのよ。

おばさんの金婚式の時は、ぜひそれを弾いてちょうだい』

 

金婚式という曲。

その後、それは マリーの「金婚式」だと知る。

結局弾けるところまでいかず、 おばさんとの約束は果たせずじまいだったが、

七五三と金婚式、というミスマッチした言葉が、 今も記憶に残っている。

 

「金婚式」は、ピアノでも演奏されるが、

私は、バイオリンの方が好きだな・・と感じている。

私の両親は、今年4月に金婚式を迎えた。

そして、 あの41年前のおばさんは、

金婚式を共にしたおじさんとともに、 今は眠りについている。

 

金婚式、弾ければよかった。 ちゃんと練習して、聴かせてあげたかったな・・。

今も、ふと思う。 

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運動会のせつない思い出

2009-05-30 09:16:11 | 懐しい話
今日の東京は雨である。

「五月雨」と書いて「さみだれ」。
美しい日本の言葉であるが、
今日はその、五月雨に泣かされた子たちもいる。

今日は、知人の娘さんの、小学校の運動会。
しかし中止となった。

運動会は、来週2日の火曜日に延期だという。


ふと、三十数年前の自分を思い出した。


小学4年生だった私。
この年は、運動会が6月にあった。

私は、足が速かったので、
クラス対抗リレーの選手に選ばれた。
晴れ舞台をワクワクしながら待ち望んでいた。


運動会は、6月最初の日曜だった。
この当時は、運動会は日曜日が定番だった。
両親や、親戚のおばさんも見に来てくれる事になっていた。

しかし・・・、

前夜からポツポツ降り始めた雨は、
日曜の朝、本降りとなった。
電話連絡が入り、中止が知らされる。

翌日の月曜に順延となるが、
両親もおばさんも、仕事があって見に来れない。
私は日曜日、家で落ち込んでいた。


翌日。
前日の雨も上がり、青空となった。
運動会は始まったが、見に来た保護者は少なかった。
しかし、リレーはとにかく頑張ろうと、緊張を高めていた。

クラス対抗リレーは、午後の部の最後。
プログラムの花で締めくくられる事になっていた。


午前の部が終わり、
教室で皆、昼食を食べていた時だ。
放送が入る。

 『只今、東京に光化学スモッグ注意報が発令されました。
  残念ですが、午後の部は中止します。
  先生の指示に従って、下校の準備をしてください』


光化学スモッグ。
この当時、東京をはじめ、大都市で問題になっていた公害だ。
これが発令されると、部活動など屋外の運動は中止させられ、
下校を命じられたのだ。

しかし、まさか運動会の当日。
しかも、午後の競技を残したままで帰らされるなんて・・。


リレーでの「晴れ姿」は、結局見せられなかった。
家に帰ってから聞くと、
母は、仕事を切り上げて午後から見に行くつもりだったという。

その時、思いっきり泣いた。


        ∞∞∞


光化学スモッグは、主に車や工場の煙が原因だ。
なので、交通量が少なく工場も休みの日曜日に、
スモッグが発令される事は、まずなかった。

あの日、日曜日に雨が降らなければ、
間違いなく、リレーは行われていた。



知人の娘さんの運動会。
今日は残念だったが、火曜日は晴天らしい。
今は、スモッグの中止などない。
運動会は、華やかに開かれることだろう。

当時、スモッグの最大の被害地域は、東京・江東区だった。
娘さんは、江東区の子だ。
あれから三十数年。
きれいな空の下で、頑張ってほしいと願う。
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42年前の私がいた

2008-11-10 17:34:47 | 懐しい話

昨日、用事があってある町を訪れた。

今の、私の住んでいる市からそれほど離れていない。

しかし、あまり訪れる機会がない町だ。

 

私はこの町に、 1歳から3歳までの二年間を過ごした。

当然、記憶などほとんど無い。

しかし、断片的に当時の光景が甦る時がある。

 

古い病院があった。 私は風邪をひくと、よくそこに連れていかれた。

その先には、長い垣根があって、 垣根越しによく焚き火の煙が見えた。

「垣根の垣根の曲がりかど・・」の、 童謡そのままの光景だった。

そして・・ バラの花が咲く、「お姉さん」の家。

近所に住んでいた、当時小学生だったと思う女の子。

私はよくその子の家に遊びに行き、お菓子を食べたりした。

ピアノがあったらしく、いつも練習しているピアノの音が聞こえていた。

それは私が、生まれて初めて触れた「音楽」だったように思う。

 

私は、子供の頃の記憶力が良いほうなので、

もしかしたら、その町を歩けば 何か記憶が甦るかもしれない・・。

そんな思いで昨日、育った地域を歩いてみた。

 

私の住んでいた家は、道路の拡張で何も面影はなかった。

近所の銭湯はとっくに無くなったようだが、 跡地は、スポーツジムに変わっていた。

コロッケを買った店を覚えていたが、 当然、もうその店もなかった。

あの古くさい病院の位置は、 やはり思い出すことさえ出来なかった。

お姉さんの家は、カンでその方向に歩いてみた。

しかし、 新しい家やワンルームマンションが立ち並び、

バラの花の庭は、とっくに過去のものとなっていた。

 

しばらく歩いたが、 虚しさばかりが残った。

42年も経った場所を歩くなんて、 私は、何をやってるんだろう・・。

昔の思い出を辿っても仕方ない。 今日、そして明日のことで精一杯の毎日だ。

駅への道を戻ろうとした時だ。

2~3歳くらいの男の子が、 お母さんに手をつながれて歩いている。

その子は、私を見ると、 まんまるな目を残してすれ違った。

私も、子供の頃は大きなまんまるな目だった。

今のあの子のように、 この町を、母に連れられて歩いていたのだ。

見ず知らずのその子に、 幸せな人生を送ってほしいと願う。

 

自分を、瞬時に重ねていた。 そこに、42年前の私がいたからだ。

そして、 私を可愛がってくれた、お姉さんの人生をも想う。 

 

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17個のおまんじゅう

2008-08-31 11:55:09 | 懐しい話
今日で、子供達の夏休みも終わりだ。
明日から二学期。

今日は、宿題に追われている子も多いかもしれない。
私も、どちらかといえば、
後回しにするタイプだったので、
8月31日は、慌てていたような記憶がある。


さて、宿題で思い出したが、
私は、算数が苦手だ。

いや、「よく考えればわかる事」が、
どうにもわからない。


小学生の時に見た、算数のクイズ。
未だに、この理屈がわからないでいる。

        ▼

17個のおまんじゅうがあった。
それを、一郎・二郎・三郎の兄弟で分ける事になった。

おまんじゅうの横には、指示がある。
 『一郎は2分の1を、
  二郎は3分の1を、
  三郎は9分の1を取れ。』


しかし、17個では、
2分の1も3分の1も、分けようがない。
困った兄弟はケンカを始める。

そこへ、算数の神様が現れる。

神様は、同じおまんじゅうを一個足して、18個にした。
そして・・、

一郎には、18個の2分の1で、9個。
二郎には、3分の1で、6個。
三郎には、9分の1で、2個。

全部で17個を配った。
そして神様は、自分の出したおまんじゅうをしまって、

これでめでたし。

         ▲

ナゼだ!?
なぜ、一個ふやしたのに、
最後は、きっちり17個を分けられたのだろう?


以前、
『10円はどこへ?』という記事を書いた。
これと共に、
算数の弱い私には、依然としてわからない話である。


→2006,3.20 『10円はどこへ?』
コメント (4)
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