シャープ & ふらっと

半音上がって半音下がる。 それが楽しい、美しい。
思ったこと、感じたことはナチュラルに。  writer カノン

黄昏流星群

2008-10-29 10:09:10 | TV・ビデオ・映画
アニメ・漫画系はほとんど見ない私だが、
先日、夢中になってしまった漫画があった。
このブログでも、漫画について語るのは初めてだと思う。

「黄昏流星群」
  弘兼憲史作・小学館 ビッグコミックス


もう、30巻以上発行されているもので、
各巻2~3話から成っている。

主人公は、主に中高年。男性・女性は関係ない。
人生に疲れた、あるいは充実した、
普通の市民が主役の話だ。

偶然なことから、異性と出会う。
最初は、大人としての誠実な交流から始まるが、
やがて、お互い恋心を抱く・・という内容だ。

老人同士、中年同士の恋愛もあれば、
老人が若い娘に恋をする、
あるいはその逆の話もある。

しかし、単なるラブコミックではない。
シチュエーションは、やや「出来すぎ」だが、
相手に対する言葉や思いやり、
大人の付き合いとは何か、を感じさせてくれる。


中高年の恋愛は、負のイメージが大きいが、
このシリーズを見ていると、
こういう老後もいいかも・・と思ったりする。
決して、恋愛したいとか、
漫画のような出会いを求めているのではなく、
励まされ、癒され、精神的に豊かな人生を送りたいと感じる。


「黄昏流星群」は、
映画やTVドラマ化もされたようだが、
漫画のほうはシンプルで、
一見チャチでがさつな画なのだが、
また読んでみたくなる本だ。

病院のBGM

2008-10-26 11:43:53 | 音楽を聴く

先日、検査である総合病院に行った。

病院内は、BGMが流れている。

外来の通路などは一日中で、 病室内も、昼と夜の食事時間に流れているらしい。

曲は多様だったが、 SMAPや竹内まりやなどの歌謡系、

冬ソナやタイタニックなどの、映画・主題歌系の曲などが、

ピアノ版で演奏されているものだ。

それを聴きながら、ふと思い出した。

 

ある作家の話だ。

入院中の母が、手術の日。 廊下で祈るように待っている。

その時、BGMで「子犬のワルツ」が流れたという。

『こちらの気持ちを逆なでするようなテンポの速い曲に、

私はイライラしていました。 病院の曲にふさわしくない。』

 

氏は、これ以外にも、 新潟の海岸にあるドライブインが、

大音量で延々と「佐渡おけさ」を流していたことにも触れる。

『静かな波の音が聞こえる場所なのに・・』

 

また、ある女性は子供の出産時に産婦人科に行った時、

「剣の舞」が流れていたそうだ。

『なぜゆったりすべき産婦人科で、あんな曲流してるのかしら』

 

私も、富士山五合目に登った時、 ドライブインのスピーカーから、

やはり大きな音量で延々と、 メンデルスゾーンの「春の歌」が流れ、

『ゴミは持ち帰りましょう! 富士山を守りましょう!』と、

お知らせが聞こえていたのを思い出した。

清澄な富士山に、大音量の「春の歌」。

名曲も台無しである。

音楽は、時と場合では騒音になるのだ。

 

そう、これはBGM・・と言えるかどうかだが、

近所の高校では、野球部の練習中に、

カセットから大きな音量で「栄冠は君に輝く」を流している。

士気を上げる意味か、それも結構だが、

病院で耳に入る曲と違って、

練習に集中していたら聞こえなくなるだろう。

 

場面場面でふさわしいBGMを流す、あるいはやめるというのは、

難しいのかもしれない。

 

 


銀ちゃんのラブレター

2008-10-14 14:09:52 | 音楽を聴く

NHKの番組では、 時折、いつまでも耳に残る歌に出会う事がある。

「みんなのうた」の童謡や、 「おかあさんといっしょ」の幼児向けの歌などが、

とても記憶に残ったりするものだ。

 

 1994年、「おかあさんといっしょ」の中で流れた、

『銀ちゃんのラブレター』という歌が、 とても良い曲だった。

「ぎんのじょう」君という名の男の子・銀ちゃんが、

ユリちゃんにお手紙を出す。

でも字が書けない銀ちゃんは、

その四季の贈り物を封筒に入れる・・という詞だ。

 

作詞は、俵万智さん。

「サラダ記念日」で有名な、短歌の歌人だ。

私と同年代であり、短歌の内容にも共感を覚える俵さんは、私もファンである。

歌詞は、俵さんらしい自然で優しい言葉。

赤いポスト、白い封筒、鳥の切手という言葉が、

この詞を温かくふくらませている。

 

私達は今、メールでのやりとりが多い。

私は文通の経験もあるが、いつの間にか便利なメールへ移ってしまった。

楽しい柄の便箋・封筒を選び、時間をかけて文字を書いて、

綺麗な記念切手を貼り、赤いポストに投函する幸せと、

自分の家のポストに、相手から届いた、

厚みのある封筒を手にした時の喜び。

それを失ってしまうほど、今の自分には心の余裕がないのかもしれない。 

だからこそ今、 メールの文字でも、精一杯の気持ちを相手に伝えたいと思う。

言葉に悩んだり困ったりした時、この、俵さんの詞を思い出す。 

 

  『銀ちゃんのラブレター』

作詞:俵万智   作曲:福田和禾子 

歌:茂森あゆみ・速水けんたろう 

 

ぎんのじょうくんから ユリちゃんにおてがみ 

でも ぎんちゃんは じがかけません 

だから はるには ふうとうに 

さくらのはなを いれました 

 

ぎんのじょうくんから ユリちゃんにおてがみ 

でも ぎんちゃんは じがかけません 

だから なつには ふうとうに 

ひろったかいを いれました 

 

あかいポスト しろいふうとう とりのきって 

 

ぎんのじょうくんから ユリちゃんにおてがみ 

でも ぎんちゃんは じがかけません 

だから あきには ふうとうに 

あかいおちばを いれました 

 

ぎんのじょうくんから ユリちゃんにおてがみ 

でも ぎんちゃんは じがかけません 

だから ふゆには ふうとうに

ゆきをすくって いれました 

 

あかいポスト しろいふうとう とりのきって 

 


アタック25

2008-10-12 16:51:57 | TV・ビデオ・映画
日曜の、午後1時25分から、
テレビ朝日系列で放映されている、
クイズ番組・「アタック25」。

司会の、児玉清さんの、
「アターック・チャンス!」のセリフが有名だが、
この番組、私が小学生の時から続いている。
1975年4月スタートの番組なので、
もう、30年以上の老舗番組だ。
しかも、司会は第一回から、ずっと児玉清さんだ。

最近、夜のゴールデンタイムに、
クイズ番組が多くなっている。
正統派の問題が多く、家族で楽しめるのだが、
解答者は、タレントが主体だ。

一般視聴者が参加するクイズ番組としては、
「アタック25」は、貴重な番組といえる。


さて、
この番組を、高2の息子と時々見ている。

日曜の昼だが、買い物などで、どうしても家にいない日が多いが、
いる時は、息子とこの番組で「対決」する。
(息子は、バトルする、と表現しているが・・)

しかしこれまで、息子が勝ったことは一度もなかった。


私は、あまり口外していない(?)が、
かつて、日本テレビの「アメリカ横断ウルトラクイズ」に、
何度も出場したほど、クイズが好きだった。

出場、といっても予選落ちだが・・。
とりあえず、東京ドームの芝の上は走り回った。
楽しい経験をした。

息子に負けるはずがなかった。

息子も、中学生の頃から、
「教科書現役組」の力を生かして、
ちょっとした問題は、得意そうに答えていたが、
いつも、私が2~3問の差で勝っていた。

しかし・・


今日、放映された「アタック25」で、
息子は、私から初勝利をあげた。
3問差をつけられた。

政治や歴史の問題などは、息子のほうが知っていた。
ついに、教科書現役世代に負けたのだ。

考えてみれば、息子は進学高の二年生だし、
ある程度知っていなければおかしい。

日本テレビの、「高校生クイズ大会」などを見ると、
私など、答えられる問題のほうが少ない。
彼らの知識力・吸収力には、ついていけないのだ。


ともあれ、息子の念願の初勝利。
しかし、もうそろそろ、受験勉強に本腰を入れる時期だ。
日曜の昼から、一緒にクイズを見れる日も、
もう、無くなってくるかもしれない。

負けたことより、
そちらのほうが、寂しい気がする。

王監督と思い出の試合

2008-10-08 15:38:56 | スポーツ大好き
ソフトバンク・王監督が昨日退任した。

「世界の一本足」、王さんに関しては、
ここであれこれ述べるまでもない。
とにかく、野球一筋の「すごい人」だ。

選手時代もさることながら、
監督としての真摯な態度は、
野球界だけでなく、すべての人々のお手本にもなっていたと思う。


私が、初めて球場にプロ野球を見に行ったのが、小5の時。
1974年、後楽園球場。
巨人-阪神戦だった。

今でこそ、大の阪神ファンの私だが、
子供の頃は、巨人ファンだった。
王・長嶋に憧れていたのだ。


その、初めて生で見た試合は、
巨人・堀内、 阪神・古沢の先発で始まった。

初回・長嶋先制ホームラン。
この年引退する長嶋は、この時一番バッター。
初回・先頭打者アーチだった。

4回・柳田ソロホームラン。 巨人2-0とリード。


しかし、6回。
阪神・田淵の同点2ランホームラン。

そして・・

8回裏、無死一塁で、
王の2ランホームラン。
一塁側は、総立ちとなって、拍手に包まれた。

その、王の決勝ホームランで、
巨人は4-2で勝った。


今思うと、素晴らしい試合だった。
当時のスター3人が、アーチを描いた試合。
そして、エース堀内の完投勝ち。

私が、本当に野球を好きになったのは、
この試合を見れたから・・といっても過言ではない。


この時、「敵チーム」だった田淵・古沢は、
その後、わが西武ライオンズの一員になる。

そして、日本シリーズでは、
西武の相手として、
王監督、長嶋監督率いる巨人がそれぞれ「敵チーム」となった。


王さんのエピソードは事欠かないだろうが、
私が感動した話をひとつ。

宮崎キャンプで、夜間の講義が開かれていた。
どの選手も、疲れて半分居眠りしている。
すると、王選手はスッと席を立ち、
一番うしろの壁の前に立って、講義を聴いていた。
眠くなるのを我慢して、席を立ったのだという。

世界一の実力を持つ選手だが、
こういう姿勢が、真の意味での一番の選手というのだろう。

あの日、決勝ホームランを放ち、
私に、野球の素晴らしさを見せて下さった王監督・・。
いや、私の中では王選手の思い出が強い。


お疲れ様でした。
そして、ありがとうございました・・。

横須賀ストーリー

2008-10-07 16:26:35 | 音楽を聴く

ラジオを聴いていたら、
山口百恵さんの特集が流れていた。

百恵さんは、私の中学時代のアイドルだったが、
大人っぽい雰囲気に加え、
何か、「完成された」歌手のようなイメージを持ち、
私はそれほど、興味がなかった。

しかし、大人になって聴くと、
百恵さんの曲は、とても胸に響く。
やはり、歌自体が大人だったのだろう。

ラジオは、途中から聴いたので、
「好きな曲」のベスト3しか知り得なかったが、
3位・プレイバックPART2
2位・秋桜
1位・いい日旅立ち
だった。


私は、「横須賀ストーリー」が好きなのだが、
この歌詞にある、

『急な坂道 駆けのぼったら
 今も海が見えるでしょうか・・』

この部分だけで、
横須賀という街を想像できるのだ。

基地と、海の町横須賀。
その、ダイナミックな街の中、
百恵さんは、決して裕福な家庭ではなかったという。

それが、大スターの生い立ちとして、
共感を呼ぶこともあるのだろう。


横須賀は、一度通ったことがあるが、
基地の町らしく、
急な山あいと、海のコントラストが印象に残った。
歌詞の通りだ。

今は、G.ワシントン号の寄港により、
反対運動や見物人などで、
賑やかになっているらしい。

久しぶりに、
この町にも行ってみたい気がする。


横須賀海軍カレーなども有名だが、
やはり私には、この歌とともに、
百恵さんの町、という印象を今も持つ。


27年前の合唱コンクール

2008-10-06 14:47:01 | 音楽を聴く

今日は、私にとって特別な思いのある日だ。

 

1981(昭和56)年、10月6日。 当時、高校3年生。

この日は、校内の合唱コンクールが開かれた日だ。

普通の公立校である。 特別レベルが高いわけでもなく、 そこらの学校の合唱祭である。

しかし全校3学年で25クラス。 その中で3位まで入るのはかなり難しい。

 

私はそのコンクールの指揮者に選ばれた。

私のクラスは担任も音楽の先生で、

クラスメートの半分以上が何らかの楽器を経験しているなど、

「最強の音楽クラス」だった。

誰が指揮者になってもおかしくないクラス。

そんな中、 なんとなくマジメで、 なんとなくクラシックに詳しく、

なんとなく指揮者が似合っていそうだった?という、 私が選ばれたのだ。

当然ながら、 我が3年7組は優勝に一番近いクラス、とも言われていた。

 

そして、 ピアノ伴奏者に選ばれたのが、

その時私が、クラスで一番好きだった子になった。

でも、同じクラスにいながら ほとんど話をした事がなかった。

ピアノが弾けることもこの時初めて知ったくらいだ。

 

発表は自由曲一曲だけ。一発勝負だ。

私たちは、かつてこの学校の合唱コンクールの歴史で、

まだ一度も歌われたことのなかった、英語(原語)の歌に挑戦した。

今は、英語の歌詞の合唱曲など当たり前かもしれないが、

この時は、私のいた普通高の普通の合唱コンクールの普通クラスが

英語で歌うとは誰も考えていなかった。

 

『マイ・ウェイ』。

今となれば、それほど難しい曲ではないし、 むしろ英語で歌うほうが楽だ。

しかしこの時は、私達とすれば大英断だった。

『優勝に一番近い最強のクラス』だったが、 練習は思うように進まない。

とにかくほぼ全員が進学希望だった。

大事な時期に放課後の練習時間は増やせなかった。

 

 

ある日、伴奏の彼女と衝突した。 

テンポをゆっくりめに、と言っても従ってくれずマイペースで弾き飛ばす。

指揮と伴奏がズレるという、一番あってはならない型となった。

戸惑うクラスメート。結局練習を切り上げる。

 

そのあと放課後、音楽室でピアノ練習している彼女に、

一言言ってやろうかと思い部屋に入ったが、

真剣な表情で弾いていた彼女を見て、気持ちが揺れ動いてしまい、

「さっきはごめん」と謝ってしまった。

彼女は ちょっと恥ずかしそうに、『私こそごめんね』と謝ったあと、

『優勝しようよ。卒業の一番の思い出にしたいわ』

そう言ってくれた。

 

それからのクラスは、大変なまとまりを見せた。

皆、私が彼女を好きでいる事も知っていた。

「指揮者と伴奏者に、花を持たせてやるよ」とまで言われた。

そして、運命の27年前の今日を迎える。

 

 

私達は、英語で「マイ・ウェイ」を歌い始めた。

ざわつく場内。 先生達もが驚いたという。

私達のクラスだったからこそ、 正統派の合唱曲で来ると思ったのだろう。

しかし、誰もが驚いた英語の歌詞だけでなく、

音量、ハーモニー、すべてにおいて完璧だった。

私の指揮も、担任の先生に指導を受けた甲斐もあり、 100点の出来だった。

優勝を確信して、私達はステージを降りた。

 

 

そして、結果発表。

 

優勝は、1年生のクラス。 私達は、準優勝だった・・。

 

呆然とする私達のはるか前列の席で、

狂喜乱舞する1年6組の姿が、今も忘れられない。

 

 

私達は、なぜ優勝できなかったのか・・。

決して、最強クラスの驕りはなかったと思っている。 練習は真摯で、本番も完全で・・。

もしあるとすれば、 1年6組の、1年生とは思えない素晴らしい出来が優っていたという事だ。

1年6組の声量はすごかったが、

合唱としてのまとまり、レベルは3年7組の方が間違いなく上だったようだ。

しかし、これはNコンのようなハイレベルなコンクールではない。

大きな声で、男子の音程さえしっかり聴こえれば高得点という、

『普通の合唱コンクール』での結果として、受け入れなければいけなかった。

 

真剣に向き合った私達は、3年生ゆえに負けたのだ。

 

 

その後・・、

私は、この指揮者をした経験と、 準優勝に終わった悔しさから、

社会人になってから、合唱団への入団に至った。

そして、伴奏の彼女は、 ピアノを活かして短大の幼児教育の道へ進む。

 

卒業して数年後。 彼女と電話で話す機会があった。

 『あの頃、私はピアノ教室で5冊の楽譜の練習をしていたの。

そこへ合唱コンクールなんて押しつけられたから、気が立ってたのね。

でも、みんなの前で私達、ぶつかるのは良くなかったね。

反省してる。迷惑かけて本当にごめんね。』

 

続けて

 『順位は二番だったけど、やっぱり思い出は一番だったよ。

頑張ったよね。私達のクラス』と、楽しそうに語ってくれた。

それだけでも、私の高校生活は幸福だった。

 

 

あれから27年という長い年月。

しかし、今でも鮮明な記憶に残るあの秋の日・・。

 

18歳の、私のすべてだった。