コロナウイルスで、日本全国自粛のGWだった。
家でゆっくり、昔の雑誌など見て過ごしたが、
久しぶりに古い鉄道雑誌の記事を見つけた。
この記事は、以前このブログでも簡単に取り上げたが、
改めてはっきりした内容がわかったので、
再度紹介してみたい。
山口県と島根県の、県境に近い町。
その山あいに、ある集落があった。
全部で8世帯が、
猫の額ほどの土地で寄り添うように住んでいた。
その集落は、
いわゆる他の地域とは一線を画された所であった。
この集落から、
町へ通じる道へは、一本の小道があるだけだ。
しかし、この小道の途中に、
JR山陰本線の線路が横切っている。
踏切は無い。
小道は、線路で分断される形で続いている。
古くからある集落であり、小道も昔からあったが、
1928年(昭和3年)、山陰本線が敷設された時、
この道は断ち切られた。
「特別な地域への道」ということなのか、
踏切は設置されないまま年月が過ぎた。
集落の人々は線路を渡る時、
左右を確認して小走りに抜ける。
子供もお年寄りも。
荷車やリヤカーは大急ぎで牽く。
ここは単線だが、特急も走る区間だ。
なにより、手前が山沿いのカーブで、
ギリギリまで列車の接近がわからない。
命がけで渡ることになる。
集落の人々は、列車の通過時刻を把握していたと思われる。
しかし臨時列車が一番怖い。
予期せず、列車が山あいから顔を出すこともあった。
この、人権を無視した場所は、
世間に取り上げられることもなく、
長い間知られずにいた。
しかし、1984年に支援団体がこの場所の存在を知り、
県や町、国鉄(JR)に改善を要望したが、
しばらくは取り合ってもらえなかった。
町は、『そのような地域など存在しない』と言い張った。
やっと線路に道路橋が架けられた時は、
集落の人々は線路の恐怖からこの地を離れ、
わずか一軒しか残っていなかった。
橋も差別への解消ではなく、
単に「農村一般対策」という名目で造られた。
とてもショックを受けた内容だったが、
今、この件を検索しても、
ネットからは知りえない。
写真は、ストリートビューから得たその場所である。
横切る小道。
線路脇に小さく、『列車に注意』の白い看板がある。
そして立派な橋が架かる。
この先に進めてみると、
たしかに民家は一軒だけだ。
日本全国に、
もう、このような所が無いことを願っている。