山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

捨てたものにしづかな雨ふる

2011-02-07 18:33:14 | 文化・芸術
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―四方のたより― 修羅の道

近い者の死―、その重さは
畢竟、のこされた者の生
生きることの重さ、でもあるのでしょう。
言い換えるなら
人はだれでも、おのが生の中で
いくつかの修羅場をくぐりぬけてきているもの
と、思われますが
その重さを生きる、とは
まさに、そんな修羅の道を生きる、ことなのでしょう。

 不慮の事故から
 あれこれと綴ってきたものを
 一書にまとめる作業もほぼ終えたころ
 そんな感懐がよぎったものでした。

Soulful_days

<日暦詩句>-17
薔薇は口をもたないから
匂いをもつて君の鼻へ語る、
月は、口をもたないから
光りをもつて君の眼に語つている、
ところで詩人は何をもっ語るべきか?
四人の女は、優に一人の男を
だまりこませる程に
仲間の力をもつて、しゃべり捲くるものだ、
プロレタリア詩人よ、
我々は大いに、しゃべったらよい、
仲間の結束をもって、
仲間の力をもって
敵を沈黙させるほどに
壮烈に――。
   ―小熊秀雄「しゃへり捲くれ」より-昭和10年―

―山頭火の一句― 行乞記再び -149
6月6日、同前。

雨風だ、ここはよいところだが、風のつよいのはよくないところだ。
まるで梅雨季のやうな天候、梅雨もテンポを早めてやつてきたのかも知れない。

さみしさ、あつい湯にはいる、―これは嬉野温泉での即吟だが、ここでも同様、さみしくなると、いらいらしてくると、しづんでくると、とにかく、湯にはいる、湯のあたたかさが、すべてをとかしてくれる。‥

安宿にもいろいろある、だんだんよくなるのもあれば、だんだんわるくなるのもある-後者はこの中村屋、前者はあの桜屋-、そしてはじめからしまゐまで、いつもかはらないのもある-この例はなかなかむつかしい-。 -略-

隣室の萩老人とおそくまで話す、話してゐるうちに、まざまざといやしい自分を発見した。 -略-

源三郎君から来信、星を売り月を売る商売をはじめます-天体望遠鏡を覗かせて見料を取るのださうである-、これには私も覚えず微苦笑を禁じえなかつた。

※表題句のみ記す

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Photo/山頭火句碑「波音お念佛がきこえる」
下関市豊北町は大浦街道-国道191号-沿にある


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お寺のたけのこ竹になつた

2011-02-05 15:05:01 | 文化・芸術
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―四方のたより― 書の甲子園

書の甲子園こと高校生の選抜書展が天王寺美術館で開催中とかで、休日の暇つぶしと子連れで観てきた。
美術館地下フロアーには所狭しと夥しい作品群がならんで壮観、まずその量に圧倒される。
書に造詣の深いわけでもない私だが、そんな眼から観ても玉石混淆、ハッとさせるものもあればどうにも首をひねるものもあるのだが、それがまた愉しいといえばいえる展示だ。

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Photo/書の甲子園で、ちょっぴりお気に入りの作品

そういえば昨年だったか、「書道ガールズ」なんて映画もあった。てっきり漫画が原作かと思えば、愛媛県の高校生たちがモデルになった街おこしの実話からだったという。

<日暦詩句>-16
そらのふかさをのぞいてはいけない。
そらのふかさには、
神さまたちがめじろおししてゐる。

そらのふかさをみつめてはいけない。
その眼はひかりでやきつぶされる。

そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。
そらにさからふものへの
刑罰だ。
   ―金子光晴「燈台」より-昭和24年―

―山頭火の一句― 行乞記再び -148
6月5日、同前。

朝は霧雨、昼は晴、夕は曇つて、そしてとうとうまた雨となつた。
朝の草花―薊やらみつくさやら―を採つてきて壺に投げ挿した。
今日は日曜日であり、端午のお節句である、鯉幟の立つてゐる家では初誕生を祝ふ支度に忙しかつた-私のやうなものでも、かうして祝はれたのだ!-。

方々からたよりがあつた、その中で、妹からのそれは妙に腹立たしく、I君からのそれはほんたうにうれしかつた-それは決して私が私情に囚はれたためではないことを断言する-。 -略-

山下老人を訪ね、借りたい妙青寺の畠を検分する、夜、ふたたび同道して寺惣代の武永老人を訪ねて、借入方を頼んだ。 -略-

※表題句の外、3句を記す

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Photo/遠景―川棚温泉と響灘


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更けて流れる水音を見出した

2011-02-03 17:32:57 | 文化・芸術
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―四方のたより― 茶器づくり初体験

サン・イシドロ窯を称する陶芸家石田博君の招きを受け、期友の女性ふたりと連れ立って寝屋川の彼の自宅を訪ねたのは師走の11日、土曜日の午後だった。
この折、先に来ていた石田夫人の友人3人と一緒に、思いもよらず石田陶芸教室の体験入門とあいなり、この歳にして初めて土をこね茶器を作るなどという仕儀になったのだった。

石田君の指導のもと中高年の男女が6人、いわれるがままにロクロの上の粘土と格闘すること2時間半ほどか、最後の仕上げはそれぞれ石田君の手を少しばかり煩わせつつ、ひとまずは形になった茶器をおいて、お疲れさんとばかりあとは飲み会となったのだが、此方は夕刻までの訪問と時間を限っていた所為もあって、石田夫人手作りの馳走など折角のもてなしも堪能すること叶わず、足早の退散となって石田君には失礼この上ない反省しきりの訪問に終ってしまったのだった。

年が明け小正月も過ぎて20日頃だったか、その石田君から電話があり、そろそろ茶器の窯焼きをするから釉薬をどんなものにするかそれぞれ希望を、と訊ねてきた。門外漢の此方は釉薬の種類など唐突に訊かれても分かろう筈もない。しどろもどろに狼狽えつつも彼の説明を聞きながら、「じゃ、利休の黒っぽいので」と、なんとか応じたものだった。

それが焼き上がったというので、またぞろ期友ふたりと訪ねたのが昨夕のこと、石田君の指導よろしきを得て、見事に仕上がった私(?)の茶器とご対面となって、あとはまたまたしばしの宴、雑談放談飛び交う飲み会と相成ったのだった。

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Photo/利休天目で焼き上がった茶碗三態

<日暦詩句>-15
 さはれ去年の雪いづくにありや、
  さはれ去年の雪いづくにありや、
   さはれ去年の雪いづくにありや、
    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥意味のない畳句が、ひるがへり、巻きかへつた。美しい花々が、光のない空間を横ぎつて没落した。そして、遙か下に、褪紅色の月が地平の上にさし上つた。私の肉体は、この二重の方向の交錯の中に、ぎしぎしと軋んだ。このとき、私は不幸であつた、限りなく不幸であつた。
―富永太郎「鳥獣剥製所一報告書」より-昭和2年―

―山頭火の一句― 行乞記再び -147
6月4日、同前。

曇后晴、読んだり歩いたり考へたり、そして飲んだり食べたり寝たり、おなじやうな日がつづくことである。
午後、小串まで出かける、新聞、夏帽、ショウガ、壺を買ふ、此代金51銭也。

帰途、八幡の木村さんから紹介されて、森野老人を訪ねる、初対面の好印象、しばらく話した、桑の一枝を貰つてステッキとする、久しぶりにうまい水を頂戴する、水はいいなあ、先日来。腹中にたまつてゐたものがすーつと流れてしまつたやうにさへ感じた。
人は人中、田は田中、といひますから‥とは老人の言葉だつた。

-略-、今夜も睡れない、ちよつと睡つてすぐ覚める、4時がうつのをきいて湯にはいる、そして下らない事ばかり考へる、もしここの湯がふつと出なくなつたら、‥といつたやうな事まで考へた。
杜鵑がなく、「その暁の杜鵑」といふ句を想ひだした、私はまだまだ「合点ぢや」と上五をつけるほど落ちついてゐない。
隣室の客の会話を聞くともなしに聞く、まじりけなしの長州弁だ、なつかしい長州弁、私もいつとなく長州人に立ち返つてゐた。
カルチモンよりアルコール、それが、アルコールよりカルチモンとなりつつある、喜ぶべきか、悲しむべきか、それはただ真実だ、現前どうすることもできない私の転換だ。

※表題句の外、5句を記す。

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Photo/川棚温泉のはずれ、中小野にある岩谷の十三仏


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