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山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

蛭の口処をかきて気味よき

2009-04-10 13:08:23 | 文化・芸術
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―世間虚仮― Soulful Days-22- やっと動いた!

厚い検察の壁が、やっと動いた。
先ほど-AM11:30頃-、N検察官から突然の電話。
曰く、事故当時の記録画像につき、MKタクシー側から直接取り寄せたうえで、T側の過失に関しあらためて検証のうえ審理するから、そちらの提出しようというcopy画像に関しては一応保留願いたい、との事。
急転直下、壁はやっと穿たれたのだ。

但し、官僚というものつねに保身一途、まことに狡猾なもので、いかにも交換条件と言わんばかりに、「ついては、」と切り出してきたのが、此方の出した告訴状、これには肝心な点で事実誤認-事故直前のM車の停止時間を2~3秒としていた-の主張もあったりするので、この際、取り下げては戴けぬか、とのご託宣だ。

これには思わず苦笑させられたが、今後の審理にはなお相当の日数もかかりましょうから、その推移を見守りつつ、あらためて訂正をするのか或いはすべて取り下げるのか、検討させてください、と返したら、いや急がずとも結構ですから、との仰せだ。審理手続き上、告訴状の存在はひとつの汚点にもなろう。きちんとやるから、出来れば消しおきたい、ということか。まったく笑わせる。
やっと、振り出しに戻って、賽が振られるのだ。ようやくここまで辿りついた。

ふと壁際のRYOUKOの写真に眼をやる
突然、腹腔が横隔膜を押し上げ
ドッと涙が溢れでた

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-10

  ゆふめしにかますご喰へば風薫る  

   蛭の口処をかきて気味よき  芭蕉

次男曰く、田仕事からあがった人のくつろぎを以てした与奪の付だが、「蛭-ひる-の口処-くちと=くい跡-」と云い、「かきて気味よき」と云い、凡兆の機才に対する誉めことばだ、というところにまが作がある。摩耶合戦を持出した野水の誘いを、「かますご喰へば風薫る」と風俗の工夫でかわした、涼しげな治めぶりが小気味よい、と芭蕉は眺めているらしい。因みに、六波羅攻め三手の内、足利は関東の名族、千種は名門廷臣、赤松氏だけが播磨の微々たる一士豪だった。「蛭の口処」とは云い得て妙である。

蛭-水蛭-は仲兼三夏の季だが、「蛭の口処」と遣えば雑の詞にもとりなせる。竹筒などにヒルを入れ、瀉血に用いた歴史は古い。むろんこの用も、次座への持成しとしてあらかじめ俳諧師の思案の内にあった筈だ。其人の情を付伸した唯の遣り句のように見せながら、前後に含みを利かせて取出した素材は、さすがである。

この句も、くちと、かきて、きみよき、とカ行音のかさねで快感を盛上げている。三句にわたって、ややうるさい気がせぬでもないが、それほど新弟子凡兆の出来に芭蕉は満足したということか。おのずからの軽口だろう、と。


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ゆふめしにかますご喰へば風薫る

2009-04-09 13:40:05 | 文化・芸術
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―世間虚仮― Soulful Days-21- 壁は穿てるか‥

事故相手方Tに対する告訴状を大阪地検の担当検事に提出したのは2月10日だったから、かれこれ2ヶ月を経ようとしている昨日、これで三度目となる大阪地検へ。

十日ほど前か、わざわざM運転手がDrive Recorderのcopyを届けてくれ、あらためて事故時の記録画像を詳細に素人の眼なりに検証をしてきたわけだが、この間、Mとも直に会ってやらMailのやりとりやらを繰り返してきた結果、被害者側としてすでにTへの告訴状を出している私方から証拠資料として提出するのが検察への効力としてより有効であろう、との判断から前夜是に付すべき以下の如き書面を書き上げたうえで持参することになったのだった。

「告訴状に付し証拠資料提出の事」
大阪地方検察庁交通部 N検察官殿
  平成21年4月8日  告訴人連署

 先の平成21年2月10日付にて、大阪市西区境川1丁目6番29号先路上(中央通り辰巳橋南交差点)における平成20年9月9日午後8時15分頃発生した交通事故により死に至ったH.Rの遺族として、一方の事故当事者たるT.Kに対し、すでに告訴状を提出しておりますが、この度、事故当時の記録画像を入手しましたので、証拠資料として添付致したく、本書とともに之を提出申し上げます。

<提出するもの>
・M運転のタクシー車載のドライブレコーダーに残る事故当時の記録画像一式
  (但し、記録媒体USBフラッシュメモリ 1個)
・別紙添付資料-1 「ファィルの見方」
・   々  -2 「ドライブレコーダー分析表」

<提出者付記>
上記の記録画像を具に見るところ、T.K運転の車は前照灯を点けていた形跡が見られない、すなわち無灯火走行であること、明白ではないか。

さらに、T.Kは「M運転の右折車が前方にて突然停止し、咄嗟のブレーキも間に合わなかった」旨、主張していると聞き及ぶ。確かに記録画像においても衝突の直前、詳しくいえばM車は0.4~0.5秒前に急停止しているが、この制動動作に入ったのは常識的に見てその0.5秒前、すなわち衝突時点からいえば0.9~1.0秒前と考えられる。この時の状況についてMは、「何か気配としか言いようがない、そんなものを感じて咄嗟にブレーキを踏んだ」と後述しているが、然もあろうかと思われる談である。なぜなら、事故時、T.K運転の車は70km/hで走行していたと聞いており、これを事実と踏まえれば、Mが何かの気配を感じ咄嗟に制動動作に入った時、すでに無灯火走行のT車はわずか19m以内手前にまで肉薄しているのである。これでは重大な事故を避けられる筈もない。もしかりにT.Kが前方を直視しながら運転していたとあくまで主張するなら、こんな危険運転、無謀運転はないということになろうし、つまるところ彼の主張とは裏腹に、事故直前のわずかな数秒、脇見をしていたという蓋然性は非常に高いと言わざるを得ないのではないか。

ところが件のN副検事殿、書面は受領するが肝心の証拠資料たる記録画像は受け取れない、と仰る。

何故かと問えば、外付け記録媒体であるUSBなどは、ウィルス感染など危惧されるため、検察庁内規として受領できないのだ、と。それに加えて、捜査の資料としてはそのVideoに基づく静止画像が何葉かすでにあり、あえて動画を必要とするとも思われない、と曰う厚顔ぶりには暗澹とさせられるばかり。

司法であれ行政であれこの国の権力機構、慣例という名の壁にわずかな穴を穿つのも困難極まりないことはよくよく承知だから、これを受け取らせるのは難しいだろうとは、実は予測もしていた。いたが、いかにも冷静沈着、平静を装った語り口の、その粘着質たっぷりな声音が、こちらの神経をいやがうえにも刺激した。だが、声を詰まらせ泣きながら激しく抗議したのは、一緒に連れ立ってきた元細君のほうだった。女性の嗚咽にはさすがに検事殿も一瞬怯んだと見え、困惑顔で弁解じみた理屈を並べる。

これ以上堪えられぬと元細君は先に席を立ってしまったが、私はその場に居座った。もう言葉を尽くそうとは思わない、こうなったら肚の勝負、無言であろうともこちらの覚悟のほどを見せつけてやろうと対座し続けること小一時間か。この間言葉を交わしたのは二言、三言、たいした話じゃない。とにかく、今日のところは受け取れぬが、なお検討した上あらためて連絡すると仰るから、とても甘い期待はできないが、何日待てば回答を貰えるかと問う。一週間乃至十日ほど、と確かめやっと重い腰をあげ不快きわまる空間から退散した。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-09

   摩耶が高根に雲のかゝれる  

  ゆふめしにかますご喰へば風薫る  凡兆

次男曰く、赤松則村・千種忠顕・足利高氏の三方攻めにあって京の六波羅府が南・北共に滅んだのは元弘3年5月だった。そのことが凡兆の念頭にはあるらしい、と覚らせる季の取出し様だ。只漫然と雑の句を夏に移したわけではない。

夏の季節風-南風-には、五官に訴える印象によってつけられた呼称がある。青葉を吹き渡るやや強い風を青嵐、耳目に訴えるよりもまず青葉の匂いをもたらす、涼やかな微風を薫風-風の香-と云う。現代人には仲夏の風と考えられやすい名だが、連・俳ではどちらも大旨晩夏として扱っている。

「かますご」は「和漢三才図会」に「玉筋魚-いかなご・かますご-」として挙げられるが、そのカマスゴは播磨・摂津あたりでの呼名だ、ということがどうやら凡兆の目付らしい。江戸でコウナゴ、九州でカナギ、京都ではイカナゴと呼んだ。なぜ「いかなご喰へば」と凡兆は作らなかったのだろう、と気にかかる。前句からの移りで兵庫の浜風を思ったというような単純なことではあるまい。播磨から京へ攻め入った男の話がたねなら「かますご」だ、と読めば気転の俳が生れる。句は、景に鄙びた人情を添え、「-たかねにくものかかれる」「-かますごくへばかぜかおる」とカ行音を均して利かせ、読者のそぞろごころをそそる浜風の仕立だが、この包丁捌きはそうあくまない。

イカナゴをカマスゴに言替えてよろず無事-風薫る-に納まればお安い御用、と読めば京都人らしい暮しの知恵もそこに覗くだろう。世々兵乱の巻添えを食った町の歴史が教える。凡兆自身の生活実感らしいところが、作の見どころだ、と。


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摩耶が高根に雲のかゝれる

2009-04-07 15:56:55 | 文化・芸術
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―世間虚仮― 父と子の春休み

我が家の幼な児KAORUKO、小一の春休みももう終わりだが、連れ合い殿に4月1日付転勤の辞令が下って彼女は引継ぎやらなにやら大忙し、このところ毎日夜も遅いから、此方は子守り同然の日々が続いていたのだった。

その短いようで長い春休みをどう過ごさせたものかと思案したが、偶々算数や国語の勉強を見てやった折、その理解の進捗度も気にかかったものだから、些か強引だけれどこの期に一年間の総復習とばかり比較的易しいものから難しいものまで3冊ほど問題集を買いこんでやらせてみることにしたのである。

算数でいえば計算より文章題の問題理解が、まあこの頃ならそれも無理はないのだけれど、荷厄介だろうと思っていたが、なんのことはない、計算自体も反復練習が乏しいのか少々覚束ない面があることが判ってきた。そこでこの数日は、ネットで百マス計算などをダウンロードできるサイトを見つけて、一桁の足し算引き算、二桁と一桁の足し算引き算、あるいはその虫食い算と、次から次へとプリントして反復させることも併用してみたところ、リズムに乗ったか俄然調子が出てきてヤル気満々の体。昨夕など「勉強、好きか?」と問えば、「うん、大好き!」とまで応じる始末で、これには此方もビックリだ。

子どもは勉強するのを「たのしい!」と言わせなきゃダメなのだ。
今日も朝から、新しいプリントをと自分から言い出すほどである。漢字練習帳を持ち出してきては、2年生になって習う漢字表から上段にお手本を書いてくれ、と言ってきては余白のマス目にびっしりと書き写していったりもする。

難しいほうの問題集を休み中に踏破するのはもう間に合わず、ゆっくり構えるしかないけれど、この分ならどうやら新学期が始まっての向こう一年を、かなりきちんと追っていけるだけの根気と底力がついてきているのではないかなどと、ぐんと暖かくなったバカ陽気もあってか、自画自賛の浮かれ親バカ‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-08

  乗出して肱に余る春の駒  

   摩耶が高根に雲のかゝれる  野水

次男曰く、摩耶山は神戸市の東北、六甲山の西南に位置し海抜700m、頂上に摩耶夫人を祀る仏母山刀利天上寺がある。本尊は馬頭観音ではないが-十一面観音-、馬屋との同音によって古くから馬の守護山として賑い、摩耶詣は其諺-きげん-の「滑稽雑談」-正徳3年成-以下に、陰暦二月初午の日の季語としても挙げている。

句は、春三句続を雑に移した、裏入介添のはこびだが、眺望おのずから季の見定めがあるだろう。コマとマヤの尻取、加えて詞も亦寄合だという好都合が付に一役買っているには違いないが、「乗出して」東せんか西せんか決めかねる去来の馬首を、野水が-春の雲のかかる-摩耶山へ向けさせたのは、どうやら軍記好みの興らしい、と読めてくる。

「太平記」は元弘3-1333-年六波羅府壊滅の端緒となった記念すべき合戦の模様を、華々しく伝えている。大塔宮護良親王の令旨を受けた播磨守護赤松円心則村が、摩耶山に拠って幕府方の大軍を悩まし、これを打破ったのは同年閏2月、3月のことである。これは、話も心も前句からのうってつけの移りになる。

去来句を挟んで凡兆と野水の句は一見もつれる叙景と見えながら、「鶯の音にたびら雪降る-乗出して肱に余る春の駒」と「乗出して肱に余る春の駒-摩耶が高根に雲のかゝれる」とは、まったく別の世界を演出している。初折裏入にあたって軍記仕立に奪ったこの叙景の添はうまい。歌仙のはこびに、まず華を添えるものだ。

さらに「乗出して」、京から出る遠駆の楽しみならまず近江路だと考えれば、右の仕立の趣向に、もうひとつうまみが生れるだろう。

「近江路や真野の浜辺に駒とめて比良の高根の花を見るかな –従三位源頼政」-新続古今集・春-
「合坂山をうちこえて、瀬田の唐橋駒もとどろに踏み鳴らし、ひばりあがれる野路の里、志賀の浦波春かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を北にして、伊吹の嵩も近づきぬ」-平家物語・巻十、平重衡の鎌倉送り-。

共に巷間よく知られたもので、貞享5-元禄元-年9月、越人・芭蕉の両吟「雁がねの巻」にも既に借用が見える。初裏11、2句目、「月と花比良の高ねを北にして –芭蕉」「雲雀さえづるころの肌ぬぎ –越人」。むろん野水はこれも覚えていた筈で、「乗出」すなら東あっての西、軍記なら「平家」あっての「太平記」と、ごく常識の分別があれば、右の付合を掠め「摩耶が高根に雲のかゝれる」と作るくらい造作もないことだ、と。


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乗出して肱に余る春の駒

2009-04-06 15:13:18 | 文化・芸術
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―四方のたより― 成田屋騒動

一昨日の土曜日-4/4-は、朝から雨模様。地下鉄御堂筋線「動物園前」駅の2番出口を上がり山王の交差点、その東南角にある駄菓子とおでんの一風変わった店「成田屋」。この店の軒先では折々街頭Performanceが繰り広げられるらしいが、このたびは奇友デカルコ・マリィとviolaの大竹徹、percussionの田中康之の二人が組んだ「とりおとるお」が「成田屋騒動」なるEventをするというので、雨中をついて子連れで出かけてみた。

Performanceは衣装替してのデカルコ・マリィ二態で、共演者にDancer石井与志子という組合せ。このDancer、動きはマリィに寄添うばかりで見るべきほどのものとてないけれど、雨に濡れそぼる両腕の、よく鍛え込まれたかと見える筋肉がちょっぴり魅力的ではあった。

踊り始めてまもなく、50過ぎかとみえる通りがかりの中年男性が驚き顔で足を止め見入っていたが、D.マリィが雨降る路上へと踏み出していくと、件のおじさん、演者が濡れては可哀相だとばかり、やおら自分の傘をDにさしかけては、動きに合わせて共に傘も動く。その構図が街頭ならではの点景としてなかなか秀逸なものだった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-07

   鶯の音にたびら雪降る  

  乗出して肱に余る春の駒  去来

次男曰く、初折裏入である。

「うぐひすの谿-たに-より出づるこゑ無くば春来ることを誰か知らまし –大江千里」-古今集・春-。
以来、「谿より出づる」は初鶯の寄合の詞だが、ウグイスは「ホー、ホケキョ」と二節に鳴く鳥だということが、とりわけ利いているらしい。両々相俟って、「乗出して」の興をうごかしている。初鶯の、身も声も乗出すさまを騎乗の人に執成した、即妙な気転である。

作りには、余勢を駆って、「肱-かひな-に余る春の駒」にも名誉の下敷がある。
「引寄せば唯には寄らで春駒の綱引するぞ名は立つと聞く –平定文」-拾遺集・雑賀-

作者は「平中日記」の主人公として知られた人物。去来は大坪流馬術の上手だったから、句材はまず自らの経験に即した思付だったかも知れぬが、いずれから作るにせよ思案は一途に合う、と。


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鶯の音にたびら雪降る

2009-04-03 13:03:03 | 文化・芸術
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―表象の森― 内村剛介のロシア

内村剛介-本年1月30日死去、享年88歳-については、名のみぞ知るばかりでその著に触れることもなくきてしまったが、このほど陶山幾朗編「内村剛介ロングインタビュー:生き急ぐ、かんじせく-私の二十世紀」を読むほどに、11年に及ぶシベリア抑留をはじめとするその波乱に満ちた生と、骨太にして剛胆ともいうべき生来の気質から成ったであろうかと思われる彼のロシア観には、少なからぬ衝撃とともに感銘を禁じ得なかった。
一言でいうなら、これぞ「戦中派」なのだ、と思い至る。
読み終えてまもない今、それ以上になにほどのことも語り得ぬ身ゆえ、吉本隆明による本書まえがきをそのまま引いておく。

深い共感が導き出した稀有な記録 -吉本隆明

 この本は陶山幾朗がインタービュアとしてロシア文学者内村剛介に真正面から問いを発して、それにふさわしい真剣な答えを引き出すことに成功している稀有な書だ。周到な準備と確かなロシア学の知識・内村剛介への深い共感とが、おのずから彼の少年期からの自伝とロシア学者としての知識と見識の深い蓄積を導き出していて、わたしなどのような戦中に青少年期を過した者には完璧なものと思えた。わたしのような戦中派の青少年にとって日本国のロシア文学者といえば二葉亭四迷から内村剛介までで象徴するのが常であった。そして実際のロシアに対する知識としてあるのはトルストイ、ドストエフスキイ、ツルゲーネフ、チェホフのような超一流の文学者たちの作品のつまみ喰いと、太平洋戦争の敗北と同時にロシアと満洲国の国境線を突破してきた、ロシア軍の処行のうわさだった。中間にノモンハン事件と呼ばれるロシア軍と日本軍の衝突があったが、敗戦時のロシア軍の処行については、戦後になって木山捷平の作品『大陸の細道』が信ずるに足りるすぐれた実録を芸術化したものと思えた。あとは当時の新聞記事のほか何も伝えられなかったに等しい。

 太平洋戦争の敗戦とともにロシアの強制収容所について文学者が体験を語っているものは、内村剛介が時として記す文章から推量するほかなかった。わたしはおなじ詩のグループに属していた詩人石原吉郎の重苦しい詩篇をよんでそんなに苦しいのならロシアの強制収容所の実体をはっきり書いてうっぷんをはらせばいいではないかと批判して、その後詩の集りに同席したことがあるが、お互いに一言も口をきかずに会を終えたことがあった。彼にはわたしの批判が浅薄に思えたのだろう。わたしは彼の晩年の二つの詩「北条」「足利」をよんだとき、はじめて石原の胸の内が少しく理解できるかもしれないと感じた。

 陶山幾朗という無類の、いわば呼吸の出しいれまで合わせてくれるようなインタービュアを得て、この本は出来上っている。少し誇張ととられるかも知れないが、わたしには親鸞と晩年の優れた弟子唯円の共著といっていい記録『歎異抄』を思い浮べた。わたしなどには内村剛介が十一年のロシア強制収容所生活中だけでなく、帰国のあと現在にいたるまでロシア学についての専門的な研鑽を怠っていないことがわかって、たくさんの啓蒙をうけた。どうか健康であってもらいたいものだ。

 わたしがこの本につけ加えることは何もないに等しいが、この本がふれていないことと言えば、後藤新平満鉄総裁のもとで副総裁であった中村是公は夏目漱石の大学時代の心を許した悪童仲間で、是公から新聞を発行して助けてくれないかといって訪れている。漱石は胃病が思わしくないと断っている。それならただ見て歩くだけでいいから遊びにこいといわれて『満韓ところどころ』の気ままな旅を是公のおぜん立てでたのしんだ。公的な集りには一切かかわらなかったが、南満各地に散らばった悪童仲間に会い、二葉亭の故地も訪れていることがわかる。漱石のこの旅は『趣味の遺伝』に尾をひき、強いて言えば小説『こころ』につながっている。」

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-06

  千代経べき物を様々子日して  

   鶯の音にたびら雪降る  凡兆

次男曰く、初子は初音に通い、鶯と子日は和歌以来のありふれた付合である。「物を様々子日して」をさぐれと唆されて、面影の一つも考えぬ筈はないが、さいわい「源氏物語-初音の巻-」には相応しい一趣向がある。

「今日は子の日なりけり。げに千歳の春をかけて祝はむに、ことわりなる日なり。ひめ君-明石上の娘、紫上の養女-の御方に-源氏が-わたり給へれば、わらは・下仕へなど、お前の山-庭の築山-の小松ひき遊ぶ。わかき人々の心地ども、おきどころなく見ゆ。北のおとど-明石上-より、わざとがましくし集めたる鬚籠-ひげこ-ども、破子-わりこ-など、たてまつれ給へり。えならぬ五葉の枝にいれる鶯も、思ふ心あらむかし。」とあり、続けて
「とし月をまつにひかれてふる人に今日うぐひすの初音きかせよ」-明石上-
「ひき別れ年はふれどもうぐひすの巣立ちしまつのねを忘れめや」-姫君-、の贈答がある。文にいうところの五葉の松も、枝に移る鶯も本物ではないとわかる。作り物である。

前句の「様々」をさくって、凡兆が取出した下敷はどうやらこれらしい。作り物を野に放ちやり本物のウグイスの音と化して聞く、と考えれば昔物語を俤にした付は、なかなかよく出来た俳諧になるだろう。掛けられた謎を見逃して、芭蕉句の作りを野外の遊宴などと読んでかかると-古注以下大方はそう読んでいる-、凡兆の句は二句一意、まったくつまらぬ伸句-のびく-になってしまう。

「たびら雪」は原板では「たひら雪」、平らなさまに降る雪か、それとも薪ごしらえなどに使う山裾の小平に降る雪か、いずれにしろ「平ら雪」だろう。ならば、無理に濁って訓まなくてもよい。通説では「たびら雪」は「だんびら雪」もしくは「かたびら雪」と同義とするが、「平ら」と段平や帷子とでは、つまるところ淡雪・牡丹雪のこととしても転訛の成り立ちがまったく違う。況や、山平らに降ると考えれば、雪の形状は句作りの従-含-にすぎない。言葉の多義性を気にかけた評家はいないが、私説、山平らに降るぼたん雪と解しておく。

因みに、山城・近江あたりでは、新年の初山入を子日行事にする風習が今に伝わっている。合せれば、王朝絵巻の一齣を奪って近世農民の暮しとした気転は、いっそう利くだろう。「たびら雪」はやはり段平雪や帷子雪の約ではあるまい、と。


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