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山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

夢かさは野べの千草の面影は‥‥

2006-10-19 11:18:16 | 文化・芸術
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-表象の森- はじまりのひろがり

はじめからやりなおすことの利点。
はじまりの地点にはひろがりがある。
どの方向でもいい。最初の枝とおなじ方向にすすむとしても、
それはおなじ流れをつくらない。ちがう時間がちがう流れをつくり、
前の流れからいつかそれていく。
根から這いのぼる別な時間の樹液はそこにあった枝にかさなっていても、
いつか別な方向を見つけてあたらしい枝をのばす。
そのゆっくりとした途絶えないうごき。
うごきが見えないほどちいさくなれば、流れは全体にひろがっていく。
   ――― 高橋悠治「音の静寂・静寂の音」平凡社より


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-74>
 夢かさは野べの千草の面影はほのぼのなびく薄ばかりや 藤原定家

六百番歌合、冬、枯野。
邦雄曰く、曲線を描きつつ一瞬に流れ去るような調べは、誦すほどに、味わうほどに精緻な技法を感得する。歌合では「始め五文字あまりなり。終りの「や」の字甘心せず」と、散々の不評であったが、俊成はこの難をやんわりと退けて定家の勝とした。もっとも、左の寂蓮は言わば対等以下だし、作品そのものも冴えなかったからでもある、と。


 明日も来む野路の玉川萩こえて色なる波に月宿りけり  源俊頼

千載集、上、。
邦雄曰く、野路の玉川は近江草津の近くの歌枕。花盛りの萩の下枝に波がかかり、花の色は移ろうが、そこへ月のさすさま。「明日も来む」の弾むような歌い出し、「萩こえて色なる波に」あたりの、俊頼独特の、屈折に富んだ修辞、後年定家も大いに称揚した作である。詞書に見える俊忠は藤原俊成の父、権中納言に任ぜられた時は保安3(1122)年51歳だった、と。


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ふるさとは浅茅がすゑになりはてて‥‥

2006-10-18 10:30:44 | 文化・芸術
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-表象の森- 「塔に幽閉された王子」のパラドックス

「三島由紀夫」とはなにものだったのか-橋本治著-を少し前に読んだ、
文庫にして470頁余とこの長大な三島由紀夫論は、三島の殆どの作品を視野に入れて、堂々めぐりのごとく同心円上を螺旋様に展開して、作家三島由紀夫と私人・平岡公威の二重像を描ききろうとする、なかなか読み応えもあり面白かったが、読みくたびれもする書。
書中、「塔に幽閉された王子」のパラドックスとして繰りひろげる「豊饒の海」解釈はそのまま的確な三島由紀夫論ともなる本書の白眉ともいえる箇所だろう。


「塔に閉じこめられ、しかしその塔から「出たくない」と言い張っていた王子は、その最後、幽閉の苦しみに堪えかねて、自分を閉じこめる「塔」そのものを、投げ出そうとしている。「塔」から出るという簡単な答えを持てない王子は、その苦しみの根源となった「塔」そのものを投げつけようとするのである。
なぜそのように愚かな、矛盾して不可能な選択をするのか? それは「塔から出る」という簡単な選択肢の存在に気がつかないからである。「塔から出る」とは、他者のいる「恋」に向かって歩み出ることである。「私の人生を生きる」である。なぜそれができないのか? なぜその選択肢の存在に、彼は気がつけないのか?
それは、認識者である彼が、自分の「正しさ」に欲情してしまっているからである。自分の「正しさ」欲情してしまえば、そこから、「自分の恋の不可能」はたやすく確信できる。「恋」とは、認識者である自分のあり方を揺るがす「危機」だからである。彼は「恋の不可能」を確信し、その確信に従って、自分の認識の「正しさ」を過剰に求め、そして、彼の欲望構造は完結する。彼を閉じこめる「塔」とは、彼に快感をもたらす、彼自身の欲望構造=認識そのものなのだ。
肥大した認識は、彼の中から認識以外の一切を駆逐する。彼の中には、認識以外の歓びがない。「認識」を「病」として自覚することは、「認識以外の歓びが欲しい」ということである。しかし彼はそれを手に入れることができない。苦痛に堪えかねて「認識者」であることを捨てる――その時はまた、彼が一切を捨てる時なのだ。」


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-73>
 秋はただ心より置く夕露を袖のほかとも思ひけるかな  越前

新古今集、秋上、千五百番歌合に。
邦雄曰く、詞書は錯記であって正治2年院二度百首。秋の悲しみに心から溢れるものこそ、夕べの露であるものを、袖の涙以外のものと思っていた。同趣数多の歌の中で「心より置く」「袖のほか」の、こまやかな修辞で他と分つところを示す。俊成女・宮内卿と並ぶ才媛で、千五百番歌合作者。作風は三者中最も質素で、細々とした調べを特徴としている、と。


 ふるさとは浅茅がすゑになりはてて月に残れる人の面影  藤原良経

邦雄曰く、詞書に「長恨歌の絵に、玄宗もとの所に帰りて、虫ども鳴き草も枯れわたりて、帝歎き給へるかたあるところを詠める」とある。虫の鳴く場面は原典にはないが、雰囲気の協調であろう。後世、平氏福原遷都の後の今様、「古き都を来てみれば浅茅が原とぞ荒れにける」もこの調べを伝えている。結句の「なく」は、虫の鳴き声、わが鳴き声である、と。

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幾夜経て後か忘れむ散りぬべき‥‥

2006-10-17 10:22:25 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 今朝の見出し

◇意識不明 6時間放置-妊婦転送 18病院拒否-奈良
分娩中に意識不明に陥った妊婦に対し適切な処置ができず、受入れ先を打診した18病院にも拒否され、県外60キロの吹田市にある国立循環器病センターに収容、脳内出血と帝王切開の手術を受け男児を出産するも、母親は重体のまま一週間後に死んだ、という8月に起こった事件。
記事を読むかぎり、分娩入院していた大淀病院の産科医の判断ミスに責任の大半はありそうだが、現在までのところ病院側は、容体急変の対応に問題はなかったとして過失責任を認めていない模様。


◇北朝鮮の核実験確認-放射性物質分析による推定は1㌔㌧未満-実験失敗説濃厚

◇自爆テロ92人死亡-スリランカ
海軍兵士を積んだバスの車列に爆発物を積載した小型トラックが突っ込む。
死傷者の数はなお増える恐れ-同国内での自爆テロとしては過去最大規模の被害、と。


◇「いざなぎ」超えの長寿景気の実態-二極化押し広げ、3人に1人が非正規雇用、年収200万以下981万人

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-72>

幾夜経て後か忘れむ散りぬべき野べの秋萩みがく月夜を  清原深養父

後撰集、秋中、秋の歌とてよめる。
邦雄曰く、月光に荘厳される萩、散り際の乱れつつ匂う萩を、この後暫くは忘れ得ぬ心であろう。「みがく」は飾り装う意もあり、また映ずることと考えてもよかろう。「忘れむ」で、却って忘れ難さを思わせるあたり、深養父の持ち味の一つか。一説にはこの歌、言外に、萩に結ぶ夜露が、月光を映しつつ「みがく」こととする。第三句の斡旋の細やかさ、と。


 山萵苣(ヤマヂサ)の白露しげみうらぶるる心も深くわが恋止まず  柿本人麿

万葉集、巻十一、物に寄せて思ひを陳ぶ。
邦雄曰く、山萵苣はエゴノキ科のエゴノキあるいは萵苣(チシャ)の木とも言い、萵苣の木は茜草科の三丹花の別名でもある。また一説には食用の萵苣のこととも伝える。「山萵苣 白露重 浦経心深 吾恋不止」、人麿はむしろこの字面と語感の面白さに詩因を求めたのではあるまいか。なお菊科の野菜萵苣は、同科の「秋の野芥子」属で日本にもその原種は野生していた、と。


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忘れずよ朝浄めする殿守の‥‥

2006-10-15 20:20:39 | 文化・芸術
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-四方のたより- 行き交う人びと-河野二久物語

河野二久とは小学校時代の恩師である。5年と6年の担任だった。当時のことだから旧師範を出た若い先生で、26.7歳だったであろうか。来春早々の誕生日で満77歳になるというので、このほど喜寿を寿ぎ同窓の集いをすることとなった。
日取りは些か急なるも秋の内にということで11月23日、会場は市岡芋づる会のお仲間でもある九条新道近くの宵望都にお願いした。


九条南小S31年度卆同窓会
「河野先生の喜寿を寿ぎつどう-1-」
「河野先生の喜寿を寿ぎつどう-2-」

「聞き書、河野二久物語」

-九条南小時代の思い出断章-
「九条南小時代の十年は、まだ独身だったから、柏木先生など所帯持ちの先生と交代したりするせいで、三日に一度は宿直で学校に泊まっていたなあ。」とその眼差しは遠くを見やりながら懐かしそうに語りはじめた先生。「宿直の夜はきまって米を持参して自炊。よく女の子たちはおかずの買い出しに行ってくれたし、夜になると男の子たちがぞろぞろやって来ては、お化け屋敷ごっこして遊んでいたな。」という先生には宿直にまつわる懐かしいエピソードは汲めども尽くせずなのだろう。
放課後も毎日のようにみんなと暗くなるまでよく遊んだという先生。今にして思えば、ぼくらが遊んで貰ったのか逆に遊んでやったのか、どっとも言えないのではないか。運動会での組立体操の取組みをずいぶん熱心に主導して、みんな熱心にやったからまあまあの成果が上がったこと、これは正調教員としての思い出。「真冬の寒い日、補習授業で何人か残っていたとき、夕方暗くなると、だれかのお母さんが様子を見に来て、そのまま帰ったと思ったら、ほかほかの焼き芋を持ってきてくれてネ、これが美味しくて、嬉しかったなあ」と。この母親はだれだろう? まだうら若い母親だったとしたら、先生、少しばかり胸をときめかしていたのかもしれないぞ。(コレは此方の逞しき想像)


-代々僧家、大坂夏の陣で寺焼失の憂き目-
河野二久、昭和5年1月4日、堺市中之町東3丁24番地に生まれた。
恵美須町から浜寺まで今も一両きりのチンチン電車が走る阪堺線、その宿院や寺地町界隈は昔から神社仏閣の建ちならぶ、嘗ての自治都市堺の顔とも言うべき一帯。古くは千利休の屋敷跡もあり、与謝野晶子の生家跡もある。
父は通(トオル)氏、母は二久が1歳に満たぬ間に死亡したという。兄と姉につづいて次男として生れたが、上の二人は幼くして早逝したので実質は長男として育つ。母親に死なれ、父は後添を迎え、そのあいだに三女をもうけた。
河野家は代々続いた僧家であった。父・通氏で18代目だという。通氏は僧籍を有しつつ、小学校の教員もしていた。堺市内の小学校、後には大阪市内の小学校にも勤めた。おもしろい偶然だが、天王寺師範(現・大阪教育大)を卆えて大阪市教委に採用された弱冠二十歳になったばかりの二久が、九条南小に初めて赴任してきた時、父は九条北小に奉職していたという。当時、親子二人が毎朝同じ家を出て九条まで通い、北小と南小に別れ、子どもらを相手に教鞭を取っていたわけだが、そんな日々が父親の退職を迎えるまで3年続いたというのだ。
祖父は知らず、二久が生れる以前に他界しているが、僧でありつつも小学校の教鞭をとっていたらしい。祖父、父、二久そして息子と、明治後半から4代続いた教職家系である。祖母は二久13歳の頃まで生き、実母を早く亡くした孫をよく可愛がり、またよく躾けたようである。まだ幼い頃だが、その祖母に連れられて、一度だけ、大阪市福島区の母親の実家を訪ねたことが記憶の片隅に残るという。実母との縁の糸はそれのみか。
代々僧家だったという河野家の初代は真宗大谷派の常満寺住職。父親で18代目だから、二久本人で19代、高校の英語教師という息子さんで20代となる。仮に一代30年とすれば600年を遡ることになるから、初代発祥は室町時代中葉頃かと推測されるが、好事魔多し、時は移って豊臣家滅亡となる大阪夏の陣のさなか、前の冬の陣以後、徳川方に占拠されるようになった堺の豪商たちは東軍の御用商人となっていたのだが、これを恨み、報復の意もあって、大阪方の大野治胤は、ほとんど無防備だった堺の焼討ちを断行するという事件があった。どうやら、河野家先祖の寺は、この折りに焼失の憂き目をみたらしい。時に慶長20(1615)年4月28日のことで、大阪城の落城はその十日後の5月8日であった。
寺は焼失したとて、檀家は残る。以後、河野家は寺を持たぬ僧家として残った檀家に支えられ父親の18代まで継がれてきたというのである。


-長くもあり短くもあり、77年の来しかた-
1931(昭和6)年の「満州事変」以後、満州の植民地化から十五年戦争、そして太平洋戦争へと雪崩れこみ、国家総動員体制下の戦前を生きた幼少年期。そして空襲、敗戦、廃墟と混乱から戦後の復興期に学生時代を経て小学校教員へと歩み出し、以後、教員一筋の40年余。
小学校入学は昭和11年、明治5年創立という少林寺尋常小学校。万年山少林寺の境内に建てられたことに由来しているように、校区内には現在でも南宗寺をはじめ30を超えるお寺が在る。正門には与謝野晶子の歌碑もあり、歴史と伝統ある地域の学校として今日に至る。
旧制府立堺中学(現・三国丘高) いわゆる大阪府第二中への入学は昭和17年。太平洋戦争の真っ只中、1年生の時こそ授業も平常で勉強できたものの、2年生からは勤労奉仕に狩り出されてばかりで勉強した記憶はほとんどない。3年に進級してからは堺化学工場にずっと勤労動員。
4年の夏、終戦となるが、その前月の7月10日、堺大空襲に遭い、自宅は焼失。その後の数年間、昭和26年4月、大阪市住之江区中加賀屋の教員住宅に居が定まるまで、仮のわび住まい状態がつづいた。
昭和22年4月、大阪第一師範学校(俗に天王寺師範-現・大阪教育大)へ進学、25年3月卒業。当時は旧制高校に準じた3年制であった。
卒業と同時に大阪市へ小学校教員として奉職、教員としての略譜は以下のごとく。
 S25年4月、西区、九条南小学校赴任、 ―10年間
 S35年4月、港区、築港小学校赴任、  ―10年間
 S45年4月、東住吉区、矢田小学校赴任、―8年間
 S53年4月、城東区、東中本小学校赴任、―12年間
 H2年3月、60歳にて大阪市教委を定年退職。
 H2年4月、東住吉区、城南短期大学附属小学校へ勤務  ―6年間
 H8年3月、  同上退職。
しかし、一昨年(H16年度)も城南から欠員が出たため急遽依頼され、6ヶ月間の臨時勤務をしている。
自宅から道路を挟んで城南の校舎があるという、文字通り眼と鼻の先だから重宝されたと見え、こういうケースはたびたびあった、という。


-家族たち・趣味の世界、老後の日々-
幼稚園教諭であったという夫人との結婚は昭和39年11月。友人の紹介で知り初めた。
翌40年には男児に恵まれ、44年には女児が誕生して、一男一女。長男は親同様に教職に進み、奈良県にて高校の英語教員をしている。既に結婚しており、一男(7歳-小2)一女(5歳)あり。長女は未婚、栄養士として病院に勤務。
ゴム版画と写真は若い頃から趣味としていたが、近年は、今春、みんなにお知らせした「コゲラ展」のように木版画を楽しんでやっている。毎日文化センターの木版画教室に通ったのがちょうど10年前で、以来ずっと隔週ペースで通いつづけている。また、地域の学校開放による「ゆざと軽スポーツクラブ」では卓球を週1回の集いで楽しんでいる。以前は、遺跡発掘の現地説明会などを新聞などで見つけると、よく聞きに行って、写真を撮ったり関連資料をスクラップしたりしたものだが、最近は些かご無沙汰気となっている、とざっとこんな次第である。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-71>
 尋ねつる心や下に通ふらむうち見るままに招く薄は  藤原清輔

清輔朝臣集、秋、秋野逍遥しけるに薄の風になびくを見て
邦雄曰く、薄の擬人化はいずれも同工異曲、「招く」に帰するようだ。この歌の以心伝心、薄との交感など、薄の歌群中でも殊にねんごろなものだろう。清輔には薄題が多く、家集にも「武蔵野にかねて薄は睦まじく思ふ心の通ふなるべし」「糸薄末葉における夕露の玉の緒ばかり綻びにけり」等、心を盡した調べである。「尾花」はむしろ用例が少ない方だ、と。


 忘れずよ朝浄めする殿守の袖にうつりし秋萩の花  後嵯峨院

続後撰集、秋上、九月十三夜、十首の歌合に、朝草花。
邦雄曰く、主殿寮の役人が朝々、宮中を清掃する姿は、拾遺・雑春に「殿守のとものみやつこ心あらばこの春ばかり朝浄めすな」が見える。御製は調子の高い初句切れで始まり、絵巻物の残欠のように美しい。第四句は花摺となって色を移したことを、また匂いを止めたことをも言うのだろう。十三夜歌合の回想詠としても、なかなの趣向、まさに忘れ難い、と。


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ものおもはでかかる露やは袖に置く‥‥

2006-10-14 12:48:46 | 文化・芸術
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-表象の森- 「津島家の人びと」

津島家とは太宰治(本名-津島修治)の実家である。あの斜陽館は太宰の父・津島源右衛門が明治40(1907)年に当時の贅を尽くして建てた邸宅だ。
「津島家の人びと」(ちくま学芸文庫)は、1868年の明治維新を遡ること100年ほど、金貸しから身を興し、凶作で苦しむ農民の田畑を買い占めて代々財を成し、果ては銀行まで設立する新興の商人地主であった津島家の系譜を丹念に辿り、その全盛を極めた源右衛門とその後継である文治(長男)親子の栄華と凋落の有為転変を詳細に活写してくれて、太宰の出自とその放蕩や文学形成の傍証として読むのもおもしろいだろう。


-今月の購入本-
高橋悠治「高橋悠治コレクション1970年代」平凡社ライブラリー
ジョエル・レヴィ「世界の終焉へのいくつものシナリオ」中央公論新社
ヤーコブ・ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化-1-」中央公論新社
M.フーコー「フーコー・コレクション-2-文学・侵犯」ちくま学芸文庫
野崎歓「カミュ「よそもの」きみのともだち」みすず書房


-図書館からの借本-
新田一郎「太平記の時代-日本の歴史11」講談社
小林康夫「青の美術史」ポーラ文化研究所
市川浩「私さがしと世界さがし-身体芸術論序説」岩波書店
笹山隆「ドラマの受容-シェイクスピア劇の心象風景」岩波書店
S.グリーンブラット「シェイクスピアの驚異の成功物語」白水社
保苅実「ラディカル・オーラル・ヒストリー-オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践」御茶の水書房


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-70>
 露かかる蘆分小舟深き夜の月をや払ふ海人の衣手  肖柏

春夢草、下、雑上、漁夫棹月。
邦雄曰く、一句一句が互いに光りつつ響き合う巧みな構成、秋も半ばのやや黄ばんだ蘆の繁みを分ける漁り船、蘆分小舟(アシワケオブネ)も簡潔な言葉だが、その蘆からこぼれる夜露を払おうとして降りそそぐ「月をや払ふ」第四句は、見事な秀句表現。二句切れに仕立ててあるので、連歌の長句的完結も感じられるぬ。連歌師なればこその技巧であろう。題も充分に生かされた、と。


 ものおもはでかかる露やは袖に置くながめてけりな秋の夕暮  藤原良経

新古今集、秋上、家に百首歌合し侍りけるに。
邦雄曰く、六百番歌合の秋夕、右は慈円の「さてもさはいかにかすべき身の憂さを思ひはつれば秋の夕暮」で、俊成判は持。秀作同士の良き持であろう。秋の歎きの深さを強調しただけのことだが、天賦の才気、瑞々しい詩魂から迸る言葉は、そのまま丈高い調べを成し、稀なる秋夕歌。慈円の歌は二十一代集に潜入されなかった、と。


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