山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

忘られてしばしまどろむほどもがな‥‥

2006-07-13 16:51:53 | 文化・芸術
Enku_21

-表象の森- 円空の自刻像

  作りおくこの福(さいわい)の神なれや深山の奥の草木までもや

 円空の詠んだ歌とされる。和讃などにも似て、歌の技巧など特筆するものはないが、信仰の心の深さや、木仏を刻みつづける思いの深さが沁みわたる。
円空の遺した歌は発見されたものだけでも1600首もあるそうである。ずいぶんの数だが、その殆どは古今集の歌を出典とする円空流替え歌だといわれる。6月20日付で書いたように、12万体造仏の発願から、鉈彫りで大胆な省略と簡素化をなした独創的な円空仏の世界に比して、歌は本芸にあらず余技というべきか。やはり円空はその木仏を愛でるに如くはないのだろう。


 画像は岐阜県萩原町(現・下呂市)の藤ヶ森観音堂に遺る「善財童子像」である。朝日新聞社出版の「円空-慈悲と魂の芸術展」写真集より心ならずも拝借した。
円空が遺したさまざまな「善財童子」像の多くは自刻像であろうとされている。所謂、木彫による自画像という訳だ。その円空の自刻像について五来重はその著「円空と木喰」において次のように解説してくれる。
「自画像や自刻像をつくる芸術家は少なくない。しかし山伏修験、あるいは遊行聖の自刻像は、芸術家のそれとまったく異質な動機から出ている。それは自己顕示のためではなく、衆生救済の誓願のために作るのである。禅宗では一休のように自画像を描くこともあるが、多くは授法のために、自分の肖像画を頂相(ちんぞう)として、画家または画僧に描かせる。これも仏相単伝の禅を人格として表現するのである。山伏修験は自己を大日如来と同体化して、即身成仏を表現する。また自らの誓願を具象化するために、自刻像を残すのである。この自刻像を自分の肉体そのもので作ったのが、羽黒山に多い「即身仏」、すなわちミイラである。それは自己を拝する者には諸願をかなえ、諸病を癒そう、との誓願を具象化したものである。円空はミイラを残さずに自刻像を残したのであり、「入定」によって誓願を果たそうとした。円空の自刻像は「入定」とまったくひとつづきの信仰であった。飛騨の千光寺の円空自刻像が、「おびんづるさん」として、撫でた部位の病を癒すと信じられたのも、このような信仰から理解されるのである。」


 円空仏をいろいろと鑑賞していると、私などは棟方志功の版画世界によく通じるものを、つい観て取ってしまうのだが、信仰-宗教心から発したものと、西洋近代の自我を通した表現-芸術的創造から発したものと、その似て非なることの一点は、やはり押さえておかなくてはならないのだということを、五来重はよく示唆してくれている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-26>
 忘られてしばしまどろむほどもがないつかは君を夢ならで見む
                           中務


拾遺集、哀傷、娘におくれ侍りて。
邦雄曰く、亡き娘を思うあまり夜々泣き明かして眠る暇さえない。ほんの一時のまどろみがほしい。夢以外に見ることはもう不可能なのだから。悲嘆に苛まれる母の心を、ほとんど悩ましいほどに歌っている。中務は、また孫にさえ先立たれ、「うきながら消えせぬものは身なりけりうらやましきは水の泡かな」を、この集に並べて採られた、と。


 恋しくは夢にも人を見るべきを窓打つ雨に目をさましつつ
                         藤原高遠


後拾遺集、雑三、文集の蕭々タル暗キ雨ノ窓ヲ打ツ声といふ心を詠める。
邦雄曰く、白氏文集の上陽人歌の中にある一句を踏まえての句題和歌。恋の歌というにはあまりにも淡々たるところ、高遠の性格が躍如としている。家集には「耿々タル残ンノ燈、壁に背ケタル影」を歌った、「ともしびの火影に通ふ身を見ればあるかなきかの世にこそありけれ」等、長恨歌・楽府等から句を選んでものした作品が、40首近く飾られ一入の趣、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

をりをりのその笛竹の音絶えて‥‥

2006-07-12 14:01:50 | 文化・芸術
Nihonbukkyousi__1

-表象の森- 「日本仏教史」を読む

 思想史としてのアプローチと副題された末木文美士著「日本仏教史」(新潮文庫)は、土着化した日本独自の仏教を思想史的に概括したものとして、なかなかの好著とみえる。
1949年生れの著者は現在東京大学大学院人文社会系研究科教授にある。本書の初版は1992(平成4)年、1996(平成8)年に文庫版化された。

同じ仏教でもインドとも中国とも異なる日本の仏教は、どのような変化を遂げて成立したのだろうか。本書では6世紀中葉に伝来して以来、聖徳太子、最澄、空海、明恵、親鸞、道元、日蓮など数々の俊英・名僧たちによって解釈・修正が加えられ、時々の政争や時代状況を乗り越えつつ変貌していった日本仏教の本質を検証。それは我々日本人の思想の核を探る旅」と解説されるように、近世江戸期、近代明治までをまがりなりにも射程に収めた日本的仏教の「歴史」の入門書であるが、その時代々々の多様な変容を通して、神道や儒教とも渾然と融和しつつ展開してきた日本的仏教の裾野の広さをよく把握しえる一書である。

今月の購入本
 金子光晴「絶望の精神史」 講談社文芸文庫
 金子光晴「詩人-金子光晴自伝」 講談社文芸文庫
 牧羊子「金子光晴と森三千代」 中公文庫
 梅原猛「京都発見(六)ものがたりの面影」 新潮社

図書館からの借本
 ドナ・W・クロス「女教皇ヨハンナ-下」草思社
 山本幸司「頼朝の天下草創-日本の歴史08」 講談社
 筧雅博「蒙古襲来と徳政令-日本の歴史10」 講談社
 五来重「円空と木喰」 淡交社
 長谷川公成・監修「円空-慈悲と魂の芸術展」 朝日新聞社
 辻惟雄・編「北斎の奇想-浮世絵ギャラリー」 小学館
ジョルジュ・タート「十字軍-ヨーロッパとイスラム-対立の原点」 創元社

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-25>
  榊葉のさらでも深く思ひしを神をばかけて託(カコ)たざらなむ
                         藤原顕綱

顕綱朝臣集。
邦雄曰く、家集には恋の趣ある歌群の中に紛れて、この一首が見える。榊は神の縁語で、意は
、熱愛したことの決して歎きはすまいとの、潔い断念であろう。別に、「斎院に人々あまた参りて詠むに」の詞書で、「神垣にさす榊葉の木綿(ユフ)よりも花に心をかくる春かな」他、榊葉の歌二首があり、顕綱の好みであろう。特殊な言語感覚の持ち主として記憶に値する、と。

 をりをりのその笛竹の音絶えてすさびしことのゆくえ知られず
                     建礼門院右京大夫

建礼門院右京大夫集。
邦雄曰く、ひめやかに暗く、縷々としてあはれな建礼門院右京大夫集の中で、この「笛竹の音絶えて」の一首は、一瞬眼を瞠らせるような、気魄と語気をもって他と分つ。院の側近が笛を吹き、作者がそれに和して琴を奏でた栄華の日の思い出。結句の烈しさは、今はすべて夢と諦め、敢えて涙は見せぬという心ばえを映したか。治承2(1178)年頃の物語、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

友と見よ鳴尾に立てる一つ松‥‥

2006-07-11 13:41:01 | 文化・芸術
Titeiyose0607

-表象の森- 三枝と地底旅行寄席と大和田さん

 今年も7月の地底旅行寄席は、恒例の桂三枝登場で客席も賑わうだろう。
今夜の午後6時からだ。
三枝と地底旅行寄席の所縁については以前にも書いたので省略。
この寄席を主催する旧・田中機械工場跡のレストランパブ地底旅行についても、さらに以前に書いた。
月例の寄席がすでに75回を数えるから6年余り続いたことになるが、こうして毎月のように案内と招待状を送っていただくのが、なかなか足を運べぬこの身には些か心苦しい。


60年代の労働争議、70年代の田中機械自己破産突破争議を率いた大和田幸治さんは、1926年生れというから今年は80歳になる。5年前に歴年の闘争を総括的に回顧した「企業の塀をこえて-港合同の地域闘争」(アール企画刊)を出版している。私が大和田さんの存在を知ったのは、彼が先頭に立った田中機械労働争議をモデルに描いた関西芸術座の「手のひらの詩」を観たゆえだった。関西芸術座の公演年譜によれば昭和46(1971)年9月のことになる。この芝居を通して大和田さんの為人(ひととなり)を想い描いていた私は、後年近づきになる機会を得た折り、まるで懐かしい旧知の人に会うように思えたものだった。
このところ2年ばかりお目にかかることもなく打ち過ぎているが、きっと今なお矍鑠としてご健在であろう。また近い内にお元気な姿を拝せずばなるまいと思うのだが‥‥。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-24>
 友と見よ鳴尾に立てる一つ松夜な夜なわれもさて過ぐる身ぞ
                         藤原良経


秋篠月清集、百首愚草、二夜百首、寄松恋。
邦雄曰く、古事記、倭猛の「尾張に 直に向へる 尾津の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば」を、秘かに踏まえた上句、下句にそのように「一夜一夜を」と歎く。「寄松恋」とあるが恋の趣はうすく、まして女人に代わっての詠とは縁が遠い。勿論「友」は「伴・同類」ょ意味するが、悽愴、凜冽の気の漂うところは、良経の特色まぎれもない秀作、と。


 ふるさとを恋ふる袂は岸近み落つる山水いつれともなし  恵慶

恵慶法師集、恋。
邦雄曰く、題の意は郷愁の強調でもあろう。落ちる涙と、岸に打ち寄せる山水と、袂を濡らすものはこもごもに、いま故郷の岸に近づく。常套と見えながら、意表を衝く趣向を秘め、作者の特徴がよく現れている。「春を浅み旅の枕に結ぶべき草葉も若き頃にもあるかな」等、家集には、折に触れて当意即妙の、淡々として味わいのある作品が見られる、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

わが屋戸のいささ群竹吹く風の‥‥

2006-07-10 12:13:22 | 文化・芸術
Uvs0504200431

-表象の森- 「文月会展」再び、と「観潮楼歌会」

 昨日は、いつもの稽古を終えてから、京都へと「文月会展」の再度の訪問。
先日は旧知の市岡OBたちとの飲み会が目当てのようなもので、独りで出かけたため、あらためて連れ合いと幼な児とを伴って、という次第。
展示会の終了間際の時間帯はごった返すほどに人が次から次へと詰めかけていた。なかに先輩のT.Kさんが居たのでしばし歓談。先日「きづがわ」の芝居を観たという。劇団代表の時夫が私の兄弟だろうとは思っていたが、双生児の片割れとはご存じなかったらしい。神澤に纏わる市岡関係者の相関図とでもいうべき話題に昔を思い出しつつ興じたが、絡み合った糸を手繰ればいろいろと出てくるものである。
その後はN夫婦とそれぞれ個別にお話。N氏の持病は「間質性肺炎」だと聞いた。私には耳慣れない病名だったので、帰ってから調べてみたが、これが「特発性間質性肺炎」ともなると難病-特定疾患となるらしい。肺胞壁の炎症硬化が漸進的に進むものらしいから、呼吸器系に負担のかからぬ、なにより養生の生活リズムが肝要なのだろう。ご本人の自重こそ大切だが、周囲の我々もまたよくよく配慮せねばなるまい。


 話題転じて、昨日は「鴎外忌」でもあった。
  「處女はげにきよらなるものまだ售(ウ)れぬ荒物店の箒のごとく」
森鴎外の「我百首」に含まれる歌という。明治42(1909)年5月の「昴」五号に発表されたそうな。
奇異な、アフォリズム風とでもいうのか、肩透かしの思わず笑いを誘うような歌ではある。森林太郎、時に47歳。
この年1月に「昴」が創刊された。4月には与謝野晶子の好敵手、山川登美子が30歳の若さで没している。
これより2年前、明治40(1907)年の3月から、与謝野鉄幹の「新詩社」と正岡子規の「根岸」派歌壇の対立を見かねた鴎外は、「観潮楼」と名づけた自宅に招いて毎月のように歌会を催し、両派の融和を図ったという。
明治の文壇・歌壇において一つのメルクマールをなしたこの「観潮楼歌会」は43(1910)年6月まで続けられ、当初は両派の領袖、与謝野鉄幹・伊藤左千夫など少数であったが、次第に「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派 の斎藤茂吉・古泉千樫らの新進歌人らが加わり、主人鴎外を中心に熱心な歌論議が交わされたと伝えられる。
鴎外の夢みた両陣営の融合は果たし得なかったが、そこに溢れた西欧文化の象徴的抒情性は白秋・茂吉・杢太郎ら若い人々に多くの刺激を与え、彼らの交流を深める動機となったといえるのだろう。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-23>
 わが屋戸のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも
                          大伴家持


万葉集、巻十九、雑二、三十首の歌召されし時、暁雲を。
邦雄曰く、天平勝宝5(753)年2月23日、同じ詞書の「春の野に霞たなびきうら悲し‥‥」の次にこの歌は並ぶ。25日の「雲雀」とともに、家持抒情歌の傑作と誉れ高い歌。この群竹には春の気配は全くない。たとえ感じられても所謂竹の秋、陰暦3月の趣に近かろう。3首の中ではもっとも陰翳の冷やかな侘びの味わいに溢れている、と。


 ほのぼのと山の端の明け走り出でて木の下影を見ても行くかな
                            源順


源順馬名合せ、一番。
邦雄曰く、馬名合せは自歌合せ。一番は「山葉緋」と木下鹿毛」の番(ツガイ)。曙光が山の端に現れ、樹々が次第に暗みから明るみに出る様を、馬に類えて活写している。言語遊戯の達人順ならではの趣向。二番は「海河原毛」とひさかたの月毛」の番。「雲間より分けや出づらむ久方の月毛窓よりかちて見ゆるは」等、20首10番は、目も彩な馬名が珍しく楽しい。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

風さむみ岩もる水はこほる夜に‥‥

2006-07-08 21:00:41 | 文化・芸術
0412190151

-表象の森- 五百羅漢

 過去に二度ばかり北条の羅漢寺(現・加西市北条町)を訪ねたことがある。
此処の五百羅漢の石仏たちは、すべてが素朴な形状でそれでいてわずかに表情はみな異なり、なにやら儚く侘しげで、黄昏迫る頃ともなると、郡立する羅漢たちに囲まれたわが身が、ふと彼らとともにあるかのような感懐をおぼえるのだ。
五来重の教えるところによれば、五百羅漢は江戸時代にいたって庶民信仰に広く浸透し全国各地に造立されるようになったという。
石仏にせよ木仏にせよ、その多くの羅漢のなかに肉親の死者の顔が見出され、ここに来れば亡き人に必ず逢えるという他界信仰に支えられている。九州の耶馬溪の羅漢寺五百羅漢のように、幽暗な山中の洞窟に納められているのは、もともと洞窟が黄泉路にかよう入口であるという信仰であり、その黄泉路の境においてこそ死者と生者の対面も可能となることを、視覚的に現実化したものだということになろう。

 
「五百羅漢の世界へようこそ」というサイトでは、全国の主だった五百羅漢の所在地を教えてくれる。
40ヵ所ほどが紹介されたこの資料によれば、前述の耶馬溪羅漢寺が14世紀頃に成ったとされる以外、大半が江戸時代に集中しているのだが、意外なことに、昭和の終りから平成にかけてのこの20年ほどの間、発願造立されているのが9ヵ所を数えているというのには驚かされる。
二、三百年の時を隔てたこの現代に、時ならぬ五百羅漢造立のブームが起こっている訳だが、その背景に潜むものが奈辺にあるかは容易に語り尽くせぬものがあろうけれど、こうして現代に新しく生み出される五百羅漢たちを訪れてみたいものだとは、正直なところ一向に思えない私ではある。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-22>
 伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家づとにせむ  安貴王

万葉集、巻三、雑歌、伊勢国にいでましし時。
邦雄曰く、伊勢の沖には雲白の波が花のように砕け散る。花であってほしい。包んで持ち帰って妻への土産にしようものを。波の花を胸に抱えて夢に妻の許へ急ぐ男。安貴王は志貴皇子の孫にあたる。8世紀前半の万葉歌人、「明日行きて 妹に言問ひ わがために 妹も事無く 妹がため われも事無く」と情愛を盡した巻四の長歌にも、その心ばえを見る。と。


 風さむみ岩もる水はこほる夜にあられ音そふ庭の柏木  飛鳥井雅世

雅世御集、永享九年七月、石清水社百首続歌、柏霰。
邦雄曰く、細々として冴えた用言の頻出、「もる・こほる・そふ」と異例の文体が、冬夜の身も凍るたたずまいを如実に伝える。この「柏木」は檜・椹(サワラ)などの常緑樹ゆえ、霰の飛白(カスリ)に配するに暗緑の喬木、厳しくただならぬ眺めである。寄原恋の「人知れぬ涙の露も木の下の雨にぞまさる宮城野の原」もまた、冷え冷えとした趣、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。