―日々余話― 子どもがとりもつ‥
昨夜の宴の主役はどこまでもKAORUKO-
案ずるより産むが易し、まさに子どもがとりもったような形で、和やかに賑やかに終始した3時間余だった。
〆はKAORUKOのお望み一番、狭い場所に押し込むようにして、みんなでプリクラに収まる始末。
めでたしめでたしの大団円で、地下鉄を右と左にサヨナラ。
―表象の森― 知恵の樹-№.1
<いかにして知るのか>を知る
ぼくらの経験が、いかにぼくらの<構造>にしっかりと結びついているか-
ぼくらは世界の「空間」-客観的・外在的な-を見るわけじやない。ぼくら自身の個別の視野を、生きているのだ。
反省的思考-Reflection-[=反映]とは、ぼくらが<いかにして知るのか>を知るプロセスのことだ。
それは自分自身に向かって帰還してゆく行為だともいえる。それは自分の盲目性を見いだし、他人の確信や知識[認識]にしたところで、ぼくら自身のそれと同じくらい、困った、頼りないものだと認識するための、唯一の機会なのだ。
ぼくらが<いること>「存在」と、<おこなうこと>「行動」と、<知ること>「認識」の、この継ぎ目のない偶発的同時性がふくみもつ意味に、気づくということ。
外部にあるいかなるものについての経験も、「そのもの」が<描写>の中に立ち現れてくることを可能にする人間の構造によって、特別のやり方で価値づけられて[有効化されて] いるのだ。
アクションと経験のこの円環性、この連結、ある特定の<ありかた>「存在様式」と世界の見え方とのこの分離不可能性は、ぼくらに、それぞれの認識行為はひとつの世界を生起させるということを教える。
これらのことは次のようなアフォリズムに要約されることになろう-
「すべての行動は認識であり、すべての認識は行動である」と。
※このシリーズはオートポイエーシス理論を提唱したU.マトゥラーナとF.バレーラの共著「知恵の樹」からの引用MEMO。
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-251
9月17日、晴、うすら寒いので、とうとうシヤツをきた、ことに三時にはもう起きてゐたのだから、-うつくしい月だつた、月光流とはかういふ景情だらうと思つた。
朝から其中庵へ出かける-飯盒そのものを持つて-、大工さんへ加勢したり、戸外を掃除したり、室内を整理したりする、近来にない専念だつた。
樹明さんから、ポケツトマネー-50銭玉一つ-頂戴、それでやうやく煙草、焼酎にありつく。
夜、さらに同兄と冬村君と同道して来訪、話題は其中庵を離れない、明日は大馬力で其中庵整理、明後日入庵の予定。
これで、私もやつとほんとうに落ちつけるのである、ありがたし、ありがたし。
じつさい寒くなつた、朝寒夜寒、障子をしめずにはゐられないほどである。
秋、秋、秋、今年は存分に秋が味はへる。‥‥
※表題句の外、3句を記す
Photo/北の旅-2000㎞から―層雲峡、銀河の滝を背に-’11.07.28
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