Information-四方館 DANCE CAFE –「Reding –赤する-」
―表象の森― 視覚、身体としての
「余白の芸術」-李禹煥-より
近代主義の視覚とは、同一性の確認のための眼差しである。言い換えれば、自己の意志で対象物を措定しておき、それを見るという意味だ。
ルネサンス以後の遠近法の発達で解るように、意志的な視覚主義は、客観性と科学性を標榜した脳中心思想からきたものである。それを合理的に図式化した人がデカルトであり、彼において、見るということは、egoによる視覚の規定力を指している。
ところで、広い世界を前にしたごく限られた眼は、逆遠近法的に開いている。自分の眼の前のものより遠いところをもっと広く思い、そのように見るということは誰でも知っており経験していることだ。もちろん具体的な対象世界において、近くのものが大きく見え、ずっと遠いものは小さく見えるということが科学的であることは明らかだが、眼の限定性からくる感じ-思い-が、その反対であることもまた否定できない。
最近では、古代社会の絵画や中世のイコン、または東洋の山水画などの分析から、逆遠近法の考え方が再照明されていることも注目に値する。むしろ近代の遠近法というものが、人類文化史の中では特異な時代の産物であるという者さえいる。
今日、視覚という時、何処に焦点を置くかによって、正反対の言葉になってしまう。近代的な遠近法的視覚とは、こちらからあちらを一方的に捉え定めることをいう。対象物自体とか世界が重要なのではなく、見る主体の意識と知識による規定力が決定的であるということだ。ここでは見るということが、設定された素材やデータで組み立てたテクストと向き合う態度である。
これに対し、逆遠近法では、反対に、向こうからこちらを見ている形であるため、世界の側が圧倒的に大きく扱われる。それゆえ見る者の対象物に対する限定力は、曖昧で弱くなるしかない。このような視覚は、受動性が強く、偶然性や非規定的な要素の作用が著しくなりがちだろう。
ここで私は、受動性と能動性を兼ね合わせた身体的な視覚を重視したい。人間は意識的な存在であると同時に、身体的な存在でもある点を再確認すれば、どちらにしても見るということが一方的であってはなるまい。身体は私に属していると同時に、外界とも連なっている両義的な媒介項である。だから身体を通して見るということは、見ると同時に見られることであり、見られると同時に見ることなのだ。 -略-
美術は視覚と不可分の領域である。 -略-
私と外界が相互関係によって世界する、という立場からすれば、作品もまた差異性と非同一性の一種の関係項である。 -略-
作品において、知的な概念性とともに、感性による知覚を呼び起こすことが出来るということは、そこに未知的な外部性が浸透されているということであり、だから、見る者と対話が成り立つのだ。見るという行為は、身体を媒介にして対象との相互関係の場の出来事を招く。作品が、出会いが可能な他者性を帯び、見るということが両義性を回復する時、新しい地平は開かれよう。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「花見の巻」-15
月見る顔の袖おもき露
秋風の船をこはがる波の音 曲水
次男曰く、
旅体を以て恋離れの工夫とし、
「ほそき筋より恋つのりつゝ」
「物おもふ身にもの喰へとせつかれて」
「月見る顔の袖おもき露」 -A-
「物おもふ身にもの喰へとせつかれて」
「月見る顔の袖おもき露」
「秋風の船をこはがる波の音」 -B-
「せつく」に「こはがる」-強しから転義して中世頃より怖しの意に遣う-と当世話を釣合せ、AからBへ話を奪ったはこびである。船旅としたのは、陸路は既に第三の句に出ているからだが、二度とも曲水がかまえた旅体だ、というところに格別の模様がみえる。
女とその連れの慣れぬ船旅、わずらうのは恋ならぬ船酔のせいだと読んでおけばよく、女の境遇などここでは探る必要のないはこびだが、それでも猶面影の一つも添わせてみたければ、「平家物語」の「福原落」-巻七-でよい。
「‥渚々によする波の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀のきりぎりす、すべて目に見え耳に触るる事、一つとして哀れをもよほし心を痛ましめずといふ事なし。昨日は東関の麓にくつばみをならべて十万余騎、今日は西海の波に纜を解いて七千余人、雲海沈々として、青天すでに暮れなむとす。孤島に夕霧隔て、月海上に浮かべり。極浦の浪をわけ塩にひかれて行く船は、半天の雲にさかのぼる。日数ふれば、都は既に山川程を隔て、雲居のよそにぞなりにける。はるばる来ぬとおもふにも、ただつきせぬ物は涙也。浪の上に白き鳥の群れゐるをみ給ひては、かれならん、在原なにがしの隅田川にて言問ひけん、名もむつまじき都鳥にやと、真也。寿永二年七月二十五日に、平家、都を落はてぬ」、と。
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