日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

日朗坂(佐渡市宮川)

2018-09-02 23:32:28 | 旅行

1274年3月7日、奇跡的に佐渡・小木海岸に漂着した日朗上人は、学法房に介抱され、庵で夜を明かしたそうです。



翌3月8日の早朝、日朗上人は日蓮聖人のもとへ赦免状を届けるために出発しました。



小木を出発して日蓮聖人がいると思われる国仲平野へ抜けるには、小佐渡山地を越えなくてはなりません。
僕が訪問したのが8月中旬ですから、その真逆の季節・・・恐らく山中には沢山積雪があったに違いありません。



日も暮れ、辺りが暗くなる中、土地勘のない日朗上人は声の限り「お師匠さま~」と呼びながら歩き続けたそうです。
つい20日ほど前に鎌倉の土牢を出され、必死で山野を歩き続けたのち、荒れる日本海で遭難し、昨日漂着したばかりの身体・・・もう精も根も尽き果てようとしていました。



その頃、日蓮聖人と日興上人はたまたま用事で中興入道の屋敷に来ており、その帰り道、静まる国仲平野の先にかすかに「お師匠さま~」の声を聞いたといいます。(諸説あるようです)



やっと、やっと日朗上人が日蓮聖人に出会えた場所がこの緩い坂だと言われています。
画像の左手の茂みが、いわば小佐渡山地の麓、くらいの位置関係です。


日朗坂です。



現在、坂は県道65号線になっており、県道沿いに法塔がお祀りされています。



もう歩く力も残っていない日朗上人は日興上人に抱えられながらも、首に掛けた赦免状を日蓮聖人に手渡したのでしょう。
命懸けで持ってきた赦免状なのです。思いが果たせた瞬間でした。
(↑画像は経島の日朗上人ご尊像)



日蓮聖人は殊のほかお喜びになったと伝えられています。
それは、自らの赦免の知らせよりも、一刻も早く赦免状を届けようと、最愛の弟子が遠い鎌倉からやって来てくれたことに、感激したのだと思います。


さてさて、日蓮聖人は赦免状をどこでご覧になったのだろう・・・?
実は、「御腰掛石」にお座りになって・・・のようなんですが、次回を待て!!




性善房の庵跡(佐渡市小木)

2018-09-02 15:11:13 | 旅行

1274年3月7日、赦免状を携えた日朗上人は奇跡的に経島に漂着しました。



日も暮れ、暗くなる中、日朗上人は経島の岩に座り、高らかにお経を唱え続けました。

辺りが静まる中、読経の声に気付いたお坊さんがいました。学法房です。
禅僧であった学法房は、経島からほど近い地に庵を構えていたのです。


遠くから聞こえる読経らしき声・・・どうしたことかと海岸に出てみると、岩の上で一心にお経を唱えるお坊さんがいるのを発見しました。

3月初旬の佐渡、まだまだ春にはほど遠い寒さ・・・。
学法房は身体が冷え切った日朗上人を庵に招き入れ、手厚く介護したといいます。



現在、その庵の跡は整備され、信徒が参拝できるようになっています。



中央に大きく立派な宝塔が建っていました。



どうやら日朗上人が赦免状を持って着岸した事を顕彰した宝塔のようです。
お花が供養されていました。信仰のある方の参拝があるようです。



このお題目7字は日朗上人の御真筆のようですね。


日朗上人の署名と花押があります。
日朗上人の花押、初めて見た!何か漢字をデフォルメしてるみたいだけど・・・わかりませんでした。



台座に刻まれている文字を見ると、大正9年に何かの600年を記念して「高僧遺蹟」に建てた、的な事が刻んであります。
大正9(西暦1920)年の600年前は・・・西暦1320年、あ!日朗上人が亡くなった年だ!
つまり日朗上人600遠忌の宝塔ですね!



学法房と日朗上人はその夜、語り明かしたといいます。
心優しい学法房と穏やかな日朗上人は気が合ったのかもしれませんね。



日朗上人は翌朝、日蓮聖人に赦免状を届けるべく、庵をあとにしたそうです。



学法房はのちに日蓮聖人に帰依し、法号を「性善房日顕」と改めました。
また、日朗上人を介抱した庵を法華道場とし、生涯布教に努めたそうです。



江戸時代になり、庵は小木港を見下ろす高台に移され、現在の安隆寺祖師堂のルーツになっています。



崖の真下に法塔がいくつか並んでいました。



日朗上人の、これは500遠忌かな?


願主に小木の講中もありますが、


江戸・・・


下谷の講中もあり、法華信仰が盛んだった江戸の町衆たちが、積極的に佐渡にも来島し、参拝していたことが窺えます。


江戸時代はどうやって佐渡海峡を渡ったのかな?
多分まだ木造手漕ぎか帆柱を立てた和船・・・ですよね。えらいな~

すみません、ジェットフォイルで楽をしちゃいました・・・










経島(佐渡市小木)

2018-09-02 12:12:48 | 旅行
佐渡法難の数年前から、モンゴル帝国による日本侵攻の兆しは見られていたようです。国書が繰り返し届き、幕府への揺さぶりが始まっていました。
九州守護で焦る幕府内では案の定、内乱が起こり、混乱に拍車がかかりました。

いずれも日蓮聖人が以前から幕府に訴えていた「他国侵逼難」「自界叛逆難」に他ならないことは、誰の目にも明らかでした。
そうなると、「あの日蓮という僧侶は何者なのだろう?」「本当に予言者なのか?」と人が思うのは自然なことでしょう。


幕府は1274年2月14日付で日蓮聖人に赦免状を出し、また龍ノ口の一件以来、牢に入れられていた弟子や信者を解放しました。


↑鎌倉長谷・光則寺の土牢から出された日朗上人は、自分の釈放よりも日蓮聖人の赦免を、それこそ飛び上がるように歓喜したでしょう。
早速、赦免を伝える役人とともに佐渡に向かったと言われています。



寺泊から海を渡ろうとしましたが、まだ3月の日本海ですからね、途中で海が荒れ、遭難してしまったそうです。
一説には日朗上人含め3人が海を渡ろうとしましたが、日朗上人以外は行方不明になってしまったといいます。



気付くと日朗上人は佐渡南西の、小木海岸に漂着していました。



日朗上人がたどり着いたのは、現在観光地として有名な矢島経島の「経島」でした。
右側の大きいのが矢島で、矢の材料となる良質な竹が採れたそうです。
経島はその左側の岩です。こう見るととても小さいですね!



矢島経島の周辺にある岩礁は橋でつながり、一周300mほどの遊歩道になっています。



遊歩道に囲まれた半開放の入り江では、佐渡名物・たらい船観光が楽しめます。
15分で500円!



経島へ行くには、風流な赤い太鼓橋を歩いて渡ります。



宝塔がありました。


日蓮聖人の遠忌に奉納された宝塔のようですね。



宝塔の右側に、細~い道、いや道とはいえない草を踏み固めた跡があります。



ヨイショっと!
数メートル岩を上ります。(年配の方にはおすすめできない傾斜です)



岩の頂上に祠がありました。



読経中の日朗上人のご尊像です。
日朗上人以外の方は海上で行方不明になってしまったわけですから、文字通り奇跡的にこの島に漂着しました。
しかし日が暮れ、頼るあてもない日朗上人は、ここで高らかにお経を読みながら夜を明かしたそうで、これが「経島」の名の由来のようです。



何か岩の上に腰掛けています。



首から提げているのが、赦免状だと思われます。
僕の勝手な解釈ですが、日朗上人がここで読経していたのは、自分の命が助かったことへの感謝というよりも、赦免状が海を越えたことへの感謝を込めた読経だったと思います。



それにしても、師孝第一の日朗上人らしいご尊像を、経島の見晴らしのいい場所に、よくお祀りしたものだと思います。
我々信徒が日朗上人を偲ぶには、これ以上の聖地はありません。

日朗上人と、日朗上人を護って下さった何ものかに感謝をしながら、僕も読経唱題させて頂きました。



自分がどこに漂着したかも恐らくわからない日朗上人、これからどうやってお祖師様のもとへ赦免状を届けるのでしょうか?
季節はまだ雪がばんばん降る3月初め・・・もうひと山ありそうだぞ。