日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

廣布山蓮華寺(青森市本町)

2018-09-26 23:43:06 | 旅行
六老僧・日持上人

日蓮聖人のご入滅後、日本国内の布教は他のお弟子さんに任せ、日蓮聖人の念願だった大陸への広宣流布を目指したお上人です。
(↑画像は函館・実行寺の日持上人像)



先日、北海道を訪問した時には、函館(一乗山実行寺)や


松前(妙光山法華寺)に、その足跡を見ることができました。


その後日持上人は樺太を経て大陸に渡ったと伝えられてはいますが、詳しくは定かでないようです。
ならばどういう経路で北海道までやって来たのかだけでも知りたいな、と思います。



そもそも鎌倉時代、海外はおろか、津軽海峡を渡ることさえ命懸けだったのではないでしょうか。


・・・ということで青森にある日持上人のご霊跡を訪問しました!

青森市内にある蓮華寺です。
日持上人は「蓮華阿闍梨」と呼ばれた方なので、もしかしたら寺名のルーツもそこかな?



山号は廣布山です。
広宣流布に命を捧げた日持上人らしい山号です。



「大乗妙典千部」と刻まれていますね。ご霊跡を巡っていると時々法塔に刻まれているのを目にします。
恐らく法華経を千回、読誦して建立した法塔ではないかと思います。



実はこのお寺、めちゃくちゃ街なかにありまして、夜はネオンがまぶしそうですね!
ちなみに、ねぶた期間中は午後4時閉門なのだそうです。治安上、賢明な判断だと思います。



門前にこんなラーメン店があるのもご愛嬌(笑)




日蓮聖人のご尊像に合掌。



目元に特徴のあるお祖師様です。



本堂です。
蓮華寺はかなり大きいお寺で、青森県の宗門でも中心的な寺院のようですね。
ご首題をお願いしている間、本堂で参拝させて頂きましたが、本当に広い空間でした。



担ぎねぶたが飾られていました!
江戸時代、蓮華寺内の池に住むカエルの一団と、外側の池に住むカエルの一団が、はじめは境内で鳴き声合戦をしていたが、そのうち互いに激高してきて取っ組み合いの合戦が一週間続き、やがて何事もなかったように静けさを取り戻した・・・という「蓮華寺の蛙合戦」伝説を元に、青森工業高校の生徒さんがねぶたを作成し、この夏の祭りで町中を練り歩いたそうです。青森のお寺ならではですね!



1294年、44才になった日持上人は、自房である駿州松野村の蓮永寺で9月に、敢えて1ヶ月早く日蓮聖人の十三回忌を済ませました。



本命日の10月には身延の祖廟に詣で「法華経の広宣流布実践」を宣言し、1295年正月に単身、松野を発ったと言われています。
その後、奥州各地を布教しながら北上してゆきました。



いよいよ本州の北端まで至りましたが、風波が激しく、蝦夷への船が出せる状態ではなかったそうです。
そこで日持上人は津軽海峡に面する善知鳥(うとう)という村に立ち寄ったと伝えられています。



海の荒れはなかなか回復せず、日持上人は数ヶ月間、善知鳥村に滞在し、その間に結んだ庵が現在の蓮華寺のルーツだと言われています。
ちなみに善知鳥村は江戸時代に津軽藩により「青森村」と改められ、以来藩の港町として発展しました。



蓮華寺は大きいお寺にもかかわらず、敷居が低く、我々信徒にとっては参拝しやすい雰囲気があります。
そのせいでしょうか、お寺の行事には多くの壇信徒さん達が集まるようです。立教開宗会には500人以上(!)の参加者がいたそうですよ。



もう一つ、境内に奥州ならではの石碑がありました。
左側、先住民族の供養塔です。


「征夷大将軍」などの役職からもわかるように、古くから朝廷は北方の先住民族を征討してきました。住む地を追われた先住民族達を供養するため、建てられた石塔だと思います。
仮に開基の日持上人が今存在したら、「先住民族も国籍も国境も関係ない、みんなが幸せになるように、もっと大きな目で見ようよ」と仰るでしょうね!
それにしてもなかなかできることじゃありません。頭が下がります。



700年以上も昔に、本気で海外伝道を目論み、実行した日持上人。そのスケールの大きさは計り知れませんが、この蓮華寺全体に流れる雰囲気は、やはり開基の日持上人のマインドに通ずるように思いました。
これからも脈々と受け継がれてゆくことを祈念します。