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日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

妙法華山妙照寺(佐渡市市野沢)

2018-08-28 23:45:16 | 旅行

1272年1月、日蓮聖人は塚原三昧堂で数百人相手に法論対決をし、圧倒しました。
問答が終わり、帰ろうとしている本間重連公を呼び止め、自界叛逆難(幕府の内乱)が近づいていることを示唆しました。



本間重連公は当初信用していませんでしたが、塚原問答の翌月、実際に北条氏一門内で内乱が起きたのです。
あまりに正確な予言の的中を目の当たりにし、本間重連公は日蓮聖人の法力を認めざるを得なかったようです。



塚原問答の3ヶ月後、日蓮聖人の身柄は、塚原から5kmほど西にある一ノ谷(いちのさわ)に移されました。

南に向いた谷戸にはのどかな田園風景が広がっています。



住所表示では「市野沢(いちのさわ)」という表記ですが、お寺の方によると、いろんな事がここから始まる・・・的な意味を込めて、日蓮聖人が数字の「一」を充てたという説があるそうです。



佐渡観世流師範である遠藤家のお墓がありました。
世阿弥が配流された影響で、佐渡では能が非常に盛んです。能舞台もいたる所で目にしました。



一ノ谷妙照寺の寺域に入ったようです。

仁王門です。
昔は朱塗りが美しかったんだろうな、と思います。



仁王門の横には鐘楼


そして仏舎利塔があります。



仁王門をくぐり、参道の木立の中を歩いてゆきます。



広~い寺域を持つお寺ですね!



やっと本堂らしき建物が見えてきたぞ~



山門です。
妙照寺は霊跡本山なんですね。


日蓮宗ポータルサイトによると、霊跡本山は現在、14ケ寺あります。うち2ケ寺(妙照寺、根本寺)が佐渡のお寺です。


山門にはウサギの彫刻がありました。
他寺でもウサギの彫刻を見ましたが、何か由来があるのかな?



本堂です。
とても大きなお堂でありながら茅葺き屋根なんですね!


妙照寺は北側が丘になっており、本堂の屋根をじっくり拝めます。
大量の茅が、キレイに切り揃えられていますね~。



丘から見る境内は風景画のようです。
とても穏やかな気持ちになります。



丘の中腹に、祖師堂があります。
ここに日蓮聖人の御草庵があったといわれています。


お供物の彫刻でしょうか、珍しい大根?かぶ?の彫刻です。


こんなのもありましたよ!何なのかな~



祖師堂の近くに、御井戸があります。


柄杓もあるので、現役の井戸なのでしょう。
日蓮聖人は佐渡で50篇のご遺文を書かれていますが、うち42篇がここ一ノ谷で著されたものだそうです。


お祖師様の代表的著作「観心本尊抄」もその一つです。
「今本時の娑婆世界は・・・」から始まる一節は、お勤めの際によく読むので、とても馴染みがあります。


日蓮聖人は、観心本尊抄の中で「三大秘法」という信仰の根幹をなす部分を著しました。
お題目、ご本尊、戒壇がそれにあたります。

正直僕にはめっちゃ難しい内容なんですが、観心本尊抄がその後の宗門の基礎、座標軸でいうと原点になったことは間違いないようです。
「一ノ谷」の地名の意味が、ここにあるような気がします。



本堂の前に立派な宝塔がありました。
一ノ谷は、お祖師様が大曼荼羅本尊を初めて書かれた場所でもあり、それを讃え、感謝する宝塔だと思います。



本堂内に掲げられている一代記の絵の中に、日蓮聖人がお曼荼羅を書かれている場面がありました。
どのお寺に行っても、小さなお堂にも、また僕の家の仏壇にも、必ずお曼荼羅はお祀りされています。ここから始まったんですね・・・。

それにしても↑の絵では、お祖師様の周囲に法衣を着たお坊さんが沢山座ってますよね!
塚原時代を描いた絵にはなかった光景です。お弟子さんが訪ねて来ることができる状況だったのでしょう。



また一ノ谷の周辺には、日蓮聖人の逸話が残る場所がいくつかあるようです。
軟禁、よりももう少し緩い身柄であったことが想像できます。



歴代お上人の御廟に参拝。



塚原問答を機に帰依を誓った人、塚原問答では半信半疑だったが一ノ谷に訪ねてそこで帰依を誓った人などなど・・・お弟子さん・信徒は徐々に増えていったようです。二祖の日静上人も、元は学乗房という真言僧でした。
日蓮聖人がご赦免・離島後に、日蓮聖人を開山とし、御草庵をお寺にしたのが妙照寺のルーツです。



一ノ谷での生活は、1274年3月に鎌倉から赦免状が届き、終えることとなりました。


約2年間の濃厚な時間で、お祖師様は完全に、その教えを確立し、公表されたのだと思われます。















蓮華王山妙宣寺(佐渡市阿仏房)

2018-08-28 15:08:39 | 旅行
(↑画像は根本寺・三昧堂の額)
塚原の三昧堂に密かに食事を運び、日蓮聖人の命を支えた阿仏房夫妻。
阿仏房夫妻の旧宅は現在の佐渡市役所のほど近く、金井新保という場所にあったと言われています。

阿仏房の死後、息子盛綱が旧宅をお寺に改め、「阿仏房」としたようです。日蓮聖人が身延山に入山して4年後のことです。


この「阿仏房」をルーツにした、阿仏房ゆかりのお寺があります。
妙宣寺です。


駐車場には車が何台も停められており、訪問する信徒や観光客が多いお寺だということがわかります。


昔は門前にお土産屋さんもあったのかな?


大きな法塔がありますね~。


「北陸道七ケ國 法華之大棟梁」とあります。
妙宣寺を創建した日満上人が、師匠である日興上人から頂いた称号のようです。広大な北陸エリアのトップだったんですね!


おぉ~っ!何てクラシックな!!
仁王門です。妙宣寺で最も古い建物らしく、既に350年近くが経過しているそうです。


見事な茅葺きです。メンテナンスが大変なんですよね!ご苦労様です。


参道は緑で日光が遮られ、暑さがいくぶん和らぎます。


妙宣寺には佐渡唯一の五重塔があります。
開山の阿仏房、法号:日得上人をお祀りする五重塔なのだそうです。


お檀家さんでしょうか、五重塔のメンテナンスをしていましたよ。


阿仏房の旧宅にあったお寺「阿仏房」は、二度ほど場所を移転して現在の地に落ち着きました。
ここは地頭本間氏の居城であった雑太(さわた)城があったところで、空堀が残っています。


これも雑太城の石垣の一部と思われます。


山門です。
柱の部分が吹き抜けになっており、境内を見通せます。


扁額には「阿仏房」。
ちなみにこの界隈の現在の住所表示も阿仏房となっており、土地の人に浸透した名前だということがわかります。


日野資朝(すけとも)公の墓があります。
日蓮聖人の時代よりも少し後、後醍醐天皇の時代に、後醍醐天皇と倒幕を企てた罪で佐渡に流され、のちに不当にも処刑された公家の方です。
佐渡は順徳天皇をはじめ公家や上級武士、僧侶、神職、文化人など、幕府に都合の悪い人や時代が早すぎた人が流される島であったことがわかります。


本堂です。
一本一本の柱の太いこと!その堅牢さにご住職やお檀家さんの心意気が窺えます。


祖師堂です。
お祖師様自ら開眼の祖師像がお祀りされ、脇には阿仏房日得上人、千日尼のお像が配されているそうです。
祖師像に日蓮聖人の魂が宿っているとするならば、何て幸せな場所なんだろうとお祖師様も思われているはずです。
僕も何かに包まれるような感覚で、お経を唱えさせて頂きました。


阿仏房が初めて日蓮聖人に出会った(恐らく法論をした)時が83才、日蓮聖人がご赦免後、身延に入山された時が86才の計算になります。
それから三回も(86才、87才、90才の時)身延のお山に日蓮聖人を訪ねて行った、当時の道を歩いて行ったわけです。
想像をはるかに超える信仰の深さに、畏敬の念を感じざるを得ません。


91才で阿仏房日得上人が遷化されたあと、息子盛綱は父のお骨を首に掛け、身延山に納骨に行ったといいます。

日蓮聖人の御廟のすぐ脇、最も近い一画に、阿仏房日得上人の御廟があります。
日蓮聖人を敵視する者だらけの塚原で、味方は誰もいない中、初めて帰依を誓い、命を賭して給仕してくれた老夫婦・・・。
御廟の位置は日蓮聖人の思いそのものでしょう。(↑画像は身延山御廟所)

日蓮聖人が身延に入られてすぐに、順徳天皇に縁のある甲州のお寺を教化したのも、阿仏房夫妻への恩返しなのかもしれません。
(↑画像は甲斐・常説寺)


夕空にそびえる五重塔。

阿仏房夫妻を思いながら、合掌しました。