日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

龍水山海長寺(静岡市清水区村松)

2018-08-02 13:43:15 | 旅行
霊峰・富士山を囲む山梨県、静岡県には、750以上もの日蓮宗寺院・教会・結社があります。
この二県にまたがった「山静教区」には、総本山・身延山久遠寺のほか、本山が15ケ寺もあるのだそうです。

僕が本格的にご霊跡めぐりを始めてから2年近くが経過しますが、山静教区の15本山のうち12ケ寺は訪問し、既にブログで紹介してきました。

今回、残り3ケ寺のうちの海長寺を訪問する機会がありましたので、レポします!


静岡県清水区の、有渡山の東麓に海長寺はあります。
海長寺は「由緒寺院」なんですね!


山門です。
当日は折からの猛暑・酷暑の最中だったので、日差しを遮る屋根がありがたく思えます。


山号は「龍水山」です。
緑の文字が爽やかです。


まずは日蓮聖人のご尊像に合掌。


光の加減でしょうか、僕には何となくお祖師様が微笑んでいるように見えました。


本堂です。
8月の日差しをいっぱい浴びた屋根が、まぶしく映ります。
本堂内には日蓮聖人自らが開眼されたご尊像が奉安されています。日蓮聖人のお近くで仕えた日法上人刻と伝えられ、恐らく実際のお姿にとても近いご尊像だと思われます。


シャチホコじゃないよな・・・靴のようにも見えるけど。
何か意味のあるものなのでしょう。


歴代お上人の御廟に参拝。
歴史の古いお寺だけに、墓石も沢山ありました。


開山は治部阿闍梨日位上人です。


日位上人は、やはり本山である青龍山本覚寺も開創している方で、日蓮聖人ご存命中は、聖人によくお仕えしたと聞きます。

海長寺は本覚寺から直線距離で5kmほどでしょうか、有渡山を挟んでいますが至近にあります。
もともと天台宗のお寺でしたが、日位上人が当時の住職を教化し改宗、龍水山海上寺と寺号を改めたそうです。
(「海長寺」に改称するのは江戸時代になってからだそうですよ!)


墓碑には69世(!)のお上人までが刻まれていました。
海長寺では世襲制は禁じられているそうで、10年ごとに貫首様が交代するそうです。
対応して下さった海長寺のお上人(笑顔の絶えない方でした!)によると、現貫首様は71世なのだそうです。
だから71世=710年以上で計算が合います!

そして実は70世を務められたお上人は・・・
大本山・池上本門寺の現貫首様(83世)の菅野日彰師です。
実は以前、宗務所主催の団参で本門寺を訪問した際、法話を下さったのが菅野師でした。
柔らかい口調に聞き惚れてしまう、印象的なお上人でした!


海長寺の境内を歩いていて気付くのは、堂々と「三つ葉葵」紋を掲げていることです。


それも屋根瓦とかにもことごとく三つ葉葵!まるで寺紋のように!!


本堂横に「御朱印の椿」がありました。
その昔、海長寺の寺域には1000本以上の椿の林があったといいます。
徳川家康公が武田軍に猛追され、椿の巨木に身を隠しました。武田の追手が当時の住職に家康公の居場所を聞いたところ、住職は「知らない」と突っぱねたそうです。それこそ血眼になって探す荒武士達からの尋問ですからね、住職も命懸けだったことでしょう。


住職の機転のおかげで一命を取り留めた家康公はのちに天下を統一し、海長寺に対し朱印を与えるなど外護したといいます。


このソテツも徳川家からの奉納なのだそうですよ!

そんなわけで、海長寺と徳川家のご縁は深く、以来、三つ葉葵を寺紋として堂々と掲げているそうです。


しかし太平洋戦争末期、至近に日立の軍需工場のあった清水は、米軍の空襲や艦砲射撃にさらされ、海長寺もこの鐘楼と宝蔵以外は全焼してしまったそうです。
なので現在の本堂他の建物は戦後に建てられたもののようです。


ソテツ、椿とともに海長寺のシンボルになっているのがこの大クスノキです。
樹齢何百年にもなるんでしょうね、太平洋戦争も、戦国時代も、人々を見てきた大木だと思います。
もうこれ以上、争いごとがなくなるように、クスノキにも手を合わせてきました。


「命の危険もある」今年の夏の暑さ、そこだけオアシスのようでしたよ!