うだるような暑さの8月初旬、以前から行ってみたかった東京堀之内の妙法寺を訪問することができました!
丸ノ内線の新高円寺駅から歩いたので、山門とは反対側からのアクセスになりました。
妙法寺の境内は広い広い!
延々と壁が続きます。
まだ?まだ?
シャツは汗びっしょりです~!
へ~、宗立の学寮もあるんですね!
お坊さんを養成する場所でもあるようです。
妙法寺の正面にやっと到着~!
お寺を囲む石の柵(玉垣、でいいのでしょうか?)には浅草や深川など、江戸の町衆の名前が刻まれています。
「厄除日蓮大菩薩安置」と刻まれています。
お祖師様自らが開眼された祖師像が奉安されているようです。
今月の行事予定がありました。
妙法寺では「3」が着く日が縁日のようですね!
山門です。
18世紀に建立された、存在感のある建築です。
左右に仁王様が配されています。もともと江戸城鎮護の赤坂日枝神社にあったそうですが、神仏分離の影響でしょうか、明治元年に妙法寺に遷座されたといいます。
山門をくぐると、正面に祖師堂があります。
まずは祖師堂に参拝し、ご首題をお願いしました。
江戸時代から庶民の法華信仰のシンボルとなってきた「堀之内のお祖師様」である厄除け祖師像は、この祖師堂に安置されているそうです。
厄除け祖師像は日蓮聖人の伊豆法難にまつわるご尊像なのだそうです。
日蓮聖人を乗せた船が波間に消えた後も毎日、日朗上人は由比ヶ浜で日蓮聖人の無事を祈念していたそうです。
そんなある夜、由比ヶ浜で祈念していた日朗上人のもとに光る霊木が流れ着きました。
日朗上人はこの霊木に聖人のお姿を刻み、以後ご尊像にお仕えしました。
日朗上人の祈りが通じたのでしょう、1263年2月、配流が赦免となった日蓮聖人は無事鎌倉へ帰られ、ご尊像を自ら開眼して魂を込められたそうです。
この時、聖人は数えで42歳の厄年であったことから、ご尊像は「厄除け祖師」と呼ばれ、のちに庶民の信仰を集めることになったそうです。
他寺に奉安されていた厄除け祖師像が妙法寺に遷座されたのは江戸時代になってからで、祖師堂は江戸時代の後期になってからの建立のようです。
お祖師様の42歳の厄年にちなみ、祖師堂は42本の欅の柱からなっているそうですよ!
祖師堂の扁額は「感應法閣」とあります。
「感應(感応)」は仏教用語でもあるようで、仏様の人への働きかけ、またそれを受け止める人の心を「感應(感応)」というそうです。
(↑画像は横浜・金沢八景の安立寺祖師堂の扁額)
以前訪問した横浜・金沢八景の安立寺で初めて「感應(感応)」の意味に触れ、自分の中での大切な言葉になりました。
祖師堂に限らず、我々信徒がお寺に参拝したり、毎日お勤めすることそのものが、お祖師様、そしてお釈迦様との感應(感応)なのだと信じています。
妙法寺の各堂宇は渡り廊下で連絡されているので、いちいち靴を脱ぎ履きする必要がありません。
本堂です。
寄棟造りのスッキリとしたシルエットです。
本堂は別名三軌堂というそうです。
「三軌」は法師品第十の後半で説かれているもので、法華経を信じ説く人は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に座って説きなさい、という心掛けのことだそうです。
正直、何のことだかトンチンカンですが、将来少しでもその意味を理解できたら嬉しいです。
歴代お上人の御廟に参拝。
松の木が作り出す日陰が、とても柔らかな雰囲気を醸し出しています。
開山は妙仙院日圓上人、女性のお坊さんだったようです。
もともとこのお寺は真言宗の尼寺であったそうなのです。
その息子である覚仙院日逕上人は、お母様の菩提のためにお寺を法華に改宗し、お母様を開山、自身は二祖となったそうです。
山号の「日圓山」も、日圓上人の法名が由来のようですね!
二十三夜堂です。
月は周期的に、形や出る時間も変化してゆきますが、昔はこれに対する興味、怖れが強かったようで、「月待ち信仰」というものがあったそうです。
明治時代に太陽暦に変わるまで、暦は月の周期に従っていました。毎月23日の月は真夜中に昇っていたようで、みんなで集まって話をしたり、食事をしながら、月を待っていたようです。
太陽暦になった現在もその名残りで、妙法寺では23日を縁日としているようですよ。
妙法寺の建築物の中で異彩を放つのがこの門
鉄門です。
日本近代建築学の恩師といわれるイギリス人、ジョサイア・コンドル博士の設計といわれています。
洋風の部分と
和風、仏教的な部分を併せ持つ鉄門で、色遣いもビビッドです。
コンドル博士のお弟子さんには、東京駅や日銀本店を設計した辰野金吾博士もいます。
辰野金吾博士は、東郷平八郎元帥に影響を受けた、法華経の篤信者であったことで有名です。
今後その足跡を追ってみたい偉人の一人です。
いや~、堀之内の妙法寺、見どころ多過ぎでおなかいっぱい!
この他に古い石碑や絵馬なども、境内至る所にあり、ひとつひとつ刻まれてる文字を読んでいったら相当な時間が必要だと思いました。
現代に生きる我々信徒の想像をはるかに超える、江戸法華の一大拠点。
法華信仰が確実に庶民のものになっていたんだという片鱗が見て取れました。
また近いうちに伺います!