Moments musicaux

ピアニスト・指揮者、内藤 晃の最新情報です。日々、楽興の時(Moments musicaux)を生きてます。

意味がなければスイングはない

2008年12月14日 | レビュー
村上春樹の音楽エッセイ『意味がなければスイングはない』がようやく文庫化された(文春文庫)。
村上春樹は一時期ジャズ喫茶を営んでいたという経歴の持ち主だが、その音楽に対する造詣の深さは、小説のさまざまな場面のBGMとして登場する音楽の記述でお馴染みである。ジャズ、ロック、クラシックと、ジャンルを問わず幅広く聴き込んでいる。
音楽を言語化することの困難さについて、「感じたことをいったん崩し、ばらばらにし、それを別の観点から再構築することによってしか、感覚の骨幹は伝達できない」(p.331)と村上は言うが、このエッセイ集は、村上ならではの絶妙のメタファーが音楽評論の新しい可能性を拓いた、画期的な文章の数々と言ってよいと思う。個人的な体験を交えつつ、さまざまな音楽家の人生と音楽が、愛情をこめて綴られていく。
この本の読者は、ぼくと同じように、ここで取り上げられている音楽家たちの音楽を聴いてみたくなるに違いない。そして、その出会いはいずれもかけがえのないものになるはずだ。以下、ほんの一部だが、YouTubeの試聴リンクとともに引用させていただく。


「容れ物の縁からひたひたと水がこぼれ落ちていくような、そのひそやかな美しさ」(p.59)

Brian Wilson / Surf's Up




「彼の音楽は、そのカタストロフ憧憬っぽい抑圧的な「気分」を、白昼堂々と遵法枠内でスマートに内燃させていくのである」(p.249)

スガシカオ / 月とナイフ



ぼくは、ここに収められた村上のシューベルト論が大好きだ。音楽についての文章を読んで、ここまで強く共感をかきたてられたのは久しぶりである。

「でもなにはともあれ、僕はシューベルトのピアノ・ソナタが個人的に好きだ。(中略)どうしてかとあらためて質問されると簡単には答えにくいのだが、結局のところ、シューベルトのピアノ・ソナタの持つ「冗長さ」や「まとまりのなさ」や「はた迷惑さ」が、今の僕の心に馴染むからかもしれない。そこにある世界の内側に向かって自然に、個人的に、足を踏み入れていくことができる。音を素手ですくい上げて、そこから自分なりの音楽的情景を、気の向くままに描いていける。そのような、融通無碍な世界が、そこにはあるのだ。」(p.70-71)


このシューベルトに関する文章(「ソフトな混沌の今日性」)の終わりの部分が素晴らしい名文。ぼくは、これほどまで絶妙に、音楽を聴くという行為の本質を言い表した文章をほかに知らない。脱帽である。

「思うのだけれど、クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評価とは合致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。そしてシューベルトのニ長調ソナタは、僕にとってのそのような大事な「個人的引き出し」であり、僕はその音楽を通して、長い年月のあいだに、○○○、○○○○といったピアニストたち(実際に本文をご覧ください)がそれぞれに紡ぎだす優れた音楽世界に巡りあってくることができた。当たり前のことだけれど、それはほかの誰の体験でもない、僕の体験なのだ。
 そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第3惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。」(p.90-91)


この本は、村上ファンならずとも、音楽を愛する人たちの必読書だと思う。音楽を文章で表現するということの新たな可能性がここに示されている。

意味がなければスイングはない (文春文庫)意味がなければスイングはない (文春文庫)
村上 春樹

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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
音楽論としては出色の出来だと思います (yoshimi)
2008-12-15 11:18:20
こんにちは

とうとう文庫化したんですね。情報ありがとうございます。すぐに買いに行かなければ。

以前図書館で読んで、ゼルキンとルービンシュタインのお話が面白く、それからゼルキンのピアノを聴き始めたという思い出の本です。CDをほとんど入手した上に、本の中で紹介されていたゼルキンの洋書の自伝まで買ってしまいました。

村上春樹は20年くらい前から読んでいますが、ダンス・ダンス・ダンス以来ご無沙汰しています。でも、彼の評論だけはいつ読んでも面白く、独特の比喩で物事の本質を別の角度から見せてくれる鮮やかさが素晴らしいです。

シューベルトはあまり聴かないのですが、ロシアの2人(リヒテルとギレリス)が弾くシューベルトに関する文章が面白かったのを覚えています。リヒテルはともかく、ギレリスのシューベルトは聴かない方が良さそうだと思ったものです。
私も「自分の引き出し」をもっと充実させたいと思います。
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