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あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

黒田清輝

2021-07-15 | 人物忌


(平河町二丁目)

 

7月15日は 
洋画家 黒田清輝が亡くなった日

 

その住居跡が千代田区平河町2丁目の

都道府県会館前にある。

説明文には

 

「黒田清輝ここに住む」

重要文化財の「湖畔」や
「智・感・情」などの作品を
描いた明治・大正期の洋画家。
この年、これらの絵画をパリ博に出品し
銀賞を受賞した。

黒田 清輝は日本の洋画家 政治家
名の清輝「きよてる」、画名は「せいき」。

明治中期初めて日本に印象派系絵画を移入し
かつ美術教育兼行政家として活躍した。

1866(慶応2)年
 鹿児島市に生まれる。 幼名新太郎。
 伯父清綱の養嗣子に
1872(M5)年 上京
1884年 
 法律研究のためフランスに留学
 アカデミー・コラロッシの
 ラファエル・コラン教室に入り
 画学をも修業するが
 やがて
 井上哲次郎(1856-1944)にさとされ
 法律学校を退いて画家の道へ。

1893年春
 ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールに
「朝妝(ちょうしょう)」を出品し 夏帰国する。

1894年
 久米桂一郎(1866-1934)と
 天真道場を設けて後進の指導に
 あたるほか 日清戦争に従軍

1896年 
 東京美術学校に新設された
 西洋画科の主任となり
 本格的なフランス式の美術教育を
 開始するとともに
 同志たち白馬会を創立し
 洋画研究所をも設立。

 日本に初めて明るい印象派系の
 絵画を移入し  洋画界の
 近代化を大いに推進した。

1900~01年(M33~34)
 ふたたび渡仏し
 パリ万国博覧会に出品した
 「智・感・情」は銀賞を受けた。

 内外の博覧会審査官、文展審査員を務めた。
1910年 
 洋画家として最初の帝室技芸員
1913(T2)年
 創設の国民美術協会会頭
1917年 
 養父の死去に伴って子爵を継ぐ
1920年
 貴族院議員に当選
 概して晩年は美術行政の
 分野で大いに活躍した。

1922年
 森鴎外(1862-1922)の後を
 受けて第2代帝国美術院院長に就任

 フランス政府から
 レジオン・ドヌール勲章ほかを受けた。

1924(T13)年7月15日没

代表作
「読書」   (1892)
「舞妓」(1893・重要文化財)
「湖畔」(1897・重要文化財)
などがある。

 


 (Web資料から)

なお  作品「湖畔」 のモデルは芸者で
当時23歳の金子種子。
のちに清輝の妻となり照子と改名した。
描かれた場所は 箱根芦ノ湖。

 


哲学者 串田孫一

2021-07-08 | 人物忌


7月8日は
 哲学者 串田孫一が亡くなった日。


串田孫一の旧居跡が
 千代田区三番町にある。


説明文には

哲学者・串田孫一(1915~2005)は
人生、山、植物などのテーマで
エッセイなどを残した。

昭和13年(1938)から数年間ここに住んだ。

 

串田は

1915(T4)年
 東京市芝区生まれる。

 駿河台や永田町や一番町に育つ。
1935(S10)年
 東京高等学校(旧制)文科丙類卒業

1938(S13)年 
 東京帝国大学文学部哲学科卒

 中学時代から登山を始めた。
1938)S13)年
 処女短編集「白椿」を刊行、
 戦前は上智大学で教鞭をとる。

1946(S21)年
 「永遠の沈黙 パスカル小論」を上梓
 「歴程」同人となる。

 旧制東京高等学校で教鞭をとる。
1955(S30)年 
 最初の山の本「若き日の山」を上梓

1958(S33)年 
 尾崎喜八(1892-1974)らと
 山の文芸誌」アルプ」を創刊
   1983(S58)年に終刊するまで
   責任編集者を務めた。

   また矢内原伊作(1918-1989)や
   宇佐見英治(1918-2002)らが

   創刊した文芸誌「同時代」にも
   同人として参加。 
  東京外国語大学教授(~1965・S40年)
1965(S40)年~1994(H6))年
 FMラジオ番組「音楽の絵本」で
 パーソナリティを務めた。

 初見靖一の筆名をもつ。
1980(S55)年
 紫綬褒章受章
2005(H17)年 
 老衰のため東京都小金井市の
 自宅にて死去 89歳


著作は 山岳文学、画集、小説、
人生論、哲学書、翻訳など多岐にわたる。


・詩集「羊飼の時計」(1953)

・山にまつわる思想、思索などを
 平易な文章で綴った
 随想集「山のパンセ」
 (1957)などが主著。


*「パンセ」は
フランスの哲学者パスカルの遺稿集。
「瞑想録」ともいう1670年刊。
人間性のもつ矛盾を鋭く指摘し
その唯一の解決を
キリスト教のうちに求めた作品。

特に“人間は考える葦である”の言葉が有名

 


実業家 小倉昌男

2021-06-30 | 人物忌


 (BS朝日 昭和偉人伝から)

 

6月30日は 
実業家 小倉昌男が亡くなった日

小倉昌男は  ヤマト運輸の
「クロネコヤマトの宅急便」
の生みの親
ヤマト福祉財団理事長

小倉は
1924(T13)年 
 大和運輸(T8年創業)の
   社長小倉康臣の次男として
   東京・代々木に生まれる。

1942(S17)年 
 東京高等学校高等科卒業
1947(S22)年
 東京大学経済学部(旧制)卒業
1948(S23)年
 大和運輸に入社
1971(S46)年
 康臣の後を継いで
   代表取締役社長
1975(S50)年
「宅急便開発要項」を社内発表する。
  基本的な考え方として
  ①需要者の立場になってものを考える
  ②永続的・発展的システムとして捉える
  ③他より優れ、かつ均一的なサービスを保つ
  ④不特定多数の荷主または貨物を対象とする
  ⑤徹底した合理化を図る

  この宅急便の原点「5箇条」を
  もとに新商品開発を進めた。
1976(S51)年
 オイルショック後に低迷していた
    大和運輸の業績回復のため


    ・電話1本で集荷
    ・1個でも  家庭へ集荷
 ・翌日配達
   ・運賃は安くて明瞭
 ・荷造りが簡単   

 の
コンセプトの“宅急便”の名称で
   民間初の個人向け
  小口貨物配送サービスを始める。


  (BS朝日 昭和偉人伝から)


  サービス開始当時は
  関東地方のみだったが

  その後 配送網を全国に拡大し
  ヤマト運輸(1982年に商号変更)が
  中小の会社から
売上高一兆円の
  大手運輸会社に発展する基礎を築く。

1987(S62)年
 代表取締役会長
1991(H3)年
 代表取締役相談役
1993(H5)年
 名誉会長
1995(H7)年
 退任後
  ヤマト福祉財団理事長として

 障害者が自立して
  働く場所作りに取り組んだ。

2005(H17)年
 アメリカ・ロサンゼルスの
長女宅で死去 
 享年80

 

ちなみに 現在 
創業・小倉家は
現・ヤマト運輸とは
無関係になっている。

 


 当方コレクション

 

 


博物学者 田中芳男

2021-06-22 | 人物忌


 谷中霊園の田中芳男の墓

 


 6月22日は 幕末-明治時代の博物学者
 田中芳男が亡くなった日

「日本の博物館の父」とも呼ばれる。

その田中芳男の墓が谷中霊園にある。

説明文には

「幕末から明治期の
博物・物産学舎、農務官僚。

天保九年(1838)、
信濃国飯田(現、長野県飯田市)に
医師田中隆三(如水)の
三男として生まれる。

安政四年(1857)、
伊藤圭介(1803-1901)に入門、
ここで医学・蘭学・本草学を学ぶ。

文久元年(1861)
芳男は圭介に従い、
幕府の洋学研究機関「番所調所」の
一施設「物産所」勤務のため江戸に出る。

慶応三年(1867)、
パリ万国博覧会に赴き、
ジャルダン・デ・プラント
(フランス国立自然博物)を
日本の自然史博物館の理想とした。

明治三年、芳男は、
町田久成とともに大学南校に
開局した物産局
(文部省博物局の前身)で働く。

ここで我が国の博物館創設のために尽力し、
後の東京国立博物館、国立科学博物館、
東京都恩賜上野動物園の基盤を築いた。

明治4年、芳男の主唱により
招魂社(靖国神社)で
開かれた「大学南校物産会」は、
近代博覧会の嚆矢として画期的な事業である。

また芳男は、明治六年と九年には、
明治政府からウィーンと
フィラデルフアの万国博覧会に派遣され、
日本と西洋との文化交流にも
大きな役割を果たした。

明治十五年の上野博物館開館の後、
芳男は博覧会事業の重きを置き、
日本初の産業博物館、神宮農業館の創設、
また農会・水産会・山林会の会頭を
務めるなど農林水産業の振興に貢献した。

大正四年、男爵を授けられ、
翌五年六月二十二日、本郷の自宅で没する。

享年七十七歳。

墓石の正面に
「従二位勲一等男爵田中芳男墓」とあり、
裏面に略歴が刻まれる。

田中芳男墓は、平成9年台東区史跡として
台東区民文化財台帳に登録された。

 平成12年3月 台東区教育委員会  」

とある。

 

*伊藤圭介(1803-1901)
  尾張国名古屋出身 日本初の理学博士
*町田久成(1838-1897)
  薩摩藩士

1867(慶應3)年 パリ万博に赴き
出品用の昆虫採集から現地での
展示業務までを幕府の命により遂行した。

この経験が総合研究施設としての
博物館を理想とするようになる。


またこの時収集した様々な印刷物を
貼り込んで作成した
「外国捃拾帖(くんしゅうじょう)」も

他に類を見ない貴重な資料になっている。




小説 「津軽」

2021-06-17 | 人物忌


 (日本経済新聞 2003/08/16)


 小説「津軽」の像(北津軽郡中泊町小泊砂山)


前回 太宰治の津軽時代の20年に触れたが

太宰は 戦時下の
1944(S19)年5月12日から6月5日まで
故郷津軽を旅し
38年の生涯で唯一となった
その足跡とともに

自分自身を見つめ直した
小説「津軽」を発表している。


この自伝的小説「津軽」には 
太宰の人間性等が垣間見られ

特に 越野たけ(1898-1983)と
30年ぶりに会う小泊の場面だ

 

以下 小説「津軽」 から引用

 

「ここには、私の叔母がゐる。
幼少の頃、私は生みの母よりも、
この叔母を慕つてゐたので、
実にしばしばこの五所川原の
叔母の家へ遊びに来た。

私は、中学校にはひるまでは、
この五所川原と金木と、二つの町の他は、
津軽の町に就いて、
ほとんど何も知らなかつたと言つてよい。」


「私はこの時、生れてはじめて
心の平和を体験したと言つてもよい。
先年なくなつた私の生みの母は、
気品高くおだやかな立派な母であつたが、
このやうな不思議な安堵感を
私に与へてはくれなかつた。
世の中の母といふものは、皆、
その子にこのやうな甘い放心の憩ひを
与へてやつてゐるものなのだらうか。
さうだつたら、これは、何を置いても
親孝行をしたくなるにきまつてゐる。
そんな有難い母といふものがありながら、
病気になつたり、なまけたりして
ゐるやつの気が知れない。
親孝行は自然の情だ。
倫理ではなかつた。」

また

「私はたけの、そのやうに強くて
不遠慮な愛情のあらはし方に接して、
ああ、私は、
たけに似てゐるのだと思つた。

きやうだい中で、私ひとり、粗野で、
がらつぱちのところがあるのは、
この悲しい育ての親の影響
だつたといふ事に気附いた。

私は、この時はじめて、
私の育ちの本質をはつきり知らされた。

私は断じて、上品な育ちの男ではない。

だうりで、金持ちの
子供らしくないところがあつた。

見よ、私の忘れ得ぬ人は、
青森に於けるT君であり、

五所川原に於ける中畑さんであり、
金木に於けるアヤであり、
さうして小泊に於けるたけである。」

 

*生母・太宰夕子(たね・1973-1942)

 

 


小説家 太宰治 桜桃忌

2021-06-13 | 人物忌




 (金木町太宰治記念館)

 

 6月13日は 
 小説家 太宰治が亡くなった桜桃忌

1948(S23)年6月13日
 玉川上水で愛人の山崎富栄と入水心中
  満38歳であった。


 太宰治の育った 20年間
 津軽時代にスポットを当ててみる。

1909(M42)年6月19日
   青森県北津軽郡金木村
(後の金五所川原市五所川原市)に
 父津島源右衛門と母たね(夕子)の
 六男として生まれる。
 
   父・源右衛門は県会議員、衆議院議員、

 多額納税による貴族院議員などを務めた
 地元の名士で、津島家は
 「金木の殿様」とも呼ばれた。
 母は病弱だったため、
 生まれてすぐ乳母に育てられた。 
 3歳から小学校入学までは
 14歳の女中・ 近村たけ
 が子守りを務めた。
1916(T5)年
 金木第一尋常小学校に入学
 成績も良く、開校以来の
 秀才と言われていたという。
 小学校卒業後、1年間 明治高等小学校に通学
1923(T12)年3月4日
 父が肺がんで死去

 4月 青森県立青森中学校に入学
 実家を離れて下宿生活を送る。
 成績優秀で1年の2学期から
 卒業まで級長を務めた。
 このころ小説家を志望するようになる。

1927(S2)年
 旧制弘前高等学校文科甲類に入学
 全寮制であったが、母の考えもあって、
 病弱と偽り下宿生活をしていた。
7月24日
 芥川竜之介の自殺を知り衝撃を受ける。

1928(S3)年 
 同人誌「細胞文芸」を発行すると
 辻島衆名義で当時流行の
 プロレタリア文学の
 影響を受けた「無限奈落」を
 発表するが、連載は1回で終了
 この頃、芸者の小山初代
 (1912-1944)と知り合う。
1929(S4)年
 弘高で起きた同盟休校事件を
 モデルに「学生群」を執筆、
 改造社の懸賞小説に応募するが落選
12月10日 カルモチン自殺を図り、
 母たねの付き添いで
 大鰐温泉で1月7日まで静養
1930(S5)年 
 弘前高等学校文科甲類を
 76名中46番の成績で卒業
 東京帝国大学文学部仏文学科に
 入学のため上京する。

 


中村不折と正岡子規

2021-06-10 | 人物忌


「子規庵」(台東区根岸2-5-11)

 

前回 中村不折と正岡子規との
出会について触れた。

その関係は物理的にも近く
書道博物館前には
子規の私宅「子規庵」がある。

不折は、酒も飲まず煙草も吸わず
粗衣粗食に耐え 
質素を旨として金を貯めて

子規宅の近くにアトリエ兼住居を構えた。

*子規庵については
当ブログで取り上げた→(2016/9/19)

 

子規との出会いは

1894(M27)年
「小日本」の編集責任者であった子規は

同紙に描いてくれる
挿絵画家を探していたが

美術教授 浅井忠から
洋画家 中村不折を紹介され 

不折と面談し採用を決定した。

その後 両者は親しくなり
芸術論を戦わせるため

互いの家を通い合う間柄になる。

子規は「写生」によって
俳句短歌の革新を成し遂げるが

不折の存在は大きく関わりをもった。

「写生は画家の語を借りたるなり」

(明治32年「叙事文」)と述べ、
不折の西洋画論からヒントを得て
写生(写実)の用語を得ている。

 

 

 「吾輩ハ猫デアル」挿絵

 

不折は「日本」新聞の挿画を
きっかけとして大きく羽ばたく。

明治の文豪たちとの親交も深く
装幀・挿絵も手がけている。


夏目漱石「吾輩ハ猫デアル」

島崎藤村「若菜集」
伊藤左千夫「野菊の墓」

森鷗外が逝去したときは
墓碑銘を揮毫している。

 

 

  


また 印象的で
一風変わった不折の書は

そのデザイン性の高さと
親しみやすさから

店名や商品名のロゴに
用いられることが多くある。


1901年創業の
「新宿中村屋」の看板文字

 清酒「真澄」や「日本盛」のラベル
「信州一味噌」「筆匠平安堂」などがある。

 

 (作品写真は ウェブサイトから)

 

 

 


洋画家・書道家 中村不折

2021-06-06 | 人物忌


中村不折旧宅(書道博物館・台東区根岸2-10)

6月6日は 洋画家 書道家
 中村不折が亡くなった日


中村の旧宅跡が現在
台東区根岸に

「台東区立書道博物館
 ・中村不折記念館」としてある。

説明文には

「 中村不折は、明治・大正
・昭和初期の洋画家で書家であり、

慶應2年(1866)7月10日
江戸八丁堀に生まれた。

幼名を鈼太郎という。
少年年時代を長野で過し
明治20年(1887)上京し、浅井忠や
小山正太郎鈼に師事し、
明治美術会に出品するほか、
「小日本」新聞の挿絵なども担当していた。

明治34年(1901)から4年間
フランスに留学し、
ラファエル・コランやジャン
=ポール・ローランスの教えを受けた。

帰国後は、
太平洋画会や帝国美術院の
会員として展覧会活動を行う一方、

太平洋美術学校校長として
後進の育成にも力を入れ、

多くの逸材を育て
美術教育にも貢献した。


書道界では、書家としての活動の他に
書道博物館の創設者としても知られている。

昭和11年(1936)11月3日に
開館した書道博物館は、
中国と日本の書道史研究上重要な
コレクションを有する専門博物館で、
重要文化財12点、重要美術品5点を含む
1万6千点が収蔵されている。

昭和20年(1945)4月の空襲で
中村邸の居宅と蔵は焼失してしまったが、
博物館とその収蔵資料および
不折の胸像や石燈籠などは焼失を免れた。

不折は大正2年(1913)から
亡くなるまえまでの30年間、
この根岸の地に住んだ。

昭和18年(1943)6月6日 
78歳で死去、多磨霊園に葬られた。

 平成13年3月31日設置 
  東京都教育委員会 」

 

 

中村不折は

1866(慶応2)年
 江戸・京橋八丁堀
(現:中央区湊)に生まれる。

1870 (M3) 年
 明治維新の混乱を避け
 父の郷里の長野県高遠(現・伊那市)へ
 幼少より絵を好む。
1885(M17)年
 北原安定に漢籍、
 真壁雲卿に南画、白鳥拙庵に書を学ぶ。

 西高遠学校授業生(代用教員)となる。
1887 (M20) 年 
 教師時代3年間の貯蓄を持って上京
 高橋是清の館に住み込みながら
 画塾「不同舎」に入門。

 小山正太郞に師事し絵を学んだ。
1890 (M23) 年
 第2回明治美術会展覧会に
 水彩画3点を出品

1891 (M24) 年
 油彩画を始め、現存する最初の
 作例「自画像」を制作
1893(M26)年
 第5回明治美術会展覧会に
「憐れむべし自宅の写生」ほか出品
1894 (M27) 年 
 正岡子規に出会う
 日本新聞社の新聞「日本」の記者となり
 新聞「小日本」の挿絵を担当
 「小日本」126号に俳句が掲載され
 初めて「不折」の名を使用
1895(M28)年
 正岡子規とともに日清戦争に従軍し
 中国に渡り 書に興味を持つ。
1896(M29)年
 堀場いとと結婚
 日本新聞社に入社し挿絵を担当
1899(M32)年 
 第10回明治美術展覧会に
「淡煙」「紅葉村」を出品
1900 (M33) 年
「紅葉村」が
 パリ万国博覧会で褒賞を受賞

1901(M34)年
 4年間フランス留学
1908(M41)年 
 “不折流”のデビュー作「龍眠帖」は
 書道界に一大センセーションを巻き起す。
1913 (T2) 年 
 下谷区中根岸31番地に画室を新築
1936(S11)年 
 書道博物館開館
1943 (S18) 年 
 6月6日 死去 享年78

 


 「龍眠帖」(ウェブサイトから)

 

*「龍眠帖」は 
療養中リハビリの
一環として書かれたもの。

その詩は 蘇轍が龍眠山の二十の場景を
それぞれ五言絶句で詠み
計二十首からなる。

河東碧梧桐に勧められ
出版し売れきれとなるなど

当時の書道界の大きな話題となった。

 

 

 


小栗上野介

2021-05-27 | 人物忌

  小栗上野介邸跡(千代田区神田駿河台1)

5月27日は 
徳川幕臣 小栗上野介 が亡くなった日

説明文には

「1827(文政10)年
 小栗上野介ここに生まれる

  この地に生まれ育った
 小栗上野介(1827~1868)は、
 幕末の外交・財政政策をリードし、
 横須賀に大造船所を建設して
 わが国の造船業が
 近代化する道を開いた。」とある。


小栗忠順(ただまさ・上野介)は
江戸時代末期の幕臣、
勘定奉行、江戸町奉行、
外国奉行を歴任した。

1827(文政10)年
 旗本小栗忠高の子として
 江戸駿河台に生まれる。
 通称 又一
1859(安政6)年
 従五位下豊後守に叙任
1863(文久3)年
 上野介と改名
1860(安政7)年(33歳)
 日米修好通称条約批准のため
 米艦ポーハタン号で渡米する。

 フィラデルフィアの造幣局では
 アメリカに有利だった通貨の
 交換比率を改めることを
 アメリカ側に訴え
 通貨の含有量の全量分析を拒む
 アメリカに対し、
 小栗は「NO」と主張する。
 この時の毅然とした態度が
 アメリカ側に評価が一躍高まる。

帰国後は 多くの奉行を務め
 江戸幕府の財政再建や
 フランス公使
 レオン・ロッシュに依頼しての
 洋式軍隊の整備
 横須賀製鉄所の建設などを行う。
1865(慶応元)年
 徳川家茂が造船所の建設を許可
 横須賀の地に造船所を完成

 マストやロープの工場、さらに
 技術を教える学校までも整え 
 造船所にとどまらない
 総合施設を建設した。
 また 西洋式の労務管理
 マネジメント制を採用し
 現代の会社経営の基礎となる
 概念を導入する。
1867(慶応3)年
 日本最初の株式会社「兵庫商社」を設立
 株式会社の制度を使い水洗トイレを
 装備した「築地ホテル」も建設している。
1868(慶応4)年 
 横須賀製鉄所は 新政府に引き継がれる。
 徳川慶喜の恭順に反対し
 薩長への主戦論を唱えるも容れられず。
1868(慶応4)年
 罷免されて 領地である
 上野国群馬郡権田村
(群馬県高崎市倉渕町)に隠遁
同年閏4月
 薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ
 自身の養子をその証人として
 差し出したが 逮捕され
 翌日 5月27日 斬首。

逮捕の理由としては
大砲2門 小銃20挺の所持と
農兵の訓練が理由であるとする説や

勘定奉行時代に徳川家の大金を
隠蔽したという説などが挙げられるが

これらの説を裏付ける根拠は
現在まで出てきていない。

その後 小栗は見直され
幕府側から近代化政策を
行った人として評価されている。

・大隈重信は
「小栗は謀殺にされる運命にあった。
   なぜなら明治の近代化はほとんど
   小栗の構想の模倣にすぎない。」と

・大村益次郎は
「もし 策(新政府への徹底抗戦)が
 実行されていれば
 我々は全滅していたであろう。」と

・東郷平八郎は
「小栗が横須賀造船所を
 建設していなければ
 今回の海戦(日露戦争・日本海海戦)で
 どれほど役に立ったかしれない。」と

・司馬遼太郎は
「かつてここ(横浜造船所)は
 日本の近代工学のいっさいの源流であった。」
 また「小栗は明治の父」とも記している。

 


旗本 佐野善左衛門

2021-05-21 | 人物忌


 (千代田区三番町12 大妻女子大学前)


5月21日は 
旗本 佐野善左衛門 が亡くなった日

 

佐野善左衛門は 通称で 本名は政信

1757(宝暦7)年に生まれ
 江戸時代中期 綱吉時代の旗本で
1784(天明4年4月3日)
  切腹により死去

その屋敷跡が
千代田区三番町にある。


説明文には

「 標識の後ろ側、
大妻学院の辺りには、
元禄11年(1698)から、
旗本佐野家の屋敷がありました。

佐野家は、禄高500石で、代々、
江戸城の警備を勤めていました。

天明4年(1784)3月24日、
ときの当主佐野善左衛門政言は、
江戸城中之間において、
老中田沼意次の子で若年寄の
田沼山城守意知に斬りつけました。

田沼意知は傷がもとで
4月2日に死去し、
佐野政言も翌日切腹を命じられ、
御家断絶となりました。

しかし、世間の人々からは
「世直し大明神」と
あがめられました。

また、佐野家の屋敷には
桜の名木があり、
番町の名物として知られていました。

 平成16年3月 千代田区教育委員会 」

とある。

犯行の動機は
意知とその父意次が先祖粉飾のために
藤姓足利氏流佐野家の系図を
借り返さなかった事

下野国
の佐野家の領地にある 
佐野大明神を意知の家来が
横領し田沼大明神にした事

田沼家に賄賂を送ったが
一向に昇進出来なかった事

等々 
諸説あったが
幕府は乱心として処理した。


その結果
田沼とその倹約令を嫌う
風潮があった市中では
跡継ぎを斬ったことを評価され
世人からは「世直し大明神」と
呼ばれて崇められた。

また 高止まりだった
米の相場は 偶然か刑の翌日から
下落し 財政は逼迫

やがて 1786(天明6)年の処分を経て
1788(天明8)年 田沼意次も失脚した。

ちなみに 
江戸城内での刃傷沙汰は
7件もあった。

  ①1628(寛永 5)年 
  ②1684(貞享元)年
  ③1701(元禄14)年 浅野内匠頭
  ④1725(享保10)年
  ⑤1747(延享 4)年
  ⑥1784(天明 4)年 本件
  ⑦1823(文政 6)年

      (参考:「武将ジャパン」)


切り絵作家 滝平二郎

2021-05-16 | 人物忌

「筑波夕照とさくら」
 (つくばエキスプレス守谷駅構内・2005年設置)

 

5月16日は 
切り絵作家 滝平二郎が亡くなった日


滝平二郎 (たきだいらじろう)は
版画家、きりえ作家、絵本画家

1921(T10)年 
 茨城県新治郡玉里村
(現:小美玉市)に生まれる。

1935(S10)年
 県立石岡農学校
(現:県立石岡第一高等学校)
 在学中は
風刺漫画に関心を
 寄せていたが
 卒業後は木版画へと向かう。

1942(S17)年
 造形版画協会第6回展に初出品
1943(S18)年 
 陸軍に入隊
1946(S21)年 
 復員 日本美術会に入る。
1948(S23)年 
 日本新版画懇話会が発足
 メンバーとなる。
1955(S30)年
 豊島区雑司が谷に移住

 木版画制作のかたわら
 装幀や挿画など本格的に
 出版美術の仕事を始める。
1968(S43)年
 第6回国際版画
 ビエンナーレ展に招待出品
1970(S45)年 
 第1回講談社出版文化賞
 ブックデザイン部門(「花さき山」)
1970~77年 
 朝日新聞の日曜版にきりえを連載
1974(S49)年 
 第9回モービル児童文化賞受賞
1987(S62)年 
 第10回絵本にっぽん賞など受賞

 児童文学作家・斎藤隆介
(1917-1985)との
名コンビによる
 絵本作品は多くの世代に
 読み継がれている。
 代表作に
 「八郎」(福音館書店1967)
 「三コ」(福音館書店1969)
 「モチモチの木」(岩崎書店1971)

 また日本美術会委員
 児童出版美術連盟会員などを歴任

2009(H21)年
 がんのため千葉県流山市の
 病院で逝去  享年88



JR常磐線・石岡駅構内に

「ふるさとの四季」をテーマに
4点のステンドグラスがある。
(2016年設置)


「春・つくしんぼ」


「夏・バスが行く」


「秋・赤とんぼ」


「冬・雪がっせん」

 

 

 


長谷川平蔵

2021-05-07 | 人物忌

戒行寺(新宿区須賀町9)

   長谷川平蔵供養碑

 

 

前回 池波正太郎の
「鬼平犯科帳」に触れたが
主人公・鬼の平蔵こと長谷川平蔵は
モデルとなった人物が実在する。

その人物は
長谷川宣以(のぶため・1745-1795)で
家督を相続して長谷川平蔵と名乗っている。

その菩提寺が須賀町ある戒行寺あり
境内に長谷川平蔵供養碑が建立されている。

 
碑の説明文には

「 池波正太郎の原作と中村吉右衛門の
テレビ時代劇で広く世に知られる
「鬼平犯科帳」の主人公である
火付盗賊改の鬼平と長谷川平蔵は、
延享3年(1746)江戸赤坂築地中之町
(現港区赤坂6の12)の拝領屋敷で生まれた。
姓は藤原、名は宣以。
称は初め銕三郎、後に平蔵といった。

寛延3年(1750)鉄砲州築地湊町に転じ

明和元年(1764)本所三ツ目通り
菊川町に移った。
父 宣雄が火付盗賊改のとき
目黒行人坂の放火犯を捕えて
京都西町奉行に栄進したが
わずか10ヵ月で急逝した。
その後、宣以が家督を継ぎ、
西城御書院番や御徒頭を勤め、
御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。
さらに石川島人足寄場を開設した。
軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、
工賃の一部を積みたてて、
出所時の更生資金に充て、
授産所として成功させた功績は大である。
寛政7年(1795)、50歳で病没、
当山に葬られた。
 
尚、当山には、鬼平の父宣雄ら
5人の火付盗賊改が葬られている。

安部式部信旨     
 享保9年 2月24日(1724・3・19)卒
桑嶋肥後守政恒 
 宝暦7年11月10日(1757・12・20)卒
山岡豊前守景之   
 明和3年 2月 4日(1766・3・14)卒
長谷川備中守宣雄 
 安永2年6月22日(1773・8・10)卒
菅沼主膳正虎常   
 寛改元年4月16日(1789・5・10)卒 
平成6年(1994)7月17日 釣 洋一 撰 」

とある。

長谷江川平蔵の概歴は

延享3年(1746)
 赤坂筑地中之町
 (現・港区赤坂)に生まれる。

 父は  京都町奉行に抜擢され
 従五位下・備中守となった宣雄(のぶお)

 母は 長谷川家に出仕していた女中。

寛延3年(1750)
 5歳の時に筑地湊町鉄砲洲
 (現・中央区湊)の屋敷に移る。

明和元年(1764)
 南本所三之橋通
 (現・菊川駅近く)に屋敷替え。

明和5年(1768)
 23歳で十代将軍徳川家治に御目見し、
 長谷川家の家督相続人となる。

  その後、旗本大橋与惣兵衛の娘と
 結婚し、二男三女をもうける。

安永2年(1773)
 父の逝去により家督を継ぎ、
    小普請の職を与えられる。

同3年(1774)
 江戸城西の丸御書院番士

同4年(1775)
 御進物番

天明4年(1784)
 御徒頭を任ぜられ 出世を続ける。

同6年(1786)
 御先手弓頭に任命され活躍

同7年(1787)
 火附盗賊改役に抜擢

寛政元年(1789)
 無宿人対策として寄場の創設を提言

同2年(1790)  
 石川島(現・中央区佃)に

 日本初の無宿人更生施設である
 人足寄場を設置し

 取扱役を命じられる。

 


小説家 池波正太郎

2021-05-03 | 人物忌

 「鬼犯科帳」(文春文庫)


5月3日は 

時代・歴史小説家
 池波正太郎が亡くなった日


池波正太郎は

1923(T12)年
 東京・浅草生れる。

 下谷・西町小学校を卒業後、
 茅場町の株式仲買店に勤める。
1942(S17)年
 国民勤労訓練所に入り、

 所内の訓練風景を描いた
 短文「駆足」を書く。

 戦中は海軍に入隊。
1946(S21)年 
 東京都の職員となり
 下谷区役所等に勤務

1948(S23)年 
 長谷川伸の門下に入り、
 新国劇の脚本・演出を担当

1960(S35)年
 「錯乱」で第43回直木賞受賞


・「鬼平犯科帳」(1968-1990)
・「剣客商売」(1973-1989)
・「仕掛人・藤枝梅安」(1973-1990)
 の3大シリーズをはじめ

・「おとこの秘図」(1977-78)
・「編笠十兵衛」(1970)
・「雲霧仁左衛門」(1974)
・「戦国幻想曲」(1970)
などがある。
また美食家 映画評論家としても著名
1977(S52)年
 吉川英治文学賞受賞

1986(S61)年
  紫綬褒章
1988(S63)年
 第36回菊池寛賞
1990(H2)年
 急性白血病で死去 享年

没後「完本池波正太郎大成」(講談社)刊行
1998(H10)年
 長野県上田市
 「池波正太郎真田太平記館」開館

2001(H13)年
 東京・浅草
「池波正太郎記念文庫」開設

 


  鬼平情景 料亭「井筒」(墨田区両国1)

 

 


小説家 大佛次郎

2021-04-30 | 人物忌


    (日本経済新聞 2003/12/13)

 4月30日は 
 小説家  大佛次郎 がなくなった日


大佛次郎(おさらぎじろう)は 
 本名 野尻 清彦 

1897年
 横浜市生れる。

 東京帝国大学政治学科卒業後、
 外務省に勤務

1923(T12)年
 関東大震災を機に外務省を辞し、
 文筆に専念する。

1924(T13)年
 「鞍馬天狗」シリーズ(47篇)開始
 前近代的大衆文学を刷新し

 その斬新な作風は急速に支持を得た。
 また「赤穂浪士」を
 東京日日新聞(1927-1928)に連載


歴史と社会に取材した作品を多く発表する。
・開化期の横浜を描いた「霧笛」(1933)
・戦前と戦後の日本人の
  心理を描いた「帰郷」
 (1950 日本芸術院賞受賞)

・パリ・コミューンの史料を
  駆使した「パリ燃ゆ」(1964)


1964(S39)年 
 文化勲章受章

1967(S42)年から死の直前まで
 朝日新聞連載のライフワーク
 「天皇の世紀」を執筆(1555回)
1973年 
   転移性肝臓がんにより死去
 享年75


横浜・港の見える丘公園に
大佛次郎記念館がある。

作家の野尻抱影
(正英・1885-1977)は兄

 


  (Webから)

監督:大曾根辰夫 (1951・S26)
嵐寛寿郎 美空ひばり 月形龍之介

嵐寛寿郎(アラカン)が演じる
神出鬼没・正義の剣士  “鞍馬天狗”が
角兵衛獅子の杉作を助ける・・・

 

 

 


西洋農学者 津田 仙

2021-04-24 | 人物忌


 (千代田区大手町)

 

4月24日は 明治初期の西洋農学者
 津田 仙 が亡くなった日


津田 仙は

日本の農学者 キリスト者 
学農社創立者
青山学院大学の創立に関わる。

 新島 襄(1843-1890) 
 中村正直(1832-1891)とともに
“キリスト教界の三傑”とも

次女に
津田塾大学創立者
津田梅子(1864-1929)がいる。


1837(天保8)
 下総国(千葉県)佐倉藩士
    小島善右衛門良親の四男に生まれる。
   幼名 千弥

1851(嘉永4)年
 元服して桜井家の養子となる。

1857(安政4)年
 江戸に出て蘭学、英学を学ぶ。

1861(文久1)年
 幕臣津田家の初子と結婚して
    婿養子となり
    外国奉行通弁に採用される。

1867(慶応3)年
 勘定吟味役 小野友五郎の随員として
    福沢諭吉(1835-1901)らとともに渡米
    西洋農法に感銘を受けて帰国
1869(M2)年
 築地ホテル館に勤務

1871(M4)年
 北海道開拓使嘱託となり

 開拓次官の黒田清隆(1840-1900)が
    政府が派遣する岩倉使節団に
    女子留学生を随行させることを
   企画すると、
娘の梅子を応募させる。
1873(M6)年
 ウイーン万国博覧会に出席

1874(M7)年
 「農業三事」を著し
  花粉媒助などによる
  米麦の増産法を提唱
1875(M8)年
 ウイーン万博から持ち帰った
    ニセアカシアの種子は

 大手町に植えられて
   東京初の街路樹となった。
1876(M9)年
 農産物の栽培・販売・輸入
   農産についての  書籍・雑誌の
   出版などを事業とする。
 「学農社」を設立
 その一環として 農学校も併設した。

 
  学農社発行の「農業雑誌」で
 アメリカ産トウモロコシの種の
   通信販売を始め
  これが   日本で
   最初の通信販売といわれている。
1880(M13)年
 「北海道開拓雑誌」を発刊
   西洋農法の普及に努めた。

  このころキリスト教に入信
 
  青山学院の前身になる
  学校組織の創設にも関与

1897(M30)年
 以降は事業を次男に譲り引退し
 禁酒・禁煙運動などの
   社会活動を行った。

1908(M41)年  
  東海道本線の車内で脳溢血にて死去

 享年72

 

 


青山学院大学(渋谷区渋谷4)