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なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

「お彼岸」から

2007-03-25 03:19:56 | Weblog
 うとうとしているとどこかで「ボタモチ」が食べたいといっている声が聞こえる、「秋はオハギ(=萩)で春は牡丹なんだよ」と息子に説明している。
 ついでに「”粒”より”こし餡”が好い」と抜け目無くリクエストまでだしている。
  私の母の生前の手作りは「粒餡」に決まっていたが、これは田舎のボタモチなのかな?
 「重箱に牡丹の花のように並べて塩を一つまみ添える」「秋のオハギには萩の一枝だったか上に乗せる」・・・それを近所に配ったものです。
 目が醒めきっていない意識の中で、「確かにそう呼ぶけれど、秋の萩は季節に合うけれど、牡丹は花札でも6月だったような・・・」などと考えているうちに、どこかで意識がジャンプして”ああ今は春のお彼岸だった”と気がついた。
 
 この季節はもし個人的に記念日を作るとしたら非常に記念日が錯綜する1週間になりそうです。
 もし勤勉な人なら?近所にご先祖のお墓があれば、墓参りも予定に入ってくるだろうが、我が家は父の出身の家から見ると分枝の分枝なので、まだ仏様はいないので、まずは1番の記念日はは女房殿の誕生日となる。
 これは、年を気にする割には誕生日を祝ってもらうのが好きだから私にとっては不思議、2番目は春分の次の日辺りが結婚記念日、但し三十数回目ともなると大分風化していているから余り気にならないらしく祝う習慣が無い。
 3つ目は私たちの結婚式の1週間後に親友の結婚記念日・・・彼の結婚式では親友代表ということで司会を勤めたのですが、彼は39才で亡くなった。
 彼とは大学の友人で、(学科は違うけれど)同じ学部で同じクラブ、よく二人で山を歩いた仲です。
 彼の奥さんはクラブの2年後輩で家の女房殿とは同じ学部の顔見知り。
  彼の家は県内にあったので、よくお邪魔して彼のお母さんにも自分の息子以上にお世話をかけました。
 その彼の死に目には会え無かった・・・生前、見舞いに行けなかった。
  彼は夏に病気が発見され、その後劇的に進行して年を越すと直ぐに逝ってしまいましたから、健康診断で病気が発見されてから5ヶ月足らずです。
 数度の手術も効を奏さず、いよいよ危ないという時に家族は私に会わせたいと考えたそうですが、私の住所連絡先は彼しか知らなかった・・・
 私のところへ知らせが届いたのはお通夜の前日のことでした。

 駆けつけたときに彼の奥さんの目から涙が一気に溢れ、私にしたってどんな悔やみの言葉も出てきませんでしたから、無言で遺影を見つめるだけでした。
 そういうことがお彼岸・お盆・命日など折に触れて思い出される。
  私は郷里を離れて暮らしているので自分の両親の死に目にも会えませんでした。
 それは地理的な問題もあるし、仕事上直ぐには駆けつけられないこともあるので日頃から「そういうこともある」と話していて兄弟、親本人などから暗黙の了解はあった。
 しかし友人の場合は同じ市内の病院に入院していたという。

 話が替わって「碁打ちは親の死に目に会えない」という言葉があります。
  本当の意味から少し変質して「競馬好きは・・・」とか「マージャン狂いは・・・」と都合のいいように言い換えられています。
 競馬が好きな人は、親が少々具合が悪くても”万難を排して?”出かけてしまうし、連絡しようにもアノ人数ですから・・・
 マージャンの場合も、何処で遊んでいるか解らない場合が多いし、基本的に”徹夜”だから探しにくい。
 でも碁の場合はこういうこととは違う筈です。
  ”親の死に目に会えない”のではこちらが本家かも知れません
 本来は江戸時代の「お城碁」から始まった専業棋士の話ではないでしょうか?
   もともとは素人の碁とは関係ない
  これは寺社奉行の役宅で下打ちしたものを、しかるべき日に江戸城黒書院で並べる・・・この際に時として上様の御成りもある。
 そんなことだからお城碁は勝負であると同時に公務であり、一連の行事から抜けることは許されないのですね。
 碁の家元は幕府に公認され、禄も貰っているのですから「晴れ姿」であり「絶対の義務」だったでしょう。
 親が少々具合が悪くても休めなかったでしょうし、対局中に親が危篤になったとしても家族は知らせたりしなかったでしょう。
 知らせたところでどうしようも無いし、勝負としては寧ろマイナスになりそうですね。

 ともかく私は親の死に目にも親友の死に目にも会えなかった。
 その代わりといってはこじ付けですが、母から「一期一会」的な気持ちを教えられている。
 何かをする時・誰かと会うとき、それが後で振り返って見て後悔が残らないようにということで、もしそれが”最後”であったとしても悔いが残らないように・・・言葉にすると当たり前のことで、特別なことではありません。
 もしそういうことを考えて行動しているのが周りから透けて見えたら逆に怖いかもしれませんが、でもそういう時代が日本にもあったという母の話です。
 母の教えはその時代の教訓です。
  戦争中のことですから、私が生まれる以前のこと。
 朝、家を出てその日無事に家に帰れるかどうかの保障が無い時代・・・明日どころかその日のことがわからない頃、そういうことからの教訓らしい。
 母の教えは「出かけるときは必ず行って参りますと言う事」でした。
  全く当たり前のことですが、「必ず家に戻ります」という気持ちが込められているのだそうです。
 間違っても、冗談にでも「サヨナラ」はいけない・・・本当にサヨナラが現実になってしまった時代からの教訓です。
 母は”言霊”みたいなものには五月蝿い人で、「噂をすれば影・・・」「縁起の悪いことは言わない」ということです。
 小さな頃から五月蝿く言われていたから、この年になっても「サヨナラ」には多少の抵抗感があるのです。
 例え旅先で「二度と出会わないだろうな」と思われる人とでも・・・
  「ではまた(どこかで)」「失礼します」「お先に」「お疲れ様」などなど代わりになる言葉はたくさんあるので、それで間に合わせている。
 イジメの言葉では「サヨナラ」を拒否として使うらしい・・・怖いけれどなんとなく意味としては通じるみたいな気がする。