なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

ピラカンサス

2009-02-22 15:12:59 | Weblog
 ピラカンサス、あるいはピラカンサ、どちらでも良いらしい。
  通勤路の途中の公園の生垣がピラカンサスで、ぐるっと囲まれているので冬の初めごろにはあの赤と言うかオレンジ色の実がたくさんついて、それなりに彩りになっています。
 ナンキンハゼなどの紅葉した葉が木枯らしで飛ばされてしまう季節では、町の中の自然の数少ない彩です。
 前にも書いたことがありませすが、この実は人間も食べませんが、動物や鳥にとっても食用に適している様には見えません。 
 と言うのは、実りの秋とか自然の恵みが残されている初冬では鳥たちも決して口にしない・・・要するに美味しくない?のだろう。
 ところが、最近気がついたのですが、公園の生垣のピラカンサスの実が8,9割無くなっています。
 それも全体的に少なくなったとのではなく、8,9割の木の実が失われている形です。
 自転車で横を通るにで気をつけてみるのですが、どうも地上に落ちている実は見当たらない・・・やはり鳥が食べているようです。
 実際に生垣に留まっている鳥を見かけるようになりました。
  と言うことは、他に食べるものが無くなって、仕方なく食べているのだろう。
 今は1年で一番自然の恵みが乏しい時期ですから、ありそうなことです。

 そう言えば最近見た韓ドラの時代劇でも、飢饉のときの非常食で松の甘皮の食べ方の話が出て来ました。
 日本で言うと一番最近では戦中戦後すぐの話ですが、幸いと言うか私には実際の経験と言うものではありません。
 その時代を経験した人と、経験の無い人では同じものを見ても感じ方が違います。
 例えば最近よくイベントなどで話題になる”すいとん”なども、母など生前は”暗い時代を思い出す食べ物”であり、味以前のものがあったようです。
 ですから同じ様に非常食、代用食として使われていたような野菜などもいい顔はしませんでした。 
 里芋の茎などを見ると顔をそむけたものです・・・私は嫌いではないのですが、母は見るのも嫌だったようです。
 蓮の実などもそういう種類でしょうか、あるいはあまり手に入らなかっただけでしょうか、あれも嫌いではないのにめったに食べられなかったのです。

 母にとっての里芋の茎は、私たちにとっては給食のコッペパンだったりあの粉ミルクでしょうね。
 あれしかない時代ですから好き嫌いは言えないのですが、少なくとも「好きで食べた」とは言えないようです。
 そういう意味ではピラカンサスの実に繋がって来ます。
  まあ、孝行息子でもないのに母親を思い出すと言うことは私も年を感じますし、そういう季節なのかも知れません。
 
 さて囲碁の方はドン底的な時期を脱することができたのかも知れません。
  10以上負け越した後に5連勝があり、6連勝はできませんでしたが、その後に連勝。
 勝ちにこだわるのはどうかとは思いますが、それでも連敗をしないと言うのは大切ですね。
 何と言っても、10以上負け越した直後ですから・・・
  ザルクラスでは、内容は大事だとは思いますが、結果としての「勝つ」あるいは「負けない」と言うことも大事ですね。
 負けがこんでいる時は、結果に「弱くなったから勝てない」と言う不安との戦いでもあります。
 逆に勝てるからと言って「強くなったわけでもない」とは思うのですが、やはり気持は明るくなるのですからいい加減なものです。
 負けが続く時のピラカンサスが無いといけませんね。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿