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セカンドライフ 

歳を重ねるのも悪くはない

シルバー大学 歴史コース④

2010-06-07 | セカンドライフ
武家政権の成立~鎌倉時代を考える~

6月3日
講師 本郷 和人 氏 東京大学史料編纂所 准教授
          
今回も弁舌さわやか、中世の歴史の講義が出来るのが嬉しくてたまら無いと言う様に
受講生を笑わしては喜んでいる。
「頼朝は冷酷と皆は言うけど私はそう思わないね。だってね北条政子なんて悪いけど顔だって
××で魅力だってないんだよ。それなのに、他の女性とどうこう有るわけでも無く一生妻として
傍に置くんだよ。
考えられないでしょ?武士としても最高の地位に有る人が・・・まるで僕の様だ。」

と話しながら時には「家の奥さんは人望が有って可愛いから教授になったんだ。僕は人望が無いんだよ」と肩書を気にしたり・・・・

歴史の事は研究していても恩師や教授と考え方が違うんだよ。辛いんだね~例えば源平合戦だってそうだ。
必ずしも源平だけでは無く常に戦いは各地で有りこれは各地の武士がおこした独立戦争なんだ・・・・

など拘りの有る事には、証拠はここに有るんだよ、なんて嬉しそうに文書(モンジョ)を見せたり
一生懸命に説明をされる。

不思議な事に笑いながらの方が当方の頭にもスーッと入って来るから不思議。
源氏の家系図20名位を何も見ないでパパッパと板書をしてしまうあたりは凄い。
そして源氏は身内同士で皆殺し合いをしてしまうのを説明しながら☓を付けて行く。

権力争いの凄まじさを思わせられる。
頼朝はこううして統治権的支配権のレベルを向上して行った。

  右下のサインは頼朝の直筆

手柄を立てた家来に将軍の新恩給与として担当に書かせ色々な指示をした文書
右上の下(クダス)と言う文字がそれを意味し文書は保管する。

当時は余り文字を読める人も居なかった様だがどうしてこんな美しい文字を書けるのだろうと
不思議に思い、講師の話が耳に入らない程文字に魅せられてしまった。

シルバー大学 歴史コース③

2010-06-07 | セカンドライフ
鎌倉時代を考える~②の講師は東京大学教授 本郷恵子氏だったが、先生は終了後
来週の本郷は私の夫でございます。皆さんよろしくお願いします・・・・・と頭を下げて居られた・・・・

5/27分
講師 本郷和人氏 東京大学史料編纂所 准教授 
         聖心女子大学教授

  先生と奥様の本郷恵子教授は①回目の五味文彦氏の研究室で師と仰ぎ現在も仲良く研究を
  続けて居られるとの事。
  奥様が教授でご主人が准教授、共に同級生だと言う事なので共に肩書を拘っていらした。

  和人先生の肩書は生徒の立場から見るとそれ程重要では無く、どんな学習が出来るかの方が大事。
  共に50歳に近い40歳代なのでいわば一番脂ののっている時と思われる。

  和人先生は五味先生と共に「吾妻鏡」の現代語訳を執筆中で既に8冊は書店に出ているそうで
  吾妻鏡(アズマカガミ)の話題の時は殊更嬉しそうに弁も滑らかに声はさらに大きく熱弁になる。

  先生はテレビでも時々話をされるらしく、生徒の中にファンの方もいて人気も高い。
  私は奥様の落着いた語り口が好感が持てるがいかにも教授然としていて現役の方と言うタイプ。
  
  鎌倉時代と言えばイイクニツクロウ1192鎌倉幕府と社会の時間に暗記をした事は懐かしい。
  これに至るまでに凄まじいまでに合戦の歴史が有り簡単に説明をされた。

  ○石橋山の戦い(1180.8.23)源頼朝 vs 大場景親.伊東祐親ら
   頼朝の弓の腕前 伊東祐親との因縁  佐奈田与一の奮戦 梶原景時

  ○富士川の戦い(1180.10.20)源頼朝 vs 平維盛
   甲斐源氏の動向 斎藤実盛の東国武士観  水鳥
  
 ○墨俣川の戦い(1181.4.25) 平重衝 vs 源行家 義円(今若丸)
   尾張・美濃国境の墨俣川(現、長良川)
   東と西 尾張源氏

  ○篠原の戦い (1183.6.1)  源義仲  vs 平維盛
   加賀市篠原町
   倶利伽羅峠の戦い  牛に松明 斎藤実盛との因縁 能の演目に

  ○平家都落ち (1183.7.25) 平家一門の内部事情 平宗徳の惣官職

  ○水島の戦い (1183.10.1) 備中水島(倉敷市)
   寿永2年10月宣旨(10.14)法住寺合戦へ

  ○宇治川の戦い (1184.1.20) 源範頼・義経 vs 源義仲(戦死) 
   宇治川の戦陣争い

  ○一ノ谷の戦い(1184.2.7) 源範頼・義経  vs  平家軍 屋島へ逃げる

  ○屋島の戦い(1185・2・19) 源義経  va 平宗盛→壇ノ浦へ逃げる

  ○壇ノ浦の戦い (1185・3・24)  源義経  vs 平宗盛 敗れる

 こうして止めどなく戦いは続いた。
 当時の日本人口は約800万人 1600年関ヶ原の戦いの頃は1000万人
 中世の人口は飢餓・疫病・戦い等により人口は増えなかった。

 源頼朝が武士として尊敬された事には弓・馬(馬に乗って弓を射る)に秀でた能力が有った。  
◦ 武士の価値としてはこれらが苦手の侍は価値が無かった。

 源平争乱の勢力範囲 1183年(寿永2年)現在 源義仲は北陸・山陰 頼朝は東海・東山
 平氏は山陽・南海地方をそれぞれ支配下におき三者対立の形を示している。
 陸奥には藤原秀衝が大きな勢力を持っていた。(2010.5.27講義レポート)