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あげちうのブロマガ

理不尽な死の道理を探す奈落

考えると答えのない奈落に落ちていく感覚はある。そこで邪は育つのだろう、良く解る感じ。

例え漫画であるとしても、「殺した」と言う事には当然の反発、それは向いてくる事には。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

「まだ直してないんだね、ここ」とか、交通事故の現場は時々ある。

 

それは、良くある会話、ではあろうか。

「なんで(このキャラ)殺したんです?」
「いや、ウケると思って」
「死ねよブタ野郎」

昭和の方がもっと酷かっただろう、ゲームでも「魔界村」なんか、プレイヤーの90%以上は姫も救出できず自分も白骨死体がエンディングでしかない。「これ漫画だから!」と、「プレイヤーの一人でも姫救出に到達すれば、”他”の可能性は全部悪夢です」的な理屈で回避は出来る、が。良くも悪くも同人と言う領域の問題ではある、直筆とコピーの区別がつかない、意識はそんな環境ではある訳で。

…結果、上の例が頻発する事には成る訳だが。

「ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・ザ・キングダム」でも、ひと昔前なら?エンディングにゼルダ姫は居ないかもしれない。若干?か、シナリオライターにも不満が垣間見えたりする雰囲気もある…ともかく今、「売れる」上では、こういう問題は可能な限り避けた方が良い、気はする。ただまあ、60代を擁護する、という事はそれ以前に”こういう過失”を繰り返したかの存在に、生存権を与える、みたいな絵も出てきちゃう面倒ではあって。声にするとかなり剣呑な物が、混沌とした領域で渦巻いているのはまあ、確実ではあり。

幸か不幸か、それ以降の世代はまあ、社会から否定された人々が一定数居るくらいで?”こう言う話”には多少は無関係さ、それはある訳だけど。「売れなくなった」のだ、だから、加害者になる事も少なくなったが。

ただ「無関係だった」と言うだけで、実際には社会にも関係性、何かの権限、”それ”を持ててないのも実感としてはある。ともかくまだ、世界の関心?打開すべき話の中心は、60代とその文化にはある訳で。そこでの正邪選抜は、何かの深刻な命題として、不意に残っては居る。

飯塚幸三氏の事故に巻き込まれて死んだ母子もまた、「なんで?」それは残したままだ。

今後はしない様に、という抑制は掛かりつつある様な気はする、が。「という訳で以前の過失は不問に」と、言う訳にも行かないのが感情論、ではあって。因果の結果は、その理解は酷く個人的な視点だったりはして、第三者の納得も難しいのが現状と言うべきか。運が悪かった、だけで、過去に起きた類型の事例を、例え漫画の話としても許せるのか?神を恨み始めるそれは、深刻な魔物と化していく、訳だが。

「貴方が描いたんでしょう?その漫画」
「ウケたんだからいいでしょう」
「じゃあ、貴方が殺したようなものじゃないの」

作家は、”この位の”覚悟で、作中の不幸は考えるべきではある、のだが。

それを言い出すと、売れる人、というのは非常に限られていく事には成る、のかもしれない。”神”も、祈祷されないと視線を向けない。神を信仰しない人、というのは不幸に遭遇しやすい、というのはまあ…ある。考えていくと、どんどんと現実がゲームの世界に成っていく、様な。神に選ばれた勇者にしか、世界は変えられない。それ以外がそれ以上を望もうと、それは魔物として世界に害を成しつつ勇者に倒される、のが定めだ。世界は間違っているのか、或いは。

「要らない人」を作ったのは、果たして誰なのか。

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