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あげちうのブロマガ

足の生えた蛇を探しに行った無能

それでも、それは余裕が出てきた、そう言う話なのだろうか。

「才能」その捉え方も価値観で有り、何かの境目はあった訳だが。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

「居なかったんで、自分が足の生えた蛇に成ったんだ」間抜けは見つかった様だな的な

 

不意に「才能の無い奴はね、無駄が嫌いなんだよ」と、そんな煽り文句かが思い付いたりする。「蛇足」と言う古事の逸話、その境目と言うか。才能が有る奴は、「蛇を描け」と言われると蛇を緻密に描いて更に、その周囲の生活環境や捕食する対象まで絵の中に書き込んで時間が足りなくなったりする。ない奴はこの時、蛇の輪郭だけ描いて、そこに足を足してしまう。「余計な事するな、蛇を描けと言ったのに」仕事が出来ない奴、面倒を起こす奴の、”これ”が特徴かもしれない。もちろんだが前者は呆れつつも褒められ、後者は叱られる、後者は納得できなかった、今までは。

才能がない=無能、という感覚には、自分は成れなかった、が。世代の良識その変化、そう言うのはあるだろうか。ともかく一般論では「才能がない」は無能と同義だった訳で、そこに境目はあり正論もあった訳だが。一応、”そこ”に知見を得た、というのは一つの収穫かも知れない。

才能が有る奴は、無駄な事が好きである。無い奴は嫌いだ。

そう意識して世間を見ると、なんとなく状況への打開が見えてくる、気には成る。

そう言う視点では、AI絵、というのは限りなく「余計」に近い無駄、ではあるのかもしれない。今の状況ではぎりぎり「微妙」と言う評価ではある、ダメまでは入らない。「絵を描いて?」が要求なのに、機械に描かせたら”それ”は絵を描いた事に成らない、訳だ。ある意味での無駄を嫌う効率化の帰結としてしかし、一応まだ「無駄」の範疇ではある。

今まで、「無駄な事をするな」に対して、無駄ではない理由、を提示して凌いできた、訳だが。

その要求その物を抑止出来そう、というのは今後、ちょっと大事な話になるのかもしれない。

先日の話、「どうやったら職のある80人からお金を集め、”それ”が必要な物を作るという仕事を創り、失職中の20人に与えられるか?」の、その出口、というか。「無駄な事をするな」の価値観では彼らには回らない。「才能がない奴は、無駄な事が嫌いだ」の価値観では、”彼ら”へお金を廻す事が出来る様になる。

その時、そこには失職者のいない環境が誕生する、訳だが。

そう言う意味では、あの三重交通のイメージキャラへの騒動、それも「無駄が嫌い」と言うそのベクトルでの反応だ、とは言える。余計、「これじゃバス会社じゃない」までは行かない無意味。蛇足っぽいが、他に迷惑が有る訳じゃないそれを許容できない、それが今の深刻さ、だろうか。一般論が無駄を許容できない訳で。

騒いでるのは、才能がない奴らだよ。

侮蔑もまあ、抑止する上では大事なイメージかもしれない訳で。

陰極まれば陽になる、逆も真なり。太陽が有る時、太陽に近い所は栄えるがない所は死んでいく。逆に太陽が無ければ全ては平等だ。光を知識を用いて自ら創り出せるなら、栄えるか否かは個々の努力に過ぎない。この時平等、それは何処にあるだろう?だ。エジプトの太陽信仰は滅んでしまった?が、お金は今も、世界を覆い巡り続けては居る。

ともかく今、世界を救うためにもか、「才能が有る奴ら」には、頑張ってもらうしかない。

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