マクロで考えると?実は深刻さのある事態にはなる。
「Aが売れた!」となると、亜流が山ほど出てしかし、そのほとんどが損失を出すのだ。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「これ、お母さんです」とか、ちょっと混沌に戦慄する何か
その山の様な亜流が産んだ損失は、結局はAの発生させた利益を帳消し…いやマイナスにさえしかねない。
「ガンダムSEEDフリーダム」が大ヒット、して。個人的な視点では「独裁創作でも売れる」様な、そんな結果の一つみたいになってしまった?事態には多少、懸念はある。今回の成功に関しては作者自身の苦境というかと?それでもやらねば成らない、という現実の事態の結果として齎された成功、未来ではあり、「この作品が売れる構成だったから」と言う事態ではない、と思った方が良い、気はする。今の必需だ、「喪失に対して埋める方が評価される」それがうまく行ったに過ぎない、自身が或いは苦境の中で、必要な物を求めた、その果てに”それ”が埋まった、だけではあり。
勝者が、勝者による、敗者の無様を笑う様な?そんな作品では…まあ多分、売れない訳で。
自分はどうしても芦原氏の自殺に関しては、芦原氏自身の主張、その暴走という視点で見てしまうが。ともかくドラマ化に成る様な成功であり、その先まで自身の自由を!とか言ったら割と過剰には成る。その時、「うん全然だめだねぇ」みたいな否定が、それに対して”安全”を提供してくれる、場合があり実際、「ドラマ化」などはそう言うニュアンスの方が強かったりする、気もしないでもない。成功者が成功者の為に作品を描いては意味がない、訳で。前に出た作家は、相応に自分が特権階級になった、責任が変わった、自分より世界を、そう言う意識を持つべきなのでは。
…バランスの問題かもしれない、この対立に関しては、ドラマ脚本側はまあちょっと、分が悪いというのは。
ともかく?今の自由市場経済でなくても、「今まで100人で行っていた仕事が、80人で出来る様になった!」事がその場の発展、みたいなイメージには成る、が。しかしマクロではその時、20人は失職している、のだ。その失職した人々に「働け!」は理不尽だ、仕事がないのだ。これを打開するには?勝者80人側からお金を集めて、敗者20人側に「こういう物を作ってほしい」的な仕事を形成して与える、必要がある。それは今、もちろんか税金をどう使うか?で可能な訳で政治家は、そう言う面に腐心せねば成らないだろうそれはともかく。「ガンダムSEEDフリーダム」は、なら”それ”が結果論でうまく行っただけで、表面的に真似てもそれはダメ、だ。
しかしともかく、その「職のある80人側」が必要とする、「職の無い20人側」に出来る事って何だろう?ではある訳だが。今の状況では、職のある80人側は、職のある80人側にとって必要な事しか創案しようとしない、それは、深刻に問題になる意識ではある。政治家が意識を変えるべき、なのだ。税金をどう使うか?その使い方で税収の改善や状況の不満その打開は出来る。まあしかし、これもまた、テキストの無い話ではある。
国家レベルでの最下層を経験した昭和天皇が居なくなった、それは、やっぱりかなり深刻だったのだ。
ともかく普通の人は、やっぱり「親族に生活破綻者がいる」と言うそれを、そのまま放置して笑う事は出来ない、それは重大な事実として認識するべきではある。上の人間が切り捨てを選択する時、それは今、安直に全体を不幸へと導いていく、訳だ。上に立つのなら、”それ”を真剣に考えねば成らない、自分の生活の為にも。
作家はそれでも、「上に立っている」その、自覚は必要だろうか?